さようならは似合わない「こはくん、次はいつ会えるのですか」
空は橙色に染まり、烏が大声で日暮れを告げている。朱桜家の中庭にそびえ立つ大きな木の下で、司は頭上の枝に腰掛ける彼を見上げていた。
「お別れんときはいつもそれやな、坊」
「だ、だって…!最近会える頻度が減っているでしょう?」
「それはわしの都合やなくてぬしはんの方やろ。お勉強にお稽古にで大忙しやんけ」
「…はい、次期当主として学ばなくてはならないことばかりで……でも、僕はまだ子供です。お友達とこうして遊んでいたい」
「そのお友達が桜河の人間やと知ったら、ご両親はどないな顔するやろなぁ」
「こはくんはこはくんです!お友達に家柄は関係ありません」
「……やとええけどなぁ」
こはくは木からひょいと飛び降りると司の目の前に立ちはだかった。
「なぁ、坊」
ずっと見上げていたせいで首を痛めた司は、真剣な顔をしたこはくとは対照に「はい…?」若干腑抜けた返事をする。
「わし、生まれてからな、あの狭い檻ん中でずっと考えとった。なんでわしは生まれてきたんやろって」
「………きゅ、急に何を…」
「次期当主っち将来が決まっとるぬしはんは考えたこともないやろけどな」
「…」
図星だった司は黙り込む。
「…最近ようやく答えにたどり着いたんじゃ。わしが生まれてきたんはな、坊。ぬしはんを守るためじゃ」
「僕を?」
「うん、それもな、側にぴったりくっついて敵を倒す護衛なんかとちゃう…坊の後ろに出来た影で敵を殺そうと暴れ回る番犬じゃ」
「そんな、…………いえ、そうですか」
そんなこと言わないでください、と。影じゃなくて、堂々と、僕の傍にいてほしい、と。返そうとした言葉が喉元で留まる。司に意見を求めているようには見えず、すでに自分の中で綺麗に腑に落ちているように見えたからだ。
「わしはぬしはんの体に一つも傷をつけんように、影からずっと守ってかないけんのじゃ………でも坊に会うてからわし、ずっと真逆なことしとる」
「真逆?」
「…影から出たらあかん人間が、光を見とるべき人と目ぇ合わせてるっちこと」
こはくは司の目をわざとらしく覗き込むと、いまいち理解が追いついていない様子の司のほっぺをつんとつついた。
「坊にはまだちと早かったみたいやなぁ」
「…あっ、今馬鹿にしましたね?!この次期当主である僕を!あなたよりお兄ちゃんであるこの僕を!」
「気のせい気のせい〜♪」
こはくはひゅるりと体を動かし、また木に登る。
「お空も真っ暗やな。もう帰らな」
「そうですね…寂しいですけど、また遊びに来てくださいね!」
「…」
しゅっと葉が揺れる音がしたかと思うと、一瞬にしてこはくは姿を消した。なんだか魔法みたいで司はいつもこれを見るのが好きだったのだが、今日は何故かこはくの訪れも魔法のようにあやふやなものだと感じられるようで少しばかりの恐怖が襲う。
司は無自覚にも何かを感じ取っていたのだろうか、この日以来こはくはぱたりと家に訪れなくなった。
ーーーーー
はっと目が覚める。部屋の時計を見ると短針はちょうど九を指していた。
午後七時に帰宅した司はどっと押し寄せた疲れに身を任せ、部屋着に着替えるや否やベッドで寝てしまっていたのである。
懐かしい夢を見た。幼い頃の記憶など断片的なものではあるが、それでもあのとき最後に見たこはくの小さな背中と、言いようのない漠然とした恐怖感は十年も経った今でもはっきりと思い出せる。目が覚めた今もあの心がぽっかりと空くような感覚がくっきりと残っていた 。
司はゆっくりと上半身を起こし、目の前の壁にかかっているカレンダーを眺める。紺色のペンで滑らかに書かれた『長期ロケ』の四文字。二週間ほど前にこはくがここで書き込んでいたものだ。
「……こはくん」
ロケに向かう前日の夜、司達は特別普段と変わることもなく、軽く談笑をして別れた。ただのロケ、しかもたったの一週間、大袈裟に別れを惜しむ方が不思議だと思う。実際当時の司は、音信不通になる訳でもないのだし、と一週間を甘くみていた。
しかし、今になって不安が過ぎる。あの日、こはくは『またな』と言ってくれただろうか。答えは否だ。司の「お土産待ってますよ」という言葉に「任せとき」と答えて、そのまま帰って行った。微笑ましいやり取りではあるが、その“いつもと変わらない”“普通の”言葉を最後にしたのが、今の司には不安を煽る原因となる。夢の中の、あの時と同じ。こはくは別れの言葉も言わずに消えてしまった。
このまま帰って来ないんじゃないか。また何も言わずにどこかへ消えてしまうのではないか。そんな不安がじわじわと司の心を支配する。
気づけば自身のスマートフォンを手に取り、連絡アプリのこはくのアイコンをタップしていた。
バイブ音を鳴らしながら電話マークが表示される画面を見て、自分の行動に焦る。衝動で電話をかけてしまった。向こうは仕事で忙しいというのに。
急いで電話を切るとトークの画面を開き、詫びのメッセージを入れた。
『お仕事中にすみませんでした』
『急ぎの連絡ではないので気にしないでください』
続けて『少し寂しくなってしまって…』と打ち込んだがすぐに削除する。気を遣わせてしまう気がして、申し訳ない。
司は仕事の連絡が入っていないことを確認すると、連絡アプリを閉じ、またベッドに寝転んだ。
ーーーーー
十分後。天井を見つめぼーっとしていた司は、耳元のスマートフォンのバイブ音に驚いて勢いよく体を起こした。画面には大きく桜河こはくの文字。胸を弾ませながら電話に出た。
「もしもし…」
『どしたん、なんかあったん?』
「え?」
『急に連絡寄越すから珍しいなぁっち思って』
「いえ……特に…何も…」
『ほんまに?』
「…」
『…言うてみ』
こはくの声は優しかった。この落ち着いた柔らかな声色はいつも、何を言ってもきっと受け入れてくれると思わせてくれる。
「夢を…見たんです……昔の、私たちが最後に会った日の夢を」
『夢…』
「あの日のこと、こはくんは覚えていますか?」
『……うん、覚えとる』
「貴方は何も言わずに私の前から去ってしまった。その夢を見てから…またこはくんが何も言わずに私の元から消えてしまうんじゃないかって…少し不安になってしまったんです」
『………そうか』
少し沈黙が流れる。司が言葉を紡ごうとすると、その前にこはくが口を開いた。
『…堪忍な。そないな風に思わせとったとは、思っとらんかった』
「…はい」
『……なんでわしがあん時、最後に何も言わんかったか分かるか、坊」
「えっ…な、なぜか…ですか」
「うん」
僅かな沈黙の後、こはくがぽつりと告げる。
「……それはな、終わらたせたくなかったからじゃ』
「…どういうことですか?」
『……あの日はな…坊に会うの、もうこれっきり止めようっち思ってた。ずっと決めてたことやったし、伝えたいことは全部言うて、今までありがとうっち別れるつもりやったんじゃ』
たしかに、こはくは当時の司には少し難しいことを語っていた。生まれてきた意味なんて突然に言われて驚いたのを覚えている。
『でも最後の最後になってな、別れるんが怖くなった。今までありがとうとか、さようならとか、そないなこと言うたらもう一生会われへんみたいで…いや、一生会われへんぐらいの覚悟でおったのにな、いざ別れるっちなったら離れたくないっち思ってもうた』
当時の自分の心境を思い出して、こはくは胸を締め付けられるような気持ちになる。
やっとのことで朱桜家から離れても後ろ髪を引かれる思いで、『年に一回ぐらいなら会いに行っても…』なんて早速心が揺らいでいたのを覚えている。
結局そんな意思の弱さを責めるかのようにこはく自身も忙しくなり、司に会いに行くことは難しくなった。当初の予定通り、あの日が司と会う最後の日となってしまったのだ。
「そういうことだったんですか」
『でも……あ、ずっと不安にさせてもうてたんにこないなこと言うたらあかんのかもしれんけど……あん時別れの言葉を言わんくてよかったのかもしれんな』
「一生のお別れにならなかったから、ですか」
『そう。あん時のわしらに言うてあげたいなあ、十年後にはお互いアイドルやって、同じステージにも立っとるよ、っち』
「ふふっ、きっと信じないでしょうね」
『ほんまに』
こはくとの会話で司の気持ちはすっかり晴れ上がった。昔のこはくの本意を聞いてからだと、一週間会えないだけでこうして電話してしまうほどに、自分たちの距離は縮まったのだと嬉しくなる。
「あぁ、お話し出来て良かったです。お忙しいでしょうに、わざわざ掛け直して頂いてありがとうございました」
『いや、わしもちょうど坊と話したいなあっち思っとったから。お陰で明日も頑張れそうやわ』
「明日が最終日でしたよね、頑張ってください」
『お土産はちゃんと買うてるから、楽しみにしとき』
「もうですか!分かりました、楽しみにしています」
あぁそうか、と司は気がつく。昔と重ね合わせて不安になった、ロケ前の最後の会話。
たしかに、またねと別れの挨拶はなかった。でも、お土産の約束をしてくれた。十分すぎるぐらい、こはくは“また会う約束”をしてくれていたのだ。
「……ふふっそうですよね。こはくんはもう、消えたりしない」
ぼそりと呟く。ちょうどこはくの方からビニール袋のごそごそとした音が流れたため、おそらく司の声は聞こえていなかったのだと思う。
『なんか言うた?』という言葉に「なんでもありません」と答える。
「帰ってくるのは明後日でしたよね」
『うん、朝の十時ぐらいにはそっちに着く予定じゃ』
「実は私、その日はばっちりscheduleを空けておいたんです!一日中一緒にいられますよ♪」
『おぉ、熱烈なお迎えやなぁ』
「せっかくですしお菓子なども用意しましょう!お仕事のお話も聞きたいところですし」
『そらええなぁ!わし、ここの一週間甘いもん食うてへんから、体が欲してたところやったんじゃ』
「ではこはくんのお気に入りのお菓子を揃えておきますね」
時計の長針が五を指した。気づいたこはくは大急ぎで立ち上がる。
『すまん坊!わし、十九時半からメンバーのみんなとご飯行く予定があったんじゃ!』
「そ、そうだったんですか…!すみません、長々と」
『ううん、話せてほんま嬉しかったわ』
「私もです。ではまた明後日!」
『うん、ほな!』
電話を切ると、こはくは急いでホテルの部屋を出る。メンバーとはエントランスで待ち合わせということになっていた。
対照に、司はゆっくりと満足げにベッドに仰向けになる。ほんの十数分の電話一つで、十年前恐怖に襲われた自分が救われたような気がした。
大丈夫。未来の貴方の隣には、桜河こはくがいる。
司は心の中で小さい頃の自分に向かって呟き、ゆっくりと目を閉じた。