その日、紫狼が本部の廊下を歩いていると、珍しい人と出くわした。
きちっと制服を着こなした、眼鏡の青年。
悪の組織の幹部である、ゴーラス5のメンバー。緑埜樹だ。今日は一人で来ているのか、周りに他の幹部の姿はない。
なにか用があるわけではないが、こうして会ったのだから一応声をかけておくか。そう思った紫狼だったが、ふと違和感に気が付いた。
こちらに向かって歩いてくる樹の体が、やけにふらついている気がする。それに、心做しか顔色が悪いような────
「っ、おい!!」
ぐらりと樹の体が傾いだ。
紫狼は咄嗟に駆け寄り、すんでのところで彼の体を受け止めた。
間近で見た彼の顔は、やはり青白い。発熱しているのか、体が熱かった。
「おい、大丈夫か?」
軽く肩を叩いて声をかける。すると閉ざされていた樹の瞳が、ゆるりと紫狼のことを捉えた。
「……藤崎さん?」
力ない声がそう紡ぐ。どうやら彼は、紫狼の存在に気付いていなかったらしい。
「……! すみません、すぐにどきます!!」
自分の体制を自覚したらしい樹が、勢いよく紫狼の腕から抜け出した。しかし、すぐにふらついて再びバランスを崩してしまう。
「目の前で倒れた奴を、はいそうですかと帰すわけがないだろう」
もう一度受け止めつつ、紫狼はそう言った。
「医務室で休んでいけ。必要ならゴーラス5に連絡するが……」
「それはやめてください!」
思いのほか大きな声に、紫狼は目を見開く。
あ、といった顔で樹は動きを止めた。
「……わかった、連絡はしない。だが、その体調では帰れないだろう。少し休んでからにしろ」
「そう、ですね……。そうします」
樹は、気まずげな顔で頷いた。
~*~
医務室に辿り着き、ベッドに横になった途端、樹は眠りについてしまった。
よほどしんどかったのだろうと思うと同時に、なぜこんな体調でここに来たのだという疑問も浮かぶ。
それに、どうして他の幹部を呼ぶことをあんな風に拒否したのか。
自分には関係ないことといえばそうだが、気になってしまうのもまた事実だった。
紫狼が一人考え込んでいると、どこからか聞き慣れないメロディーが聞こえてきた。
辺りを見回してみると、樹が眠る前に枕元に置いていた、彼のスマートフォンが着信を知らせていた。
表示された名前は『黄島さん』。ゴーラス5のリーダー、黄島朝陽のものだった。
持ち主は眠っているため、もちろん応答することはない。しばらく鳴り続けて、着信は止んだ。
しかし、一分も経たないうちに再び同じメロディーが流れ始める。
なにか急ぎのようなのだろうか。だとしたら、樹がすぐには動けないことを伝えた方がいいかもしれない。
紫狼は少し逡巡して、画面の応答ボタンに触れた。事情は起きた時に話せばいい。
「もしも……」
『あ、樹!? やっと出た!! 今どこにいるの!?』
言い終わる前に、朝陽が捲し立てるように話始めた。声色や話し方から、彼がいつになく 焦っているのがわかった。
「すまない黄島。緑埜じゃなくて俺だ。藤崎だ」
『えっ、紫狼君?』
今度は困惑が伝わってくる。今日の朝陽は随分と感情が忙しい。
「本部で緑埜が倒れそうになっているところに居合わせてな。今、医務室で寝かせている」
『本部……医務室……』
次の瞬間、はぁーっという大きな溜め息の音が聞こえた。遠くの方でほかの幹部達の声がざわざわと響いている。
『じゃあ樹、今ちゃんと休んでるんだね?』
「? そうだが……」
『…………よかった』
今まで聞いたことがない、絞り出すような声だった。向こうにいるのは、本当にあの飄々とした男なのだろうか?
『心配かけてごめんね、紫狼君。今から樹のこと迎えにいくから』
「それは助かるが、その前に一つ聞いてもいいか?」
『なに?』
「お前たち、なにかあったのか?」
これは本来、紫狼が知る必要のない話だ。
幹部たちの間でなにがあろうと関係ない。だが、自分たちは同じ組織の仲間だと彼らは言った。ならば少しくらい、踏み込んでもいいのではないだろうか。
ほんの少し間を空けて、朝陽がゆっくりと話し始めた。
『……紫狼君は、少し前に樹が色々あったこと、知ってる?』
色々。それは恐らく、樹が一度この組織を裏切ったことを言っているのだろう。
その出来事に深く関わったわけではないが、なんとなくは知っている。
「まあ、なんとなく」
『それから更に色々あって、樹はうちに戻ってきてくれたわけだけど、本人的に思うことがあるみたいでね』
組織に戻ってきた樹は、よく働いた。
ちょっとした雑務はもちろん、首領からの指令、人手が足りないという本部での仕事。とにかくなんでも。その姿は、どこか自分を痛めつけているようにみえたと朝陽は語る。
『最初のうちは、樹の気持ちを尊重しようって皆で様子を見てたんだ。だけどここ最近は、明らかに無理してたから、止めようって話になって。それでいざ、今日は休ませるぞって思ったら、樹がアジトにいなくてさ』
朝陽の話を聞いて、全て合点がいった。
こんなにもふらふらなのに、本部に来たのは無理をしていたのと、止める相手がいなかったから。
幹部たちを呼ぶことを拒絶したのは、自分の行動を止められたくなかったからだろう。
『そんなわけで、今から迎えに行くから、悪いんだけど俺らが行くまで樹についててもらっていい?』
「あぁ、わかった」
『ありがとう、紫狼君』
そこで通話は途切れた。
とたんに静かになった部屋で、紫狼は小さく笑みを浮かべた。
「随分と仲間に大切にされてるんだな」
眠っている樹にこの言葉が届くことはない。
だけど彼は、それを嫌というほど実感することになるのだろう。
ひとまず今はゆっくりと休め。紫狼はそっと樹の頭を撫でた。