★ちゅーしないと具合悪くなる話④「夏目くん、いますか」
力の加減が出来ず思い切り保健室の扉を開けてしまい、廊下にその音が響き渡る。
自分の大きな声が部屋に拡がった。
正面の窓際、大きな窓にはカーテンが引かれており柔らかい光で部屋が照らされている。
―――人影はない。
保健室の先生も、夏目の姿も見えない。
ここにいると聞いていたので急いで来たのにと思いながらとりあえず保健室に踏み入った。
「……夏目?」
扉を閉めると、外の音が遮断されてしんとする。その中で、くすくすと笑う声が聞こえた。
「田沼、ごめん、いるよ」
笑いを堪えているような話し方。
夏目のほかに人の気配はしない。先生もどうやら不在のようで俺にはここに二人きりだと思えるのだが、本当のところはわからない。
ベッドがあるところにはカーテンが引かれていて、どうやら使用中だった。そこから声がする。
「開けて良いか」
「ああ」
息を整えて、そっと開けてみるとちょうど夏目が起き上がるところだった。
見てすぐわかるような外傷は見当たらない。
ほっとして、深く息を吐いた。そばにあった丸椅子を引き寄せて腰を落ち着ける。
「大丈夫か? 倒れたって聞いて」
「大袈裟だよ、鼻血が出ただけなんだ」
恥ずかしい、と言いながら夏目が鼻を押さえた。
どうやらもう止まっているようだ。ベッドサイドに血が付いたジャージが畳んでおいてあり嘘をついているわけではないらしい。
本当は、もっと大けがをしたけどおれに何か言われるのが嫌だから鼻血だと言ったんじゃないか、と少し疑ってしまったことに罪悪感が湧いた。
「ところで、なんで今笑ってたんだ?」
鼻血をだして倒れていた割に、夏目の表情は明るかった。
部屋を見渡してみたがおれと夏目しかいないようだし、そうなると近くにおれには見えない誰かが居るのかと思ったのだが。何かを探しているようなおれを見て夏目が「違うよ」と遮った。「見えない誰かが」いるわけではない、という意味だろうか。
「田沼のさっきの、入って来方が面白かったんだ」
ふふ、とまた笑って見せる。
なるほど。
「おれが、お前を心配して走ってきたのが面白かったと」
「だって、夏目君いますか! だぞ」
「それは保健室の先生に向かって言ったんだ」
不在だったが。
確認するより先に声が出ていたのだから仕方がない。でも、たしかに思い返すと面白いなとつられて笑ってしまった。
「ありがとう。来てくれて」
「……だって、おれなら」
言いかけて止める。
言い方がよくなかった、気がした。
まるでおれだけが特別のような、言い方をしてしまったんじゃないか。
自意識過剰と、言うか。これでは自分が夏目の特別であると考えていることばれてしまうんではないかと思ったので最後まで言う前に口を閉じたのだ。
なのに、目を細めてまた笑いながら夏目が口を開いた。
「田沼が居てくれると助かるよ」
笑っている。
おれの考えていることが聞こえていたんじゃないだろうか。欲しかった言葉がこれだったのだと気付かされる。
きっと他意のない、純粋な感謝なのだろうに、おれは。
いいように解釈して勘違いしてしまう。おれを必要としてくれている夏目がいるのだと。
途中で話すのをやめたのにこれでは意味がない。
顔が熱くなるのが分かる。これではこの気持ちがばれてしまうんではないかと、恐くなった。
どうもここ数日おかしい。自覚している。
夏目にこの不思議な症状が出始めて、関与するようになってからおれの気持ちもどうやら変わってきているようだった。自覚、している。
夏目を助けるはずの行為だったのに、自分の気持ちが付いてくるようになってしまった。それも伝えられないようなものが。
そうなると恥ずかしくなってしまうのも仕方がないと思うのだが、それを態度に出してしまったらもう戻れないことも分かっていた。
平常心。
これが一番いい形。
遠くで授業が始まる鐘の音が聞こえる。
おれには授業を抜ける正当な理由がないから、帰らないといけない。「鼻血を出した友達に付き添ってました」などという言い訳はツッコミどころがありすぎるように思う。
「してもいいか?」
「えっ」
「具合、悪いんだろ」
本題。
学校で倒れたりして、他の助けが得られない場合におれが助けるという約束。
そのために、ここに来たのだから。
「ポン太が来るまで待つのか」
「いや、それは」
今日は連れてきていないようだし、笑ってはいるものの顔色はあまりよさそうには見えない。無事家に帰るにはやはり、するしか、ないように思う。自分の邪な感情を抜いても。
「ニャンコ先生は、たぶん、来ないから」
その、ともじもじしている。
言いづらいのだろう。
自分から、「キスして」と言わなければいけないんだから恥ずかしくもなる。
こんな夏目を見て、この邪な感情を持って、何を考えているかなんてもう伝わってしまっているんじゃないか。
恥ずかしがる夏目のその顔が可愛く見えて、おれも笑ってしまった。
背後で、がら、と扉が開く音がしてヒールのような足音が聞こえる。
これは学生の靴音ではない。保健室の先生の足音だろうとすぐわかった。
夏目と目が合い、帰ろうと席を立つ。椅子ががら、と音を立てた。
「ありがとう、田沼」
これは「来てくれて」ありがとうだろう。
見上げてくる夏目の、耳が赤いのが見えた。
頬にキスをして。
「……ありがとう」
今のは「助けてくれて」だろう。
夏目はありがとうを繰り返した。
至近距離で目が合って、そのまま口にも押し当てる。
すぐ離れて、そのまま目も見れず「お大事に」と言い捨てるようにしてカーテンで区切られたその空間を出た。
やはり保健室の先生がいて、頭を下げる。
「失礼しました」
逃げるようにその場を離れ教室へ向かう。
やってしまった。
一瞬。
一瞬のことだったが、夏目のためではなく自分のために、口に。
誰もいなくなった廊下を小走りで進んでいく。どうしようもない気持ちが溢れている。
少しの後悔。
どうせやるなら、もっとちゃんと、するべきだったと後悔。
夏目の顔もちゃんと見ておくべきだったと後悔。
嬉しい気持ちと後悔、後悔、後悔にのまれそうだった。
だが、これが暗い気持ちではないことは確かだった。