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    ex_7fold

    twst作文置き場(支部から移行中)
    🐬🦈と🐚時々💀
    横書きと縦書きで迷走

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    ex_7fold

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    ハロウィンから双子バにかけての🐬🦈中心🐚寮騒動記。

    ※🐙もモブ寮生もたくさん喋ります
    ※設定はどれもすべて捏造です
    ※ハリ〇タ設定が混載しています
    ※ハロイベ→双子バ2020→本編3章を時間軸にしています
    ※双子バパソスト等の内容は考慮していません
    ※🐙から🐬への暴力表現が含まれます

    ※10月のオンリーで加筆修正のうえ紙の本になる予定です

    #ジェイフロ
    jeiflo
    #オクタヴィネル
    octavinelle

    みなそこの温室三千世界すべてのくちが開き、線引きが曖昧になる夜がくる。隣に立つのはきちんと知る輪郭か、陽炎のように揺らめいてはいないか。確かめる術を知っていないと暗がりに掻き消えても気づけない。

    「誠に恐縮ですが、自撮り棒のご使用は周りのお客様へのご迷惑になりますので……」
    「なに~?いいじゃないですか~スタッフさんにお手伝いしてもらわなくていいんですから~」
    「いえ、そうではなくて、危険な薬品も多いもので、あっ!」

    自撮り棒がフラスコに触れて甲高い音が鳴る。シルバーの細い長物を直接掴むわけにもいかず、空中を彷徨わせるしかなかった手はなんとか間に合って瓶を破損せずに済んだ。

    「あ~ごめん、ごめーん、お兄さん反射神経いいね~!」

    緊張ともどかしさに喉がヒューと鳴りはじめる。自分は人間のはずだのに、獣のような音だ。湿る目尻が恥ずかしい。いまだフラスコの中でたぷんと揺れる液体が脳の沸点を表すゲージのように思えた。
    初めて対峙する新種の生き物、いやこの厄介さはモンスターだ、魔法生物のほうが対処法がテキストに載っている分かわいい、いまいちど向かい合おうとする。体内の息を全部吐いて、入れ替えて、それがまるで自分の稼働音のように聞こえた。

    「なぁに?どうしたの?」

    吐き切ろうとした息が中途半端になった。モンスターたちのむこうに正真正銘の美しい怪物がゆらりと立つ。
    知っている限りこの場でいちばん恐ろしい細長いシルエットに、ひゅ、と今度は短い息しか吸えなかった。



    「大丈夫、ね」

    手の中を確認する言葉といっしょに、握りしめていたフラスコをそっと棚に戻される。自分にかけてくれたのか、フラスコへのものか判断のつかない声色だった。肩に触れているもう片方の大きな掌が一撫でしていく。

    「お客様、お楽しみいただいているところ誠に恐縮でございますが、このようなこともございます。自撮り棒のご使用はお控えいただけませんでしょうか?」

    ここにおいてありますのは、すべて本物危険な薬品ばかりでございますので。
    ピアスの涼やかな音だけを連れて間に入った先輩は、優雅に腰を折りやわらかな声で続ける。怪物の機嫌が極上のときだけに聞かれる蕩ける声色。
    モンスターたちのキラキラ彩られていた目がますます光を帯びた。

    「でっか!」
    「うそ、オッドアイじゃん、俺、初めて見た!」
    「めっちゃ、イケメン!」
    「いっしょに写真撮ってくださいよ~!」



    すげぇ~。
    まず最初に単純な感嘆の声が漏れそうになったのを、フロイドはなんとか飲み下して押し留めた。
    こんなに相手の話聞いてない人型初めてなんだけど。ひとの話を大概聞いてないモードになったジェイドでも、もうすこし言葉通じるんだけど。ラウンジでもこんな奴らは来ないなぁ。陸ってすげぇ~、うぜぇ~。
    フロイドは珍しくアズールが一息で吐く言葉の勢いで逡巡し、視線だけで室内をスッと見渡す。幸い、ピークほどの人入りではないが、他の一般客の数は片手では足りない。

    「他のお客様のご迷惑にもなります。お手数おかけしますが、一度いっしょにご退室いただけませんでしょうか?そちらできちんとご説明させていただきますので」
    「いいです、いいです~!俺らもういきますんで~!でもお兄さんの写真は一枚!」
    「スタッフへの許可のない撮影は……」

    不意打ちのフラッシュに思わず目を瞑る。フロイドと並ぼうとして身体を翻した別の客の手元は大きく振られ、話の焦点になっていた自撮り棒が今度はフラスコを強く引っかけた。
    カシャンとガラスが触れ合ってなる音と全員の声が出切る前に、二つが落ちて砕け散る。
    鋭い音に切り裂かれて一瞬の静寂。担当教官から頻繁に吐き出される舌打ちも思い出さないうち、

    「出ろ!」

    フロイドは目の前の薄い肩をいくつか掴む。きゃあという声にかまわず、先ほど咄嗟に背後に引き込んだ1年生の胸ぐらも掴み、出口へ押し出す。きょとんと騒ぎを見る他の一般客らにフロイドはもう一度声を張った。

    「全員外に出ろ!」

    退避を吼えるフロイドの声にまず我に返ったのはラウンジ勤務の寮生で、彼らに押し出されるように全員が薬学室を出た。寮生の点呼は三年生に任せ、ゾロゾロと歩いて緊張感のない一般客は見た限りでは揃っているけれど、とフロイドは中を伺う。
    特に蒸気などは上がっていないように見える。床の色までは変色しているかどうか確認できない。
    あの棚はなんだっけ……。

    「どうしました」

    頼りになるけれど、解決方法がいささか穏便でないトップ2人の声が遠く寄ってくる。一般客らに説明していた寮生の一人が説明を求められているのがわかった。
    あーぁ、できれば自分の手元のうちで収めたかったのにね。



    アズールにも破損を確認してもらい、貴重ではあるがガス発生もなく触れても危険はないと判明したので展示を再開する。計らずも、ラボのリアルさがさらに増した。
    先程の数人は有耶無耶のうちに消えてしまっている。雑魚は逃げ足だけは早い。フロイドは舌打ちを喉の奥に飲み込んだ。今日だけで何回飲み込んだかわからない。もう溢れるままに吐き出してしまいたかった。
    飛沫が飛んだのかボトムの裾が数か所色が抜けたなと、視線を落としただけの一瞬にも一般客はどんどん入れ替わる。長物使用禁止の張り紙は急遽スタッフに作りに走らせたが、この瞬間にもコピペのようなモンスターたちは湧き出てくる。
    今度は触れない程度に棒の自由を抑えつつ声をかけていく。
    アズールは普段の多忙さにくわえさらに実行委員、それからこのあとの期末テストに向けて、ひいてはそのさきの目標達成のため契約者を増やしはじめている。もちろんフロイドたちも何枚も噛んではいるが、比重は比べるまでもない。彼らの出番はむしろテスト終了後以降だろう。
    ジェイドは同じく実行委員に、その中でも全寮分の監査を担う。正気?とフロイドがどちらにもなく訊いたら、何がですか?とハモって自分を見てきょとんとしていたので、彼は二人の説得を最初から放棄した。テンションのバカ高い、今回で何割かは本気で救いようのないバカと分かったけれど、陸のハロウィンに当てられて高揚している二人を止められるのはいない。彼らのツヤツヤ輝く頬となにより爛々とする目にフロイドは勝てない。

    「すーぐ限界点見失うくせにねぇ」

    軽快に計算機を叩き、予算申請のやわらかいところをつつき、ぎゅうぎゅうに絞めていくかろやかな声。よりよいアイディアが浮かんだときの弾み得意気にフロイドを呼ぶ声。故郷では体験できなかった明日をおびやかさない能天気なお祭り。
    フロイドは「んん~」と唸りながらガシガシ後頭部を掻き、「んじゃ、オレ実働とラウンジね、全部ちょうだいね」とこっちにまで手を出すなよと言外に念押しするしかできなかった。
    考える頭のないモンスターに対応している背後からの視線がチクチクする。正確にはフロイドでなくて、向かいに立ってきゃあきゃあ声を上げる小さな雑魚たちに向いている。だからフロイドはそれを遮るように間に立つ。
    あれはもうけっこう我慢してる、でもまだオレの言葉が効いてる。
    あ~ほんとに、動物言語のほうが通じるんじゃねぇの?何度言わせるんだよ、自撮り棒じゃなくて常識良識をこっちに向けろ。あっちのリミットが外れる前に。
    さすがに作り笑顔も擦り切れてくる。
    もうイイかなぁ、オレちゃんと一人で仕事できたよねぇ?やっぱいつも通りオレのほうが先にぶちギレそう。
    顎下で喧々言ってるのを聞き流して、フロイドはもう一度ちらりと二人をみやる。ジェイドと目があう。一瞬細められた。
    うん、ジェイドは話の通じない頭悪いヤツ大っキライだもんね、アズールのほうがまだ説明するヤル気あるもんね。楽しいの邪魔されて、めっちゃキレてるね。オレより。
    今度はジェイドから視線を絡められて、もう一度月が細く眇められた。
    あぁ。

    「あは、イイってぇ」

    黙りこくっていたフロイドの声のテンションが急に上がる。雑魚たちはわけがわからなくて固まっている。フロイドは触らず動かさずにしていた棒を握り締めて曲げてやる。
    「ちゃあんと、おとなしくお外へ逃げろよ?」
    見開かれた目を真上から見下ろす。まんまるおめめにオレが映ってるね。どっちが強くて、我慢して我慢して泳がせてやってたか、やーっと気づいた?
    数が多くて統率が取れてないため、海の雑魚よりめんどくせぇとフロイドが気づくまでにも時間はかからなかったけれど。
    なぁんで、チョロチョロするかねぇ。ほらぁ、展示物にぶつかってるじゃん、それはうまく出来てるだけのハリボテだから危険じゃないけど誰が苦労したか知ってる?そんなに海底散歩してぇ?

    「ステーーーーイ!」

    響き渡る部屋の主の声。
    ざんねぇん、完全にタイムオーバー。生きて帰れそうでよかったねぇ。



    微かに聞こえる会話でイシダイせんせぇから本気のゴーが出てる。アカイカせんせぇと違って、イシダイせんせぇは血の気が多くて、まだこちらに近い。ちょっと年上らしいけれど、まだ学生だった頃が抜けてなさそうで、時々同級生か?って気がする。薬剤割れてやっぱり血相変えてる。
    狩ってよし、の言葉にペンを取り出しながら、口角を吊り上げる正真正銘のモンスター。このハロウィーンウィークいちばんのスタイリッシュで怖ろしいマミーの笑顔と煌めく魔法石。ほんとこの衣装よく出来てるよね、オレも早く着て遊びまわりたい。
    ところでその衣装、ペンってどこに仕舞ってたんだっけ?
    ……ま、いっかぁ。
    フロイド、あなたも来るでしょう?よく我慢しましたね、と乾涸びるなんて知りもしない苛烈な、自身の身の内の炎ですら乾くことなく掌握し、周囲を焼き付くす包帯男二人が振り向いてフロイドを呼んでいる。
    そういえば三人並ぶのも久しぶりじゃね?
    噛み締めていた頬がようやっと楽になる。
    定位置からフロイドもペンを取り出す。

    「…かわいそうにねぇ」

    ハットを直しながら、いつの間にか細く長く伸びるようになった影を追いかけて一歩。
    人魚は炎に抗えない。冷えた身の内まで焦がされながら、その熱を欲する。
    お祭り騒ぎという言葉にふさわしい夜が明ける。
    普段のこの時間帯なら無人のはずの談話室は、今年のマミー衣装もあいまってまさに死屍累々の様相を呈している。包帯に見立てた縺れているいくつもの白い短冊を足でそれぞれの持ち主に寄せながら摺り足で歩く。棺に戻りそこねたまま倒れているミイラたちが衣擦れの音くらいで覚醒することはない。熱狂の翌朝であっても、ガラスを撫でて上がっていく気泡の音が自分たちの子守唄であることは変わらないし、すっかり日の出が遅くなった海中はまだまだモーブカラーに沈んでいる。
    実行委員やスタンプ係業務の合間を縫って受け取っておいた新年の火はランタンに収めて談話室の暖炉に乗せておいた。ちらちら揺れる炎が乾涸びた死霊たちそれぞれを照らし、もう部屋を暖めはじめている。マミーたちがますますカラカラに乾いてしまうんじゃないかという心配がちらりと脳内を掠めたが、そのままにしておく。人魚のミイラもまた面白い。
    冬はあたたまる素足のすぐそばまでひたひたと迫り、踝を撫でていく。まるで昨夜の自分たちのように踊り、はやく火を灯せと喚き強請ってくる。それらをいなしながら先週フロイドと二人で必死に磨いた暖炉を覗き込むと、規則正しく積み上げた薪の影から火の妖精が顔を出した。ジェイドを見て健康的な丸い頬を赤らめる。 

    「おはようございます、新年おめでとうございます」

    そっと下したランタンの窓を開け、満面の笑みで腕を拡げる妖精に任せる。彼女はそこからジェイドの頭の倍は大きな火種を掲げ持ち出してまたにこりと微笑った。
    爆ぜる薪の音が陸で過ごす二度目の冬の到来を花火のように祝福する。



    ハロウィーンで冬の新しい火をともし、魔女はそれらをサウィンの朝に暖炉とそれぞれの大鍋の新たな火種として精霊に祈り、悪魔が寄り付かないようにする。
    水中ではもちろん火が使えないうえに、ランタンを掲げる目的も陸とは異なる。基本的には夜光虫をランタンに詰めた。発光が落ち着いてしまうと、フロイドはにこにこしてランプを振り回して、それに反応して自分の身体の発光体まで輝くからランタンよりも眩しいときまであった。そういえば、あのときフロイドに見えていたモノはちっとも輝いていなかった。よく見ていればすぐに気が付いただろうに、やはり自分もハロウィーンに興奮していたのだろう。内容も自分たちの下を横切っていった人間の潜水艦の幻影についてだったから。
    自分たちは夜光虫のいつものランタンだったが、アズールは違っていた。海中であっても魔女は陸と同じように本物の火を灯す。海の魔女に憧れるアズールも例外ではなく、ミドルスクール入学時にはもう自分でランタンを抱えて泳いでいったように覚えている。種火はさすがに魔法のランタンからは取り出せないが、やはり夜光虫とは比べ物にならないほど明るく照らされていたアズールの丸い頬をよく覚えている。元来、炎に憧れる人魚は多い。とうとう陸で本格的にできるのだと、授業中にまで火起こしについて興味津々だったのはさすがに後ろの席で口角が震えるのを耐えられなかった。スカイブルーの瞳が大きな焚火よりも煌めいていたのは去年のハロウィーンでの記憶だ。
    暖炉の火が安定するのをぼんやり眺めながらジェイドは思い出す。その間にも今度はシャンデリアからそれぞれの小さな人たちがランタンに寄ってきて、思い思いに火を抱えて戻っていく。やさしい人らは転がっている寮生を見下ろしたあと、眩しくないようにと一度それらを腹に収めてしまった。
    昨年ハシャいでいた今朝の主役を待ってみたが、やはりアズールは現れない。

    「火遊びがお好きな人ですね」

    アズール本人が聴いたら顔を真っ赤にして絶句しそうな言葉と息をひとつ吐いてジェイドは談話室を出た。



    オクタヴィネル寮はどの棟も中央は吹き抜けになり、それを中心として巻貝のように廊下が渦を巻いて昇っている構造になっている。寮生の部屋はその渦巻の外側に並ぶ。いつもデスクの手元に遊ぶ水面上の陽光を運ぶ窓は外殻に設置されている。
    ランタンのシェードを開けたまま掲げて、落とすことはないだろうけれどと思いながらもジェイドは慎重に廊下をゆっくりと上がっていく。それぞれのドアに設置された小さなランプからも同じように妖精が飛び出してきて、ジェイドの周りをくるくると祝福する。

    「今年もよろしくお願いしますね」

    頷いた妖精たちは自分のランプに戻っていく。半分近くは無人になっているだろうが、夜が明けて住人が扉を開けば彼女たちは自ら室内の灯りにも火を運んでくれるだろう。魔法が基礎に入り込みすぎて超自然的な位置づけになっているこの寮では、自分よりよほど永くこの寮を支えている先達にお願いしてしまうほうがスムーズに進むことも多くあるとジェイドもアズールもいつも感服する。
    妖精の邪魔にならないようにゆるゆると歩き、自室の妖精にはことさら丁寧に預けた。軋む扉を宥めてジェイドが中を覗くと、数十分前に出たときと寸分変わらない様子でフロイドはベッドに収まっている。ハロウィーンウィークではスタンプラリー会場の設営から寮生のストレスまで取りまとめ、一般客で賑わうラウンジを最前線で捌ききったのだから、今朝はさすがにジェイドがいなくても上手に眠れているらしい。入口正面の机上の時計を見ても、あと一時間は大丈夫だろう。手を振る妖精に頷いて、ジェイドはあとを任せる。フロイドがぐずる前には自分もベッドに戻って、この冷え切った足先から順に温めてもらいたい。とろとろとあたたまっているシーツを想像しながら、左耳のホールを撫でた。
    寮棟の突端に造られた天窓から差し込む外海の光がだんだん白んで、ジェイドの足元のロイヤルパープルの絨毯で泡沫が揺れる。
    すべての部屋に行き渡ったことを確認して最後まで残したエントランスへ向かう。ここまで待ち人は合流してこなかった。

    「おやおや…」

    どうしましょうねぇ、ここまで僕に任せてしまってあの人、あとで絶対拗ねるでしょうに、僕は副寮長として責務を果たしているだけですけれど。
    脳内で反論をシミュレートして口角が持ち上がったところで、ジェイドはゆっくり鏡をくぐった。残りは鏡舎側入り口。

    「あぁ、ジェイド、おはようございます」

    魔力が頬を撫でたと同時に、向い鏡舎の大きく開いた入り口から小走りで向かってくるアズールの声がかかる。

    「申し訳ありません、お前がここにいるということはもうほぼ終わってしまったのでしょう」
    アズールはジェイドの返答も待たずにほぼ一息で続ける。
    「……おはようございます」

    珍しいほどに素直なアズールの謝罪にジェイドは一瞬言葉が出遅れてしまった。小走りで駆けてきたように見えるのに、よくそんなにも滑らかに言葉が続くと関心もした。
    かまいません、となんとか続ける。

    「談話室から、廊下、各部屋はそれぞれ済んでいます。寮はあとはここだけですね」
    「ありがとうございます、副寮長」と頷いたアズールにお互い両手でランタンを受け渡す。華奢な真鍮の持ち手をアズールの細い指にかける。ジェイドは鏡を掌で指してから自分たちの寮長を見て恭しく腰を折り、
    「あなたのオクタヴィネルです、寮長」
    「えぇ、」

    さぁ、新たな冬を迎える灯火を。



    モストロラウンジの電気系統はすべて陸上の一般店舗と同様に作られている。もともと学園内の施設だったため、こちらも妖精の祝福を受けていたが、光熱水費の計算が煩雑になるという理由で魔法設備無しに改装した。水中の室内で火を使うので換気設備は特に力を入れたところ、当然のように自分たちが学生の間には減価償却しきれなくなった。

    「まぁ、ケツ叩きにはちょうどいいでしょう」とアズールは特に気にしていなかったけれど。
    ラウンジに続く海中回廊をアズールの背について歩く。
    「ジェイド、任せてしまったのはほんとうに申し訳なかったですし、ありがたいのですが、フロイドは大丈夫ですか?」

    フロイドが一人寝できないのはアズールもよく承知している。特にここに来てからは寝付けないフロイドに何度も巻き込まれている。最近ようやっと本人も「寝られるかもしれない」という気分にまではなっているらしく、事態はすこしずつ前進している。

    「えぇ、さっき覗きましたし、まだ大丈夫でしょう」
    「そうですか、きちんと寝られているならいいんですけどね……一応確認しますが、ピアスは」
    「フロイドのところですね」
    「なら大丈夫です」

    アズールはさらに納得して頷く。

    「ほんとうにあなたは目敏いですね」
    「これくらい当然でしょう」

    ここなら心配ないでしょうが、万が一があっては事です。そもそもそれを仕上げたのは誰だとお思いで?
    ラウンジのエントランスに到着し、アズールはランタンを持ったのとは反対の手でごつりとした黄金の鍵を取り出す。大仰な錠前と鍵はいわば建前で、実際は魔法で施錠されている。鍵はその媒体に過ぎない。奥にアズールのVIPルームや金庫があるためここだけは魔法に頼り厳重に固めている。とはいえ、ここの造りに詳しいものであれば扉脇の細い階段から入る実験室がラウンジに繋がっているのは知っている。普段は巧妙に視界に入らないように目眩しの幻術をかけてある。存在を知らなければ見つけることはできない。

    「では、僕は奥から、ジェイドはキッチンをお願いできますか」
    「かしこまりました」

    点火に毎回種火を使用するラウンジのオーブンはすでに一般家庭でもアンティークになりつつあるらしい。しかし特にフロイドのお気に入りで、小さいながらも営業日に温まっていない日はない。いまはガス式だが薪で焼く石窯にまで興味を示し、アズールに設置をねだっている。アズールは「おまえが真面目に働くなら、二号店ができた暁には考えます」とつれないので、フロイドはそのたびに頬を膨らませている。アズールはそのうち飽きるだろうと思っているようだが、フロイドは案外料理を気に入っているので、アズールの目論見が達成されるのはまだもう少し先になるだろう。さすがに二号店オープンよりは早いだろうけれど。
    ジェイドはコンロ上部に吊るした小型ランタンにオイルが充分であることを確認してから灯す。はじめて自分で移した火は、いままで見たこともないほど一度大きく膨らんで弾けた。

    「っ、」

    燃え上がり、また収まる火に、咄嗟に声が追いつかないまま上半身を逸らし避ける。唐突な閃光を受けて左目がツキリと痛む。色素が薄い分、幾分か右目よりも眩しさに弱い。

    「やはり慣れないと難しいんですねぇ」

    ジェイドは左目蓋を掌で撫でる。すこしジクジクと引きずるかもしれない。
    あぁ、前髪もすこし焦げちゃいましたね、アズールに笑われてしまいます。
    自然界に由来する魔力の強大さにあらためて舌を巻いた。感嘆の息で語尾も伸びる。錬金術の授業で使うのも同じものだが、常にクルーウェルの守護範囲内であるため、炎はいつも行儀よく御されているのだと実感する。ジェイドはケースの扉を閉めて一撫でする。中の炎はボゥと青く美しくまた揺れた。

    「いかがですか、ジェイド」

    実験室もVIPルームも暖炉も済みましたよ。

    「さすがアズール、早いですね。僕も上々です」
    「上々、ねぇ」

    ドリンクカウンターまで寄ってきたアズールにジェイドがにこりと返すと、彼は口角を片方だけ吊り上げて、指先を持ち上げた。一振りされるのに合わせて、ジェイドの目の前がちらちらと弾ける。焦げた臭いまでなくなった。

    「来年は前髪も無事だと完璧ですね」

    僕も危なかったです、にしても火のおまえすら焦がされるなんて、ねぇ、とアズールはくつくつと喉を揺らしている。
    あまりの笑われ様にジェイドは手持ち無沙汰に蛇口を撫でて、

    「水であるところの海の魔女には朝飯前だったでしょうね」
    「まさか、来年はもっとうまくやりますとも」

    アズールの芝居がかった高揚の声に早くも来年を心待にしているのが透けて見えてジェイドは頷いて返す。フロイドが起きられるなら、来年は三人で回れるといい。

    「楽しみですね……ところでアズール」
    「はい?」
    「僕たちはもう一度寝てからブランチにするつもりですが、あなたはどうします?キッチンの明かりはもう落としても?」

    あなたまだ乾涸びたままで?

    「そうですね、僕も一度部屋に戻ります。朝食はけっこうです」
    「はい、かしこまりました」

    部屋の前であらためて挨拶を交わし、互いのあたたかな寝床に戻った。
    冬がはじまる薄紫の早朝。
    ハロウィーンの狂騒が明けると、一転して校内はテスト準備期間に入る。季節的に冬も同時にやってきて、生徒たちの心にも寒風が吹きすさぶ。ヒリヒリと肌を刺し、焦燥感が満ちる。10月中の疲れも抜けきらないままオクタヴィネル寮にも重く湿った空気が籠りはじめている。
    その中、テスト範囲のヤマ掛け以外に二つのトピックが寮生の会話を賑わしている。
    ひとつめは窃盗疑惑。特にコインがよく姿を消す。

    「オレの小銭知らね?」
    「えぇ?知らねぇ、裸で置いとくなよ~」

    オレの昼飯代ここに置いたんだけれど……と談話室で探す姿は日常茶飯事になっている。談話室だけでなく、寮生の部屋でも、ラウンジ更衣室でも発生する。不思議なことにいっしょに保管してある紙幣が減ることは一度もなかった。他にロングヘアの生徒の髪飾りや腕章を見失ってしまった生徒はいたけれども。
    ふたつめはハロウィンの悪霊が寮内に留まっているという、いまだお祭り感覚の抜けないふわふわとした噂話。夜半、または早朝に机に向かっていると、普段の水中特有の音とは別に細く高い衣擦れのような音が聞こえてくるという。微かに聞こえただけの生徒、近づいてきたという生徒様々だった。堅牢な防御魔法で固められたオクタヴィネル寮内に入り込むのは至難であるはずのため、燃え尽きなかった悪霊でなく帰れず現世に縛り付けられた亡霊と考える生徒もいる。ハロウィーン期間中にはオクタヴィネルにも少なからずゴーストが闊歩していたから。海の亡霊よりもずっと友好的な彼らとは寮生も祝祭を楽しんだ。
    報告を受けるアズールにしてみれば、あくまであろうと亡霊であろうとどちらであっても現状大差はない。
    普段真面目な寮生たちがきちんと寮長に報告を上げるため、十一月に入ってから二日でアズールの手元には様々な筆跡のメモが積まれている。モストロラウンジに関するハロウィーンウィーク経費の請求書とどちらが多いか数えたくなる。
    ジェイドが請求書の束を引き取り、紛失物に関してはリストにまとめた。

    「金銭目的の窃盗というには一件の額も小さいですし、髪飾りも特に高価なものではないそうです。ましてや腕章なんてすぐ足がつきますから……」

    ジェイドはリストをアズールに「見合わないですよねぇ……はい、これは今日の分です」と言いながら渡す。

    「イグニハイド寮にお願いして、防犯カメラでも設置しますか?」
    「いまはあちらもテスト期間前でお忙しいでしょう、なによりカメラはプライバシーがありますから一朝一夕では決められません」
    「僕たちも痛くもない腹を探られますしね」
    「おまえが言うとほんとうに胡散臭くなりますね、じゃあ、まずはおまえが囮になってみてはどうですか?」
    「おや、僕は日々増えるイソギンチャク候補もとい餌食もとい契約者への対応で忙しそうなアズールを思って、真面目に対策を提案しましたのに」

    しくしくと得意の泣き真似をして見せるジェイドに「それですよ、それ」とアズールはげんなりと息を吐いた。もう一言言ってやろうとアズールは身体ごと向き合い視線を上げる。

    「……ジェイド、」
    「はい」
    「おまえ、左目はどうしました、寝不足ですか?」

    真っ赤ですよとジェイドの顎を掴まえてまっすぐ向かせる。

    「いつもと変わらないつもりですが……たしかに、最近時々沁みたりしますね、なんでしょうね」

    話題に上ったところでまたズキリと響いて、ジェイドは思わず目を瞑る。

    「ゴミでも入ったのかもしれませんね、見え方は変わりありませんか?角膜に傷がつくと長引くそうですから、早めに医務室にいっておきなさい」

    イイ男が台無しだ、と言うアズールに「そういうところですよ」とジェイドは頷きながら返した。
    アズールは紛失の件と悪霊(仮)について学長及び寮監であるクルーウェルの耳に入れた。悪霊(仮)については実害がないので様子見するとも付け加える。

    「貴金属、ですねぇ」

    キラキラしたものを集める習性のある鴉はデスクについたまま動かず、ひとつ呟いて、「くれぐれも外部に漏れることなく、早めに解決してくださいね」とつづけた。ハロウィーンの疲れがいまだ抜けていないくたびれた大人はたいそう無責任だ。



    人魚の双子はその大きな体躯と陸生活二年目というハンデに反して足音を立てない。それでも彼らの居場所に不都合のある生徒が把握し、それぞれの身の振りを処せるのは彼らが靴音ではない軽やかな音を連れているからだ。シャリと鳴る音を、オクタヴィネルを毛嫌いしている寮生はそれを猫の鈴だと揶揄する。自分たちが鼠であるということを忘れて悪辣に言う。
    ある生徒は悪霊(仮)の音の録音に成功していた。それをクラスメイトに聞かせると、耳のいい獣人は「なんかさぁ、リーチ兄弟と同じ音じゃね?」と二の腕を擦った。彼はすでに一度”遊んで”もらっている。

    「何の音?」
    「ピアス」
    「そうかな、でも誰も見たことないんだよ」
    「あの兄弟なら魔女の魔法で透明とかになれるんじゃねぇの、そうすると窃盗だってし放題じゃん」
    「嫌うね~」

    ひとりが考えることはたいてい皆同じことを考える。オクタヴィネルであってもまだまだ一枚岩ではない。

    「アズール、知ってます?」
    「知りませんね」
    「僕まだなにも言ってません」
    「おまえがそういうときはたいていしょうもないことなので」

    まぁ、そう言わないで、とジェイドは口元に手をやり笑う。

    「一昨日からのこれと、」

    ジェイドは3日目分のリストを手渡しながら、

    「悪霊の正体は僕らだそうですよ」
    「なんですって?それは面白い」
    「でしょう」



    昨夜自分たちが窃盗犯の悪霊説でひとしきり笑った報いでしょうか。
    ジェイドはフロイドとお互いの寝間着のシャツを揺らし、ふたりでシーツを畳み、枕をひっくり返し、そのカバーを外し、ベッドの下を覗き込みながら言った。

    「えぇ?」

    丁寧にその声を拾ったフロイドがベッドの足元側から応える。

    「アズールとね、犯人は僕ら説がおかしくて笑ってたんですよ」
    「それは笑うでしょ」

    どうせオレらへの恨みしかないじゃん。
    フロイドはジェイドのシューズラックを元に戻して伸びをしながら返す。ジェイドも膝を払いながら「ですよね」と立ち上がった。

    「見当たんないね……」
    「消えてしまったと考えるほうが正しそうですね」

    双子はどちらも就寝時はピアスをつけない。シャワーの前にハズして、きちんとシェル型のアクセサリートレイに並べて乗せて保管する。しかし昨夜のようにフロイドがジェイドのピアスを持ち出すことがある。装着するのではなく、ジェイドの戻りが遅い夜に一人寝がうまくできるように気休めのお守りとして握って眠る。双子のピアスは性質上、気休めというには余るほどの効果があるので、二人の間では珍しいことではなかった。だからフロイドもまさか寝ている自分の手の内から消えるなんて夢にも思っていなかった。
    それが今朝は起きたら掌の中は元よりどこからもパーツのひとつも残さず忽然と消えてしまった。

    「ごめんねぇ、ジェイド、大丈夫?左目ちょっと赤いし……これ完全に弱ってんじゃん」

    双子のピアスにはいくつかの呪いがかかっている。そのうちのひとつは魔力に敏感なそれぞれの金の保護だ。海の祝福の瞳は、陸では暴かれ曝されつけこまれやすい。
    フロイドはジェイドを覗き込んで、触れない瞳の代わりに頬を撫でる。

    「これはゴミだと思いますよ、フロイドが悪いわけではないですから……完全に油断していましたが、学園にいるうちは問題ないでしょう。さて、僕たちの私物まで消えて吉と出るか、凶と出るかですね」

    連日の窃盗事件が続くオクタヴィネル寮副寮長であるジェイド・リーチのピアスも消えた。
    11月4日の朝にオクタヴィネル談話室から走り出したネタは、昼には購買部のサムが知るまでの勢いで学園を走り抜けた。

    「自演だろという意見がほぼ十割なのが普段の行いですね」
    「アズールよりマシでしょう」

    昼食のトレイを運びながら言いあう二人の背中にフロイドが吼える。

    「ねぇ~わかったからもっとちゃんとして」

    いまさら食堂でヒソヒソ囁かれるのも、こちらをチラチラ見る雑魚も、問題にはならない。鬱陶しいなぁとは思うけれども、正直それどころではない。



    大丈夫ですから、どうぞ部活へと微笑うジェイドにほとんど強引に見送られて、フロイドは体育館にいる。念のためと自分のピアスを預けてきてはいるが、それこそ気休めにしかならないだろう。言いながらも左目はすこし細められていたから、充血の痒みに耐えていたのだろう。

    「いやたぶん、正真正銘、火に油……」
    「なんだって?」

    無意識にハンドリングをしながら体育館の天井を見上げながらフロイドが呟くと、正面にいたジャミルが聞き返した。彼も大概耳がいい。ボールを止める。

    「んーん、なんでもない。なんだっけ」

    改めて視線を落としてくるフロイドにジャミルは肩を落とす。

    「なんだっけじゃない、何度言ったらおまえはわかるんだ、フロイド、ひとりで全部やろうとするな」
    「あ~……」

    そうだった、先日の練習試合での失敗を克服する練習をしていたのだった。囲まれて孤立、止めきれなくて置いて行かれ。そのたびにジャミルからは「すぐにヘルプを出せ、知らせろ」の言葉が繰り返される。

    「も~ウミヘビくん、しつっこい」
    「おまえがひとの話を聞いてないからだろうが」

    俺だって顧問でもコーチでも先輩でもないのに、こんな役割するつもりないんだ。
    ボールを片手にジャミルは溜息をつく。フロイドに本気の指導なんてできる生徒も教師もいない。フロイドはまたそれを見下ろして、心底不思議がって返す。

    「聞いてるって。でもさぁ、オレの失敗なんだから、自己責任じゃん?自分でどうにかしようとして、なにが悪いわけぇ?」
    「バスケはチームプレーだ。寮か海かのその生き方は立派だが、場所を見極めろ」

    ここは、助けを呼んでも弱みにはならない。
    続く言葉に、「それさぁ、」とフロイドは言いかけ、「なんだ」と見上げてくる視線に「やっぱいいわ」と話を打ち切った。
    誰のこと言ってんだろうね。まぁ、使える者は使うはうまいけれど。

    「すぐにできることじゃないからな……今日は解散だそうだ」
    「はいはーい」



    更衣室の扉の前で、フロイドはジャミルに再び呼ばれドアを開きながら振り返る。

    「フロイド、今日は何日だ?」
    「なぁに、今日?十一月よっか、んぶっ」
    「フロイド先輩、おたんじょーびおめでとーございまーす!一日早いけど!」

    にやにや笑って問うジャミルに答えたところで、見ていなかった室内からのパイ投げに襲撃された。視界を塞ぐものが生クリームだとすぐにわかったのは、すでに自分がジャミルと今回投げつけてきた声の主であるエースに散々ぶつけたあとだからだ。想像以上に鼻に入って噎せた。
    フロイドは目を瞑ったまま犯人に手を伸ばす。エースが大人しく捕まるわけがなく、反射的に「絞める」と形だけ言って振り上げたフロイドの腕は大きく空を切った。
    顔を拭っていた掌でふたたび覆う。意外にサラサラしている。

    「たんじょーび、あ~」
    「え、もう終わりです?」

    素っ気ないフロイドの反応にエースがパイを持ったまま背後できょとんとしている。
    ウミヘビくんのときまではおっかなびっくりだったくせに、もう平気なのね。

    「ありがとねぇ?忘れてたわ、変わったんだった~」

    こっちも祝う側二回経験して、控えのパイがどこにあるかも知ってんだぞ。



    「ほんとうは違うのか」

    隣り合ったロッカーを同じタイミングで開けるジャミルに、フロイドは「うん?」と返す。

    「誕生日のこと?や、陸的にはあってるらしい、けど、ねぇ……?」

    だんだん速度の落ちていくフロイドの声の調子に、ジャミルは訝しんで問う。

    「今度はなんだ」
    「タオルなら持ってるじゃないですか」
    「いや……」

    タオルを持ったまま、さらになにかを探してロッカー内を漁るフロイドにジャミルとエースがそれぞれ両側から覗き込む。
    フロイドは吊ったジャケットのポケットをもう一度長い指で底まで確かめ、

    「ペンがない」
    多産でそれなりに成長するまでに大多数が海の藻屑になる人魚にとって、生まれた日付は重要視されない。
    自我を持ち、それに名を与えられ、個として誕生した日を寿ぐ。海ではその日に生存を感謝して過ごしてきた。
    学園に入学する際につくられた身分証では誕生日はまさに孵化したらしい日が記載されていて、二人ですこし顔を見合わせた。そんな日付が公文書にきちんと残って提出されていたことにも驚いた。春先の穏やかな日が突如として冬の到来に変更されてしまって、最初の"誕生日"はぎこちなくクスクス喉を鳴らした。

    「慣れませんが、よろこびの日が増えるのは悪くないですね」

    ジェイドはベッドで向かい合うフロイドの前髪を掻き上げながらつづける。

    「生憎今回は用意がありませんので……今年は、今日まで生き残ってきた僕をプレゼントしますね」

    「さぁ、毛布代わりにどうぞ」とジェイドは尾びれに代わって手も脚もフロイドに巻き付けて微笑った。フロイドは自分よりずっと大きな身体に抱き込まれて、ぬくまった海水ではないあたたかさにはじめて包まれた去年の冬のはじまり。



    あぁ、そういえば、あのとき「今年は」と言っていたっけ。
    まだ夜行性種の時間帯のころ、むずがったらしい拍子に触れた紙箱の感触でフロイドは完全に目が覚めた。突っ伏した枕もとのパープルにゴールドの箔押しの紙箱。

    「あー……」

    心の底から、やってしまったと、贈り主であろう隣を起こさないように喉の奥に押し込める。
    ハロウィンやラウンジのこと、なにより昨日なくなったジェイドのピアスと自分のペンでフロイドは頭がいっぱいで、プレゼントなんて用意していなかった。
    今日が誕生日であることだって、昨日バスケ部恒例のパイ投げの洗礼を受けたから思い出したくらいだ。十分な準備は到底間に合わない。さらにペンが消えうせた。でもそれは言い訳だ。ジェイドだって同じで、どころか自分の何倍もの仕事をこなしていたんだから。自分たちにとって、なくてもどうにかできるマジカルペンよりも、重要度はピアスのほうがずっと重い。
    落ち着いたら謝ろうと焦る自分にフロイドは言い聞かせて、何食わぬ顔をして寝たら先手を打たれているなんて。そもそもペンが消えたことでジェイドとアズールの二人もさすがに言葉を失って、学長たちに報告して疲れ切って寝たはずなのに。

    「でもこれ、クリスマスじゃん……」

    さらりとした表面を指の腹で撫でながらフロイドは苦し紛れに呟く。

    「僕の神様、と呼びましょうか?」
    「っ、ジェイ」

    唐突にかかった声にフロイドの肩が揺れた。

    「おはようございます、フロイド、お誕生日おめでとうございます」

    襟がずれて肩口が覗くシャツを直してくれながら、ジェイドは寝起きで重いままの目蓋でとろりと微笑う。フロイドが甘やかされているときと同じ眼差し。

    「まだ夜中だよ、起こしてごめん。ジェイドも、誕生日おめでとう」

    ナイトシャツを直した手がそのまま掴んで肩を引くから、フロイドはジェイドの尖った喉仏に頬を寄せる。人型のジェイドはなにもつけていないはずだのに、いつもうっすらウッドが薫る。それぞれが気に入ってるトリートメントのどちらでもない。植物園の隅にある極小の熱帯のまとわりつく濃密な空気を思い出させる。すべての存在感が色濃く瑞々しいガラスの部屋。ジェイドの中の陸だけでの温室。彼自身も気づいていない飽和した穏やかなテラリウム。

    「プレゼント、忘れてた、ごめんねぇ」

    これでは去年と同じだ。

    「大丈夫です、僕の翡翠がこれまでも、これからも、僕と生きてくれているのがなによりのプレゼントですから」

    ジェイドはフロイドの素のままの耳裏をあやしながら、クスクス笑う。喉の振動もフロイドの頬を震わす。鎖骨の窪みにごめんなさいを貯めていく。
    ジェイドは後頭部を撫で上げて、それに、その箱の中身はまだですから、僕もおあいこですとつづけた。

    「……だからって忘れてたから、じゃないでしょ」
    「まぁ、まぁ……木型直しにいきましょうね、予約してありますから」

    図星のジェイドはすこし言い淀んで、ごまかすようにつむじに唇を寄せてくる。

    「ほらぁ、完璧じゃぁん……」

    グズる声とは裏腹に、鼓膜に直接響く心音に安心する。哺乳類よりゆっくり大きな流れを刻むいのちの音。リズムに合わせて息を長く吐く。吐き出した酸素の隙間にまで感謝が湧き上がってくる。噎せ返るほどの草いきれの中、酸欠で溺れそうになる。

    「生まれてきてくれてありがとうね、ジェイド」
    「こちらこそ、生きてくださっていてありがとうございます、フロイド」

    胸と額と、それぞれの肌に直接吹きつけ塗りこむ祝福。降り積もる祝詞に目蓋がまた重くなっていく。
    そういえば、ジェイドのとろけた左目はまだ赤い。
    「プレゼント、なにがいい?」とフロイドが夢うつつにズルく本人に訊ねると「あなたのごはんでお腹いっぱいになりたいです」と耳元にジェイドの即答が返ってきた。
    それにきちんと返事ができていたかどうかはわからない。意識も言葉もぷかりぷかり漂っていく。
    フロイドは温室の苔むしてふかふかになったベンチに横になる。ガラスを透かして入り込む陽光が眩しくあたたかい。しっとりと頬を撫でるフロイドのいっとう気に入りの陸の褥。



    ラウンジのカウンターの奥を職権乱用で1人のために3席リザーブする。半個室にテーブルセッティングをするのが雰囲気も出るけれど、自分だけで調理の仕上げと給仕を進行するとなると、ライブキッチンが最適。ジェイドには目の前に座っていてもらうのがいちばん都合も眺めも気分もいい。
    フロイドは二人からできるだけ出歩くなときつく言いつけられた。それを守り、寮に籠っている。浮ついた心持で授業を受ける気分ではなかったからちょうどいいと、喜んで受け入れた。
    ディナーの材料は購買部にはそもそも行かれないし、時間もかかる。悩むこともなくラウンジの仕入れラインを使わせてもらった。タブレットで完了、最速は転送魔法便で届く。アズールにはあとで給料天引きしてもらう。なにより、誕生日だからと二人揃ってシフトを外してくれていた支配人の慈悲にフロイドは素直に感謝した。
    今朝までその気持ちに気づかなくてごめんねぇ。
    昼休みに様子を見に来た慈悲深い支配人アズールには昼食にリゾットを出しつつ、今夜のメニューを書き出して渡す。フロイドが「マジカルペンなんてなくても困るところではないのに」と言ったら、「おまえはいまピアスもしていないでしょう」と肩を竦められた。フロイドはへらりとしか笑えなくなってしまう。朝一番に「誕生日おめでとうございます」の言葉とプレゼントを受け取りつつした応酬の繰り返し。

    「ジェイドは?」

    アズールといっしょにこちらに来ると思っていたが姿を見せない。

    「今日は日頃のお礼に呼び出されてばかりで、なかなか身体が空きませんね。籠っているおまえの分まで丁重に受け取ってくれていますよ」
    「あは、かわいそうにねぇ」

    ちゃんと昼メシ食べられてるといいんだけどね。空腹は午後のお礼参りに響いてしまうだろう、相手の骨にという意味で。
    ほくそ笑むフロイドの声に「心配ないでしょう」と返すアズールの言葉も完全にジェイドを指している。

    「おまえは念のため、これ、つけておいてくださいね」
    「いやほんとに心配しすぎでしょ、稚魚じゃないって」

    アズールはラウンジ内で使っているインカムまで出してきた。ラウンジ内だけでなく、寮内の伝声管とも接続されているもので、つまり寮内のほとんどに声が届く。
    二人の瞳はどれも貰い物で、生来のものではない。陸にいる間のオリーブグリーンは視野が少々広い以外はほぼ通常の目と同じように働く。しかしゴールドについては海の魔女の祝福と呼ばれているくらいに魔力の含有量が異常に高い。そのため様々な力を惹きつけやすい。繊細であるため、つけこまれやすくもある。陸ではこの瞳の元来の持ち主が誰であるかわからない輩が多い分、より性質が悪かった。そのため、二人が瞳の傍につけるピアスは海の魔女であるアズールからの加護の呪いがつけられている。守護と、ゴールドと同じ周波数の魔力を纏わせることで、瞳からのチャームをうまく紛らわせている。また、陸上ではうまく発散されずに暴走しがちな生来の魔力も調節している。ピアスを外す飛行術の授業がうまくいかないのは、魔力調節がいっそうできなくなるからだと人魚たちは信じて疑わない。
    二人にとってピアスはチョウザメの鱗の形をした鎧に近い。

    「稚魚なら、ふらふらふらふら気分で泳ごうにも行動範囲は知れてるんですけれどねぇ、ここのウツボはヒレだけはもうすっかり成魚で、タコの僕には追いつけないものですから」

    ちらりこちらを見上げるスカイブルーに勝てる気はせず、フロイドは両掌を見せて白旗を振る。

    「はぁい、過保護アズールぅ…ねぇ、ディナーメニュー好きなのマルしておいて、それアズールの分だから」
    「おや、ご相伴に与っても?」
    「あたりまえじゃん、奥に運ぶほうがいいよね」
    「えぇ、おまえたちの邪魔はしませんよ」
    「ちげぇって、支配人が営業中にラウンジで飯食ってちゃさすがにダメでしょ」
    「それを言ったら勤務中になりますよ。落ち着いてからでいいですからね、一人にさせるんじゃないですよ。おまえの本気は楽しみですねぇ……あぁ、そろそろクリスマスメニューも考えないといけませんね」
    「……冷めるから、はやく食べなぁ」

    意識調査もしないと、とアズールは米を咀嚼するのと思考を砕くのを同時進行している。モストロラウンジにとってクリスマス当日はホリデー期間中であるので、あくまでテスト期間終了後からが短いウィンターシーズンメニューとなる。ホリデーが明ければそこからは春のお祝いだ。

    「ラウンジ初めてのクリスマスシーズンですから……」
    「やっぱ王道でしょ、オレ鶏絞めよっか?」

    鍋のブロードを沸騰させないように火を絞って、アクを取りつつ取りつつキッチンから顔を出す。アズールは眉間に大袈裟にシワを寄せてものすごくイヤな顔をしている。

    「正しい使い方しないでくださいよ、あと、ここではやらせませんからね」
    「そう?一応習ったんだけど、オレら」
    「知ってます」

    こんななってるんだ~とたのしそうにバリバリ毟って鍋に放り込んだのも知ってます。

    「フロイド」
    「はぁい」
    「僕は、サラダと、あ、鶏モモでなくてムネ肉にできます?それとメカジキをお願いします。バーニャカウダを添えてほしいです」
    「ムネ肉できるよ、かしこまりましたぁ」
    「材料足ります?」
    「アズールの分くらいなら心配しないで、大丈夫~」

    素直に要求をつらつらと並べるアズールに、ジェイドにフードファイトさせるわけじゃないんだしとフロイドは笑ってしまった。

    「野菜ばっかじゃん、主食は?ニョッキとか茹でようか?ジェノベーゼ作るし」
    「じゃあ、ムネ肉を増やして……」

    ふとスプーンを止めて眉間にシワを寄せたアズールに、アズールも同じように怪訝な顔をして、

    「どしたの、ごめん、なんか入ってた?」
    「いえ、美味しいです、とても……誕生日の主役に僕は、ごはんを食べさせてもらって、いるのか……」

    目を眇めたままアズールが自分を見るから、フロイドはまた笑って噴き出してしまうのを我慢できなかった。顰め面が一周まわってまったく申し訳なくなさそうで、おかしくて言葉が出なくて手を振って応える。
    今日を好きにさせてくれているだけで充分だよ、とグラスにレモン水を注いだ。



    二人半分の量でコースをベースに仕立てる。
    アンティパスタはもちろんタコのカルパッチョから始める。ミニトマトをカプレーゼにして、今季最後のイチジクは鶏モモといっしょにサラダでオリーブのピクルスは多めに。アボカドを生ハムで巻いてフリッターにして、ポテトとエビのジェノベーゼソース。
    プリモピアットは王道ミネストローネからアスパラとタコのリゾット。
    セコンドはメカジキのソテーからマスタードチキン。ジェイドは魚介はレアが好きだから、火は通しすぎないように。チキンはカリカリにしてマスタードは多め。
    コントルノは山盛りのローストポテトとバーニャカウダ。プリモと同じタイミングで出したら合間合間に摘まむでしょ。ポテトはケチャップよりハーブソルト、でっかい口で唇尖らせてポリポリ野菜ほおばってるのめちゃくちゃ好き。
    ワインは呑まないし、フォルマッジィはいらない。
    ドルチェはジェイドの気分次第、バースデーだからケーキを用意したほうがいいけれど、ジェイドは生クリームもスポンジもあまり食べない。だけれどマチェドニアは食べると思うからひたひたに。ジェイドはほんとうは呑みたがるから、こっそりワインを振りかける。ティラミスはショットグラスにいくつか作っておいたら、ジェイドが食べなくてもラウンジで出せるでしょ。

    「オレはアフォガード食べたい」

    冷蔵庫にバニラアイスを確認して、業務用サイズのパックにジェイドの名前を大きく書いておく。違和感がなくてついつい笑ってしまう。今日は朝からずっと口角が緩い。
    野菜多めのわかりやすいイタリアン。キノコはどこに入れようか。

    「……これ、また森っぽくなっちゃう?」

    ウツボなのにねぇ、ふふふと息を漏らしてフロイドは微笑う。



    「ごちそうさまでした」
    「お粗末様でございました」

    自分の分もすこし摘まめるくらいには残るかしらと多めに出したローストポテトの最後の一片を飲み込んで、ジェイドはにこにことカウンター向かいのフロイドに「どれもほんとうに美味しかったです」と続けた。口に入ったのはジェイドがフォークを差し出してくれたフリッターとメカジキだけだった。あとはほぼ二人半前全部ジェイドの胃の中、気持ちのいい食べっぷり。フロイドのおなかもいっぱいになるご満悦の一息が聞こえた。

    「フロイドはどんどん料理の腕を上げますね」
    「そぉ?」

    ジェイドはハーブウォーターのグラスをおいて、

    「美味しい食事で胃袋を掴むといいますが、」
    「うん?」

    キッチンの後輩たちが片づけを請け負ってくれたので、フロイドはジェイドの声に呼ばれるまま向かいに寄っていく。

    「僕はフロイドにいのちをもらっていますね」
    「えぇ……さすがにあげてねぇよ、なに言ってんの?」

    キッチンの冷蔵庫から勝手に使ったけれど、変なキノコ入っちゃってた?
    「いいえ、」とジェイドはフロイドの手を取り上げて微笑って、食べたものすべてはいつか僕の身体になりますから、と自分の腹を触らせながら紡ぐ。

    「あぁ……」

    言われてみればと納得して、フロイドは表現しようのない満足感が込み上がってくるのをぐっと飲みこんだ。これ以上はだらしない顔になってしまいそうで。
    ジェイドのこれからのいのちを作る手順を丁寧に丁寧に自分の手だけでおこなえること。そのすべてを味わって咀嚼して飲み込んでもらえること。
    オレがジェイドをつくっている。
    正面でこちらを見ている対の素の顔に、口元がムズムズしていうことを聞かなくて、みっともなさにフロイドは結局後ずさって逃げる。フロイドの一歩は大きすぎて、思ったよりも近くにあった背後の棚の中身がガチャンと大きく揺れて、瓶の一つが視界の端から倒れ落ちていく。

    「フ、」

    目を見開いたジェイドの声よりも先に、咄嗟に落下の放物線の先にあったフロイドの肘が動く。尖った骨が瓶底に当たって、コツリと、回転して高く飛び上がる。フロイドは放物線を描いてまた落ちてくる瓶をもう片方の掌で受け止めた。息をひとつ。
    「器用ですねぇ」とジェイドはパチパチ拍手を贈る。

    「パフォーマンスまでしてくださるなんて、素敵なバースデーディナーです」
    「う~、骨に当たったぁ」
    「それはそれはかわいそうに……でもフロイドとても恰好良かったですよ、フレアバーテンダーの様でした」

    肘を包み込んでくるジェイドの手にフロイドは自分のそれを重ねて、

    「フレア……なに?」
    「フレアバーテンダー、カクテルを作るときにジャグリングなどのパフォーマンスを行うことをフレアバーテンティングというそうです。興味があるのでしたら今度街に出たときに見に行きましょうか」

    バー、テンティ……?言うの難しいね?
    フロイドは首を傾げて言い重ねる。

    「制服でバーはムリじゃね?」
    「えぇ、制服でしたらね」

    僕の服はあなたが見繕ってくださいね、と口元を覆うジェイドに「わるいかお」とフロイドも同じように笑って返した。
    ジェイドの耳で自分のピアスもシャラシャラご機嫌に揺れていて、たまらなかった。

    「デザートはどうする?マチェドニアとティラミスと、アフォガードもできるよ」
    「このあとアズールのところに行くんですよね?」
    「そ~」
    「じゃあ、ティラミスを三人でいっしょに食べましょう」

    アズール、デザート食うかな?そのときは今日の主役のお願いは聞いてもらえないんですかと嘘泣きしましょう。怒らすやつじゃん。
    二人で今日何度も歌ってもらったバースデーソングを鼻歌に支配人の元へ向かう。本気で歌うといろいろな意味で失神者が出るので、室外では思いきり声を出せないのが煩わしい。鼻歌くらいなら酔う人間がいるかいないかだから、今日くらいは許されるはず、とフロイドはくるりと回ったら後ろにいたジェイドと目が合って「落としますよ」と微笑われた。

    「……ねー」
    「はい?」
    「保健室行ったぁ?もう真っ赤っかじゃん、痛くねぇの?」
    「あぁ……今日は先生とタイミングが合わなくて……目より頭痛がすこし」

    「ちょっと強くなってきましたね」と痛みに顰めるより眉尻を下げてジェイドがいつものように笑うから、「今日はもう早く寝ようねぇ」とフロイドは空いた手で前髪を梳いた。
    オレの痛み止め効くかなぁ?ほいほい他人に渡すんじゃないとアズールに怒られそうだけど、他人じゃねぇし。

    「ご注文のメニューお持ちしました~」
    「あぁ、もうそんな時間ですか、ありがとうございます」

    ノックとほぼ同時にフロイドがドアを開けると、アズールは金庫に鍵をかけているところだった。アズールが陸で自分の魂を詰め込んでいる自分は入れない硬いタコ壺。
    応接テーブルにサーブしていると、ガチャリと重々しい音を響かせて施錠される。もう何度も聞き鳴れた音。きっとあの中は真っ暗なんだろうなとフロイドは思った。一昨年までの気に入りだった細い洞を思い出す。

    「う、わぁっ?!」
    「なに?!」

    唐突に上がるアズールの素っ頓狂な声に、フロイドは勢いよく振り返って同じように声を張ってしまった。皿がカチャンと甲高く鳴いて着地する。瞬間、フロイドの掌を掠めて黒く見えるなにかが飛んでいった。一度勢い良く壁にぶつかって、キィキィと微かに声を上げている。閉められていなかったVIPルームの扉の隙間を擦り抜けていく毛玉。

    「なんなの!」
    「鍵が!!」

    今度のアズールは悲愴に叫ぶ。

    「鍵を持ってかれた!!」

    どうしてドアが開いたままなんだ!
    フロイドは唐突な叫びに一歩も踏み出せなかった。なに?と訊く声も喉奥にしまわれたままで。突っ立っているフロイドを無視して、状況は展開していく。
    二人が巡らした目線の先で、ジェイドが屈みこんでいる。

    「ジェイド?大丈夫?」

    フロイドの伸ばした手は払われた。

    『よこせ』

    聞いたことがあるはずだのに違和感ばかりの声がジェイドから短く発せられて、青い顔をしたアズールに掴みかかっていく。

    「ジェイっ?!」
    「おま、っ!」
    「なにやってんの!」

    今度は動けた。
    大柄な身体に胸倉を掴まれたアズールはすぐに対応できず、飛び掛かられた勢いで机の向こうに沈む。それを追ってフロイドはデスクに乗り上げ、ジェイドの襟首を引っ掴む。力任せに引き剥がして反対側に投げる。勢いでジェイドのシャツの第一ボタンが飛んだ。

    「フロイド!おまえは!あっちを!」

    追いなさい!とアズールは喉元を抑えて起き上がりつつ、絞り出して常よりも渾身の力で叫ぶ。その間にもフロイドの右目の端ではジェイドが態勢を整えようとしている。

    「わけわかんねぇんだけど!」

    再度飛び掛かろうとするジェイドの喉元を狙って、フロイドは右肘を張り出して勢いを遮る。ジェイドはゴホリと噎せてすこしだけ勢いが削がれた。
    成長してからはほとんど聞かなくなったジェイドの唸り声に頭がついていかない。機嫌良さげに笑う以外に、歯列を剥きだすなんていつ以来だろう。海でしか見たことがない。

    「だから、わかってるのは金庫の鍵です、僕の手元から離れてるのはあっちだ」

    遠慮なくジェイドの腹を蹴り飛ばして距離を取ったアズールの顔は、冷静な言葉のわりに混乱から赤くなっている。よりによってその踵で……と、膝を折るジェイドの呼吸の浅さに衝撃を想像してしまって、フロイドは背筋も頭も冷えた。
    オレにとってのジェイドも、アズールにとっての金庫もどちらも大切。ひとの大切なものは比較するものじゃない。アズールにとってのジェイドの重みを想像して期待する。期待を裏切られたことは今のところない。
    アズールはさらに傍らの杖を引き寄せる。

    「僕ではあんなのに追いつけません」
    「そうだね」
    「このバカになったおまえの片割れは、僕がどうにかします」

    テキザイテキショってやつね。
    フロイドは声に出さず、厚い天板に立ち上がる。天井のほうが近くなった。アズールを見下ろす。

    「わかってると思うけどぉ、」

    達成できなかったときはどうなるか。
    まっすぐに見上げてくるアズールの顔にフロイドの影が揺れている。それにかまわずアズールはいつも通り口角だけを引き上げる。それが答えだと二人は知っている。

    「お互い様です」
    「……りょーかい」

    闖入者に騒ぐ声がホールから微かに聞こえてくる。
    フロイドはデスクの淵を踏みしめて飛んで、さらに一歩で扉を開けた。



    アズールはひらりと重力を感じさせずに跳んでいくフロイドの広く薄い背を見送る。

    「さて、おまえはなにをしたいんですか」

    いまだ二歩先で跪いているジェイドの身体に声をかけた。
    杖をトンとつく。

    「フーネム(縄よ)」

    しゅるりと蛇のように寄り付いた荒縄はジェイドの身体に触れる前に端から導火線のように燃え尽きる。
    ふぅん?
    もう一度つく。

    「トタルス(石であれ)」

    ジェイドの指がビキリと不自然に揺れたのが見えた。アズールは一歩だけ近づいて、ジェイドのつむじを見下ろす。

    「声は出せるでしょう。もう一度訊きますね、おまえはなにが目的だ?」

    ジェイドと呼ぶのは正解か?
    この高低差でジェイドを見下ろすなんてそうそうないな、とアズールの頭の隅の冷えた部分はニヤニヤ面白がっている。ジェイドの引かれたままの顎を杖で拾い上げてやれば、また見たことのないゴールドとかちあった。焙られる金。

    「だんまりですか。なら、おまえは僕の知っているお喋りウツボとは違うんでしょうねぇ」
    『魔女の心臓、ほしい』
    「おや」

    ジェイドの身体は噛み締めていた歯列を薄く開く。喉の奥から音が漏れ出て聴こえてくる。海底の洞を抜けていく潮流のような響き。身を危険に曝す音。
    アズールは顎を一撫でする。

    「ジェイドはいったいなにを喰ったんだか」
    『よこせ』

    術が破られる衝撃波が飛んでアズールの頬を掠める。
    頬が一閃熱くなった。
    目いっぱい力を込めていたのだろう腕が自由になってその勢いのままに伸ばしてくる早さに、アズールは咄嗟に杖を振るってしまう。手足のリーチ差でアズールがどうしても不利になる。その差を杖の長さで埋めた。ジェイドの腕を叩き落とす。

    「じょうずに動かせないようですが……頑丈な身体でよかったですねぇ、お互い」

    アズールは金庫に背を向け、立ち上がったジェイドの胸を杖で押して扉へ促す。柄を握りこまれたので、「頭を冷やせ」と詠唱無しで呼び寄せた水球を頭上から落としてやった。
    一瞬ジェイドの力が弱まる。彼の寮服の袖口からも水滴が落ちた。にぃと歪められるジェイドの口角。
    雫を払うようにジェイドの腕が繰り出されて、的確にアズールの喉を狙う。身体能力では圧倒的に不利で、アズールはそれを魔法の扱いと魔力で埋めるしかない。杖を物理的に使っても、ジェイドは額を切ったくらいでは怯まなかった。
    アズールはジェイドが飛び掛かってくる衝撃を受け流すうちに、VIPルームから出されて縺れてホールに転がり出た。
    閉店作業を終えたところの寮生がポカンと二人を見ている。

    「お二方、どうされたんですか……?」

    尋常ではないのはわかるが、支配人兼寮長と副寮長という立場の二人には自分たちが上級生であってもそう簡単には駆け寄れない。

    「大したことではありません、お疲れ様でした、早くおかえりなさい」

    床に縫い付けられている支配人はどう見ても大したことだったが、「大扉はきちんと施錠してくださいね」と言われて、「はい、かしこましりました」と小さく頷くしかなかった。

    「あと、フロイドと会ったら、」

    寮生の背中に向かってアズールの言葉が追いかかる。

    「ここの扉は開けないように、と」
    「?はい」

    大扉とは呼ぶが、ラウンジへの出入り口を二人はここしか知らない。入ってくるなということだろうかと憶測で曖昧に返した。
    アズールはそれを見送って、向かい合うジェイドの眼前に火を噴く。

    『っ!』

    ジェイドが飛びのく。
    今回のテスト準備でアズールがユニーク魔法を使って契約者から預かった魔法のひとつだ。さんざん口の中で転がした一言を詠唱して息を吹いた先、アズールの掌に火の玉が浮かぶ。炎の穂先が揺れるにあわせてアズールの眼鏡にかかった前髪も上昇気流にふわりと持ち上がる。瞳に眩しく、頬はあたたかい。アズールの心を蕩かす。
    いいな、やはり火属性魔法は欲しい。
    水の魔女であるアズールに炎はなかなか身につかない。こうやって他人の術式に魔力を注ぐと可動はするが、大部分が削がれこのサイズになってしまう。

    「乾かすのにちょうどいいじゃないですか」

    散々水をかけられて冷えたであろうジェイドの白い頬に笑う。アズールは両手に火球を増やして投げつけてやる。相手はさらに何倍もたのしそうに笑って、迫るそれを飲み込んだ。全開にされたジェイドの大きな口でばくん。

    「あははははは!なんですかそれ!」

    アズールは思わず高笑いした。杖を構えなおす。ギリと視線で刺す。

    「おまえの悪食、フロイドにも見せてやりたい」

    呼んだ名前の持ち主はイヤホンのむこうで走っている。短い呼吸に挟まる悪態と舌打ち。「こっちは魔法使えないのにさぁ」とぼやく年相応の声色に、アズールは自分も同じ年だというのに口角が緩んでしまった。フロイドはきっといまと同じ調子で「変なもの喰うなっていつも言ってるよね」とプリプリ叱るのだろう。



    「毛玉どこ行ったか見た?」

    ラウンジの清掃をしていたらしい寮生はぜぇぜぇと肩で息をして「大扉から」とだけ返す。

    「すみません、捕まえられませんでした」
    「わかったぁ、鍵閉めいいから、早めに上がんなね」

    ラウンジから出た回廊を走り抜けていく。爪で擦っているのか、キシキシシャカシャカ聞こえてくるから、見失うことはなさそうだが、小動物の背が低すぎて人型の中でも飛びぬけて長身のフロイドにはうまく掴み上げられない。拾い上げようと屈んだところで距離を取られる。それを繰り返している。黒い毛の背中に水流が反射して煌めている。

    「こっちは魔法使えないのにさぁ……」

    だから肉体労働を割り当てられたんだろうけれど。
    すべらかな毛並みを見ながら走ったら、オクタヴィネルのメイン棟に入り込んで、毛玉は急に飛び上がった。渦を巻く廊下の手すりを伝って、スルスルと上へと昇っていく。

    「けっこうやるじゃん、毛玉のくせに」

    いつか動画で見た森で枝から枝へ滑空する水かきのような羽根を持ったネズミを思い出す。
    短く息を吸って、同じ軌道でフロイドも飛び上がる。細く流線形の手摺に手をかけて一気に身体を引き上げる。二階部分に脚をかけたときに靴の爪先が擦れた。
    ズリという衝撃と爪先にできた黒ずみにフロイドは舌打ちする。ドレスシューズはパルクールには当然向いていない。
    リムーバーで落ちればいいけれど。

    「アズールに請求しよ」

    フロイドはもう一度飛び上がってさらに上の手摺を掴む。
    ネズミの姿は見えない。足音だけが聞こえる。その音を追っていたら、あるところでフロイドのイヤモニから自分たちのピアスの音が流れた。
    咄嗟に右耳を撫でる。ホールだけだ。

    「ないよな?」

    ジェイドに預けたきりだから。それでも音は聞こえてくる。

    「……これか」

    もうひとつの噂であった怪異の音がこのタイミングで現れたのだ。
    フロイドは目を閉じて、イヤモニと素の耳どちらにも集中する。
    鼓膜に直接届く移動する甲高い音。

    「わかったぁ……」

    にたり、ジェイドが見たら「ご機嫌ですね」と満足げに微笑ってくれそうな顔になる。ちょうどドアを開けて出てきた1年生はギョッとしていたけれど。

    「しーっ」

    フロイドが人差し指を立てて口元に寄せて見せたら、寮生は言葉も出せずにコクコク頷く。騒がれて寮監など出てきた日には面倒くささが爆上がりする。
    事後報告だけにしたいの、オッケー?
    ネズミの行き先がわかった今、ムリに飛び跳ねる必要はない。フロイドはきちんと廊下伝いにこの巻貝の最上階を小走りで目指す。砂を踏むように柔らかい絨毯は音を立てない。
    オクタヴィネル寮は海中城であるがゆえに他寮に比べてさらに強固な魔法で守られている。きつい海流に流されないように。水圧に潰されないように。海底の暗がりから悠然と現れる大型の生き物の目から逃れられるように。それらの複合的な防衛魔法の要石が最上階には据えられている。
    アズールから教えてもらっている合言葉を小さく唱えて、フロイドは静かに扉を開く。細く開いた隙間から覗くと想像した通り、嘴の長い黒い毛玉が無色透明な魔法石に抱き着いていた。キュウキュウ鳴る音が人魚たちとあまり変わらない。光ものに目がないらしい。
    アズールじゃん。
    普段なら魔法のひとつで絞めて摘まみ上げるところだが、今回はそろりと背後に回る。石の台座の周りには戦利品らしいコインが散らばっている。自分のマジカルペンやジェイドのピアスは見当たらないと確認する。
    隠してるのか、犯人じゃないのか。
    息を殺してあと一歩のところでフロイドはギョッとした。魔法石に自分が映っている。
    気づくな、毛玉。
    フロイドはズリと靴底をつけたまま身を引くが、コインに当たってしまった。
    ネズミは振り向いて、飛び上がって、コインの海に落ちる。

    「おい!」

    ネズミはキューキュー声を上げて、抗議している。コインをガチャンガチャン踏み鳴らして、移動に使っていたらしい伝声管にまた飛び込んでしまった。アッと声を上げる間も惜しく、フロイドは伝声管に飛びつく。

    「こんの、モグラ~!!」

    音はまたイヤモニからの足音に切り替わっていく。
    細くなっていく音を辿ってから、イヤモニのマイクをオンにする。毛玉がどこに出るかまではわからない。伝声管はこの寮内に複雑に張り巡らされている。闇雲に管を伝っても捕まえられる可能性のほうが低い。
    フロイドは静かに吹き込む。

    「オクタヴィネル、お願いがあるんだけれど」

    お願いか頼みか、その選択の正解は今はわからなくていい。昼間のジャミルの言葉を思い出したわけじゃないけれど。人を動かすのはジェイドのほうがずっとうまいとフロイドはかぶりを振った。
    順に応答が聞こえてくる。

    「いまからこの中を黒いネズミを追い立てるから、捕まえてほしいんだよね」
    「は、中?」
    「あ、そういや、なんか音するわ」

    それぞれが好き勝手に喋ってから、

    「それってフロイド個人からのお願い?対価もらえる系?」

    緊張の欠片なく尋ねるのは三年生だろう。寮内全てが彼らを畏怖しているわけではない。

    「ん~なくなった金とか戻ってくると思うけど、いいよぉ、アズールに聞いてみる」

    金庫の鍵が戻るなら、大抵のことは安いと今の彼なら言うだろう。

    「やった、マジで」
    「え、寮長にでもいいの?」
    「さっきのラウンジでのコース俺らにも食わせろ」
    「僕、メイク教えてもらいたいです」
    「ラウンジ割引、おいなんだよ」
    「それいつもだろ」
    「期末テスト虎の巻」

    喧々早々と鼓膜を刺激されて、フロイドは一瞬イヤモニを外した。橋の守衛たちは通行料の選定に騒がしすぎる。

    「……最後のは作ってるから、今度アズールに自分で言ってぇ」

    じゃあ、と続ける。

    「全員、耳を塞いで2分待機」

    マイクに向けて吹き込むのは船を沈めた人魚の歌。
    フロイドはきっかり百二十を数える。静寂の一瞬。

    「出ました、談話室です!」

    踵をキュルと鳴らした。



    ジェイドは飲み込んだ炎を吐き戻すように、掌に火球を乗せた。アズールよりもずっと大きな篝火がラウンジを明るく照らす。

    「おまえ、魔法も使えるんですね」

    いまのジェイドがつけているピアスがフロイドのものであることはアズールも知っている。制御よりも暴走を促すものであることも。

    「よくそれで、まぁ」

    身体の持ち主よりもよほど火の扱いがうまいらしい寄生者に思わず感服してしまう。

    『よこせ』

    肩を竦めるアズールにかまわずジェイドは低い声をもらす。先程より格段に不機嫌さが増している。アズールも溜息を漏らした。

    「バカの一本調子ですねぇ」

    ハットを拾い上げて、杖を短く三度つくと、ラウンジの高い天井に反響した。

    「ふふ、どうしました」

    足元で蠢く黒い影。それに気づいてジェイドは思わず後ろ足にたたらを踏み、アズールとその背後を見て目を見開いた。

    「そんなあなたにふさわしい漁場を用意してさしあげましょう……そんなトロ火で僕を釣れると思うなよ」

    空気を震わす音がつづく。



    フロイドが談話室に駆け込むと、毛玉を鷲掴みにした一年生たちがぶつかる勢いで寄ってきた。フロイドは「そうそう」と中央の寮生の頭を撫でる。一瞬びくりと揺れたがすぐに目を細めて享受する。細い指でその手の中の黒い毛玉を指し、

    「コイツ、このモグラがたぶん窃盗犯」

    でも金以外見当たんなくてさぁ。よく捕まえられたね。
    長い嘴をにぎりしめてやると真ん丸い目が吊り上げって睨まれているように見えた。

    「僕、鉱山の町出身なんです、街にたくさんいるので……これはニフラーですね、コイツはここにたぶん…」

    一年生は掴んだままの指を腹に滑らせて「あぁ、入ってますね」と頷いた。

    「コイツらは腹の袋に溜め込むんです」
    「ちっちゃくね?」
    「そこが魔法生物です、指つっこんでみます?」

    フロイドは指先でニフラーの腹をまさぐって袋の入り口を見つける。大柄な身体に見合った長さの指が根本まで飲み込まれても、底どころか中身すら触れられない。

    「なにこれぇ」
    「光ものが大好きで、鉱山などで宝石の地脈探しによく使われます」

    1年生はニフラーの足に手をスライドさせて、

    「先輩、僕らがネコババしてない証人になってもらえます?」

    にこりと念を押す顔はもうオクタヴィネル生になっている。

    「いいよぉ、ここに出して」

    フロイドは奇跡的にまだ頭にきちんと収まっていたハットを差し出す。逆さ吊りで揺すられる二フラーの腹から質量を無視した量のコインや貴金属が降り落ちる。最後の最後に見慣れたマジカルペンとピアスが滑り落ちて、フロイドはそれをもう片手で受け止めた。

    「やっと~!」

    握り締め、「ソイツ、アズールも見に来るから、明日くらいまでどうにかしておいて」とさらにお願いを重ねる。1年生たちは「かしこまりました~」と二フラーをまた抱えなおして手を振った。
    ハットを掌で掴み落とさないように駆ける。
    回廊に入るところで、先ほどのホールの上級生と行き合う。

    「大扉は開かない、とのことです」

    背中を追いかける要領を得ていない寮生の声に、「わかったぁ」と後ろ手で返事をして、大扉への緩やかなカーブを曲がった。



    ラウンジのエントランス脇には存在を認知している者だけに見える細い階段がある。それはVIPルームの真上、過去の司祭の控室であり今はアズールの個人的な実験室に繋がっている。寮監からも学園長からも黙認されている。モストロラウンジは今在学している生徒はもちろん古い教師すらもほとんど知らないほど昔、礼拝堂だったらしい。実験室はちょうどラウンジホールの死角、中二階で空間を共有している。
    フロイドは駆けあがった実験室の向かいからラウンジホールを見下ろす。廊下の淵まで水面が迫ったホールはプールか大水槽を思わせる。潮の香りが鼻腔いっぱいに満ちるから海水らしいが、視線の先に壁が迫るため、海と呼ぶほどではない。フロイドはこんなに狭い海は知らない。
    そのままの姿で水没したラウンジ。理屈はわからないけれどソファもテーブルもカトラリーも浮き上がることはなく、定位置に収まったまま水底に沈んでいる。見たこともないし、きっとこれからも見ることのない光景に無責任にフロイドの心は息と同じように跳ねた。シャンデリアに照らされたまろやかな水面の煌めきが目蓋に焼き付く。
    たゆたう水面から顔を出しているのは背の高いキャビネットがすこしだけ。その一つの上にジェイドが揺れる水中をねめつけて立っている。得物を探す目だ。壁に当たる潮の騒がしさに足音が紛れ、また死角になっているためフロイドにはまだ気づいていない。そもそも人が来られる構造だと知らないだろう。水中に探しているのはアズールだ。

    「フロイド」

    ちゃぷりと音を立ててアズールが顔を出した。人魚に戻っている。

    「すげぇね」

    やっちゃったね。
    このあとの始末など考えず素直な感嘆の言葉がフロイドの口から零れる。アズールはそのかろやかな言葉に不本意を露にして溜息をついた。フロイドがこれね、と差し出した金庫の鍵を一撫でして、また彼のジャケットの内ポケットに戻す。うん、今貰ってもねぇとフロイドも納得してジャケットを畳んで宝箱のようになった葉っとともに実験室のデスクにおく。どうせこのあと脱ぐのだから、最初にきちんとしておくほうがいい、もうなくならないように。フロイドの背後でガチャリと扉がひとりでに施錠される。

    「こちらのほうが有利でしたので」

    状況の説明はいらないだろう、おまえは後の心配なんて気にしない性質だからなと目が言っているので、フロイドはそうね、と頷く。

    「なにあれ、泳げない人間みたいじゃん」

    フロイドは長い足を折りたたんで小さく屈む。水面により近づけるように。アズールも同じ方向を見た。走り回って火照った指先に海水温が心地よくて遊ばせてしまう。ジェイドは目元を厳しくしているのに、足元が狭いせいか立ち姿も不安定で見ていて面白い。

    「泳げないんですよ」
    「マジで?ジェイドじゃん?」
    「あれの中身は今はシーという妖精です、良くないほうのね。魔女の心臓を喰って初めて一人前になれるやつで、僕の心臓を狙っているようですよ」
    「本格的に命狙われてんの、しかも人間とかじゃなくて妖精に?」

    聞いた言葉がおかしくてフロイドは思わず噴き出してしまった。自分たちが知らないうちに誰と契約しようとしたんだろうか。
    僕じゃないですし、おまえに言われたくないとアズールの目が吊り上がる。

    「ハロウィーンかサウィンで入り込んだんでしょう、ジェイドの身体は居心地がよかったでしょうね」
    「それであの目か~……はやく気づいてやりゃあ、よかった」
    「そうですね、お互いに」
    「で、どうすんのぉ?」

    フロイドはサスペンダーとベルトを外し、シャツのボタンをプチプチ鳴らしながら労りの声の支配人に采配を伺う。

    「沈めます」
    「はぁい」

    おまえが来たので、人魚に戻してやれば、ジェイドの身体にもいられなくなるでしょう。僕がやるとヘタに逃げられたときにジェイドには追いつけませんから、頼みましたよ。
    波をひとつだけ揺らして静かに潜ると同時にビキリビキリと自分の骨と皮膚が擦れ鳴る振動が直接鼓膜を揺らす。水中に入ったことで水上のアズールの声はくぐもってしまった。水温との差で転化する身体の熱をより強く自覚する。この海は故郷よりずっと温かいはずだけれど、それでも人型には冷たく厳しい。
    いつもは石のフロアに脚をつけて歩くホールを上から見下ろす。人魚のフロイドにとっては大して深くはないが、人間であるときの視界よりはずっと高い。まるでここでの時間を終えて夢の中に思い出しているかのようだ。三人で作った美しい水中遺跡。
    泳ぎ着いたカウンターで後ろのキャビネットに張り付いて態勢を整える。天板に尾鰭が乗り、その先がスツールの背を撫でた。
    水に追いやられてキャビネットに登ったかもしれないジェイドの背中を想像してニタニタ笑ってしまう。ゼェゼェ泳ぎ着いたのでも傑作だ。見られたアズールが心の底から羨ましい。
    この深さでは水面上からでもこのグリーンは揺らいで見えているはずだ。見えているところでどうしようもないんだろう、こちらからも見えている屈折する二本の脚は動かない。そういえば、今のジェイドは魔法を使えるんだろうか。ピアス制御なし、むしろ自分のピアスだから火に油状態ではあるはずだけれど。
    棚を伝って勢いをつけ、水面上にいる獲物を捕らえるように飛び上がる。捕らえるのは片足だけでいい。爪で抉ったらあとで謝ろう。

    『ギッ…!』

    ジェイドなら出さないような潰れた声とともに水中にご招待。ホームだからペンがなくても自由にできる。

    「返せよ」

    腕の中に捕らえて、ジェイドの顔より大きくなっている掌でそれを覆う。喉の奥で唱えた響きにあわせて、揺らいでいるだけだった手足が暴れはじめた。指の端から表皮の色は美しい翡翠に変わり、自分のものと同じように爪は大きくなる。着ているものも同時に脱げるけれど、ピアスだけは掌で受け止めて回収する。どうしようかなと逡巡したところで、腕の中のジェイドが本格的に暴れだした。息苦しくなってきたのだろう。火を好むのならより酸素が必要なのかもしれない。寄ってきたアズールにピアスを預けた。

    「人魚なのに溺れて、おもしれーね」

    フロイドが思わず笑うと口角から泡が零れていった。
    オレの酸素欲しい?
    上がっていくそれを追いかけて水面に向かおうとする泳ぎのヘタなジェイドを尾びれを絡めて引き留める。瞠目した大きな目は元の色に近づいている。もうすこし。
    身の内まで沈めるために、フロイドはジェイドの頬を挟んで食らいつくように唇を寄せる。いつもはジェイドがするように捕食者の口で咥えて、含んでいた海水を送り込む。鼻を摘まんでやって、

    「ほら、飲んで。早くエラ呼吸しないと死んじゃうよ、ジェイド」

    さすがに人魚の溺死は笑えない。自分の手元だからまだマシと言えばマシだけれど五十歩百歩だ。せっかく呑気な陸に揚がってきたんだから、まだそんなこと考えたくない。
    ビクビク震えていたジェイドの胸が一際膨らむ。そこを狙ってぎゅうと絞めると、ジェイドは大量の泡を吐いた。細かな気泡は炎色反応のように色とりどりに明滅して水面を目指していく。ジェイドは気絶してしまったのか、海草のように漂っている。フロイドはその腕を引いて、浮力でほとんど重さを感じないジェイドを抱え直す。後始末は追っていくアズールに任せた。
    入ったときと同じ実験室前にまだ起きないジェイドを引き上げて、今度は変身薬を飲ませる。実験室まで這ったから廊下も室内もべたべたになってしまった。アズールが「こんな野蛮な仕組み…」とぶちぶち言っていた三回蹴ったら開くカギが役に立った。「両手塞がってるときに便利だな」とアズールにコロリと意見を変えさせた、同じ場所ならグーで軽く殴っても開く懐の深い扉。
    冷えるフロアに転がしたジェイドにフロイドは自分のジャケットをかけてやる。それでもまだ目覚めないから、左耳に取り返してきたピアスをそっとつけた。

    「この手じゃないとつけてあげられないからねぇ」

    張り付いた短い前髪も長い黒も掻き分ける。ゆるく規則的に上下する胸に耳を寄せる。ジェイドの冷えた身体の底からゆるやかに人型の体温がひろがっていく。いのちの音を聞いた朝は今朝のことのはずなのに、もう随分前のことの気がする。海が乾いてジェイドのガラス箱がまた出来上がっていく。まだ暗く冷たい海底では押しつぶされてしまう脆くやわい砦。

    「たいへんだったねぇ、ジェイド」



    時間魔法の解除で巻き戻されていくラウンジの様子は圧巻だった。引き潮にも揺るがないソファにテーブル。浮き上がりもしなかったジェイドのコレクションの紅茶缶。きっと中身も湿気ているなんてことはないんだろう。キャビネットの一角を占めているティーポットの艶やひとつだけこっそり置かれている苔のテラリウムまで変わらない。継ぎ足されていくガラスの向こうに吸い込まれていく海水だけが生き物に見えた。
    フロイドは自分の肩に顎を乗せてぼんやりするジェイドといっしょに「すげ~」と単純な感想しか出なかった。

    「たんじょーびなのに疲れた……ぜって~今日、脚攣る」

    忘れていたのに都合のいいことこのうえないけれども。
    フロイドはまるで何事もなかったかのように鈍く輝くソファの背凭れに仰け反る。ギシリと音を立てて抗議されるが、実際は疲れ切った大男二人が伸び切ってもびくともしない。

    「ジェイド、ほんとにもう大丈夫?」
    「えぇ、フロイド。アズールも、お騒がせしました……」
    「おまえ、ほんとにジェイドです……?」

    お前が殊勝に謝るなんて初めて聞きました。

    「僕の辞書には謝罪という言葉がありますので……僕も水没したラウンジで泳ぎたかったです、残念です」
    「あぁ、ちゃんとジェイドですね」

    誰がもうやるか、とアズールは眼鏡をテーブルに投げ出して顔を覆った。そもそもどうして寮の防衛魔法が弾かなかったんだ。出入り自由じゃないか、とブツブツ溢している。
    フロイドはモグラがいたからねと見当はつくけれど、今日はもう新しいことは考えさせたくない。明日対策を考えても間に合うでしょ。

    「すげ~綺麗だった、オレ好きだなぁ」

    褒めてもやりませんよとアズールにいなされて、今度ジェイドと試してみようと秘かに思う。たぶん、時間と空間と……二人ならなんでもできるから。
    まだ爪先が傷んだままの靴を放り出して軽くなった足首をまわす。ついでにその先にあったジェイドの脇腹を爪先で捏ねてやった。かたくて、冷えてしまった足先にはすっかり熱い。
    「んふ、やめてください、フロイド。もっとお腹減っちゃいます。あと、なんだか痛いです」
    間髪入れずに「不可抗力です」とアズールの声が割り込んだ。

    「マジでぇ、あんだけ食べて減ってんの……?ていうかオレまともに食ってないんだけど」
    「僕もですよ……でもこんな時間に」
    「いいじゃんもう、明日気をつければ……あ、ジェラートあるよ、ジェラート食べよう、溶けるからカロリーゼロだし」

    フロイドはアズールの首根っこを掴まえてキッチンに引っ張り込む。じとりと見上げられたけれど気にしない。「おやおや」とジェイドもそれに続く。冷凍庫には数時間前と変わらず業務用パックがジェイドの名前を刻まれて燦然と輝いてる。

    「あ、誕生日終わっちゃう。アズール、毎年ありがとね」
    「ほんとうにありがとうございます」
    「こちらこそ。……お礼は僕のときにしてくだされば結構ですよ」
    「「ふふ、」」

    二人揃って同じ高さの声が漏れた。

    「陸の誕生日はほんとうに刺激的ですね。もういちど、お誕生日おめでとうございます、フロイド」
    「ありがとう、ジェイド。今年も生き残れてよかったね、おめでとう」
    「えぇ、ほんとうに」

    パックを抱え込んで三人でジェラートを食べさせあう。甘さが喉に滑り落ちていく。舌が痺れるほど冷たいのは気持ちがいい。あたたかい身体だからこそ楽しめる時間。
    フロイドはジェイドに先ほど浮かんだ名案をほとんど息だけで耳打ちする。「息、冷たいですね」とジェイドも口角を吊り上げた。

    「ねぇ、こっそり水遊び、しよ」

    三千世界のどこであっても、いつか二人で並んで横になれたらいい。
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     普通に考えて疲れていないわけがない。
     もちろんほぼ同じスケジュールのアズールも疲れているのだが、ジェイドとフロイドの2人がかりで仕事を奪い寝かしつけているのでまだ睡眠が確保されている。
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