ショートケーキより甘い恋「ありがとうございました」
一礼をしてスタジオをあとにする。
今日のスケジュールはなかなかに過密だった。
朝から雑誌の撮影、インタビュー、そして先ほどまでは長時間の番組収録。
デビューして三年が経ちようやく成人を迎えたからか、今年に入って個人の仕事が増えたように思う。
今日のように忙しなく一日を過ごすことも稀じゃなくなった。
長い廊下を渡り終えドアを開けると、外の生温い空気が体にまとわりついてきた。
もう九月だというのに夜になってもこの暑さ。キンと冷えた冬の空気が恋しく感じる。
まあいざ冬になったら、今度はこの夏の暑さが恋しくなるんだろうけど。
服の襟を掴んでパタパタと扇ぎながら空を見上げた。
入りの時とは大違いのこの暗さは今日一日の長さを物語っているようで、思わず息を吐く。
どっと疲れが襲ってきた。
自分への労いに何かスイーツでも買って帰ろうか。
向かいの通りにコンビニを見つけると、吸い込まれるようにそのスイーツコーナーへと足を運んだ。
♢♢♢
大福、どら焼き、みたらし団子……和菓子がずらっとレーンに並んでいる。
数年前の自分ならば迷わず真っ先にこれらに手を伸ばすのだろう。
…だが今のこはくは違う。
悔しいことに誰かはんのせいで日々洋菓子を口にするようになってしまい、ついに洋菓子の美味さに気づいてしまったのだ。最近は気分によって和と洋を行き来している。
なんだか癪に障るので彼――坊の前で洋菓子を食べたことはないのだが、きっとほれ見ろと言わんばかりの勝ち誇った顔でこちらを見てくるんだろう。
(……あ)
勝ち誇った顔……そうだ、やけに容易く想像できると思った。それもそのはずだ。
今朝、見たじゃないか。手を腰に当てて、少し胸を反らす彼の姿を。自信のみなぎったあの笑みを。
新居ならではの独特な匂いがまだ微かに残る玄関口で、彼はあの顔をしてこう告げたのだ。
「ご飯もお風呂も本日は私が準備してみせます!完璧に家事をこなして最高のお出迎えをしますから、楽しみにしていてくださいねっ」と。
今日は同棲してから初めてのオフの日だから、とずいぶん張り切っていた。
パジャマから部屋着に着替えると同時にエプロンを付ける様子はさすがに面白くて、というか正直可愛くて、思わず吹き出してしまった。
馬鹿にしないでくださいっ、形から入るのが一番なんですよ!なんて頬を膨らませるその姿が愛おしい。
この人が自分より二つも年上の二十歳だなんて信じ難い事実だ。
そんな彼は真面目だから、というかこはくのことが大好きだから、こはくを驚かせたい一心で家事に没頭しているのだろう。きっと今も。せっかくオフだというのにたいして休みもせず事に打ち込み姿が目に浮かぶ。
ご褒美に買って行ってやるか、と苺のショートケーキを二つ片手にレジへと並んだ。
♢♢♢
仕事で疲れているはずなのに足取りが軽い。他でもない、坊のおかげだろう。
家に帰れば恋人がいるという事実、そして家事をして自分の帰りを待っているという事実はこはくの心身をいま確実に癒してくれている。
…浮かれとるなぁ。まるで恋愛漫画の主人公やわ。
幸せな恋なんてできないと思っていた数年前の自分がこんな未来の姿を見たらどうなるだろうか。
似合わない惚気具合に卒倒でもしそうだ。
コンビニから歩いてしばらくしないうちにマンションに着いた。言うまでもなく、坊との新しい住まいである。
広々とした庭、その先にあるエントランス。どことなく星奏館と造りが似ているように感じるのはおそらく気のせいではないのだろう。
なぜならここもESが管理する施設の一つだからだ。
寮を出たいアイドルのために用意されたこのマンションには当たり前だが顔見知りばかりが入居している。
これじゃあもう星奏館から場所が変わっただけじゃないかと思ったりもするのだが、特に不都合があるというわけでもないのでこはく達もここの入居を決めた。
エントランスの自動ドアへ向かう。
開いた先にある集合インターホンの鍵穴に、鞄から取り出した自室の鍵を差し込もうとしてその手を止めた。
今日は坊が家にいるのだ。せっかくのことだしインターホンを鳴らしてみよう。
部屋番号をポチポチと入れ、最後に呼出ボタンを押した。
<ピンポーン>
エントランス内を反響するチャイムの音の大きさに少し焦りながら、内蔵のカメラに視線を合わせる。
間も無くぷつりと音が切れた。
「おかえりなさい」
「ん、ただいまぁ」
自動ドアが開く。その先にあるエレベーターに乗り込むと3のボタンを押した。
六階建ての三階、エレベーターを出てすぐ向かいの308号室。
グレーの無機質な箱から出るとあっという間にドアの前までたどり着いた。
表札はまだ発注段階で手元にはなく、即席で作った紙きれのものが代わりにかかっている。
たしかあと三、四日で届くはずだ。
<♪♫♪〜>
表札のすぐ下についたインターホンを押すと、先程と違い軽やかなメロディが流れた。
坊の声を待つ。
途端、ドアがガチャリと開いた。
「おかえりなさいっ!」
「うぉっ…?!」
ドアの前で今か今かと待ち構えていたのだろう。
インターホンを鳴らして本当にすぐだったから、驚きのあまり声が出てしまった。
思惑通りだったのか、玄関に立つ彼は満足げに顔を綻ばせている。
「びっくりさせんなや、まったく…」
坊はドアを押さえるのを手から肩に変えると、はい、と腕をこちらに伸ばしてきた。
意図が分からずとりあえず手を重ねる。
違いますよ、といよいよ声に出して笑われてしまった。
「かばんです、私が持ちます」
「?別に重くあらへんよ?」
「そういうことではなくて…」
坊はこはくの肩にかけていたかばんをすっと奪うと、「靴、脱ぎづらいでしょう」と靴べらを差し出した。
「あ、あぁ…おおきに」
気が利く…申し訳ないけれど少し意外だった。
いや、坊が気配りのできる人間だというのは知っている。
あのビッグ3と呼ばれているKnightsのリーダーであり、我らが御本家の当主も務めているのだ。
立場が上の人と関わることも多いだろう、人との付き合い方はよく心得ているに違いない。
でも、対こはくとなるとそれは気配りというよりかは世話焼きと捉える方がしっくりくる。
高校生の時ほど露骨に世話を焼きたがることはなくなったが、自分はこはくの兄であるという自負のようなものは今も心の内にあるのだろうなというのは感じていた。
だからこんな風に一人の大人として…というのも変だが気の利くことをされるのはとても新鮮に感じる。
しかもそれが距離を感じるようなものではなくて、むしろ……
「ごはんやお風呂の支度は調っていますよ。今日もいっぱいお仕事をがんばってきたようですし、ゆっくり骨休めしてくださいね♪」
「…ふはっ、いつぞやの新妻やんか。懐かしいなぁ」
三年前のJの一件で坊が口にした冗談だ。
…そう、新妻。むしろ結婚して間もないお嫁はんのように親身であたたかいのだ。
この感覚はこはくの強い願望から生まれただけなのだろうか、いや坊が意図して行動しそう仕向けている様な気もする。
…まあどちらでも構わないのだけど。
「いつかまた言いたいと、同棲し始めてからずっと思っていたんですよ」
「ほんで実際、ごはんも風呂も準備してくれたん?」
「もちろんです、少し張り切っちゃいました」
「そら楽しみやわぁ…ほな、坊の手作りご飯からいただこか♪」
♢♢♢
ダイニングテーブルに続々と夕食の皿が並んでいく。
二人分とは思えない程の豪勢っぷりで、二日前に購入した新品のテーブルと相まってまるで高級料理店のようだ。
「お皿と机でなんとかましになっているという感じの見た目ですけど…あ、味は大丈夫ですよ、たぶん…!味見して特に異変は感じなかったので」
「いや味は心配してへん…っちいうかどんなんであっても美味しくいただくつもりや。それより味見のしすぎでもう腹いっぱいとかないやろなぁ?」
「そ、そんなのないに決まっています!むしろ少し罪悪感を感じていたんですよ。味見といえど料理をつまみ食いしているみたいで……」
いかにも坊らしい。
キッチンで立ちながらというのも気が引けて、わざわざダイニングテーブルに座って食べたんだろうな。
取り分け用のスプーンと味見用の箸と小皿を用意して、味を感じられるギリギリの微量をちまちまと攻めて掬う姿が目に浮かんだ。
……可愛い。
「はいっ準備できましたよ!」
「おぉ、なんやグラスまで用意されとるやんか。パーティーみたいやな」
「中身はちゃんとjuiceなので安心してくださいね」
瓶に入ったぶどうジュースを丁寧にグラスに注ぐ。
あと少ししたらこれにお酒を入れられる日が来るのか。
坊と二人、この場所でお酒を嗜む……大人っぽくて少し憧れる。
「では、まずは乾杯からしましょうか」
テーブルを挟んで向かい合わせに座ると、グラスを持ち上げた。
「坊の初手作り料理に……」
「「乾杯〜!!」」
♢♢♢
夕飯を食べ終えたあとはそれぞれ風呂に入り、今はソファで二人くつろいでいる。
毛糸素材の柔らかなパジャマに包まれた坊の姿はなんだかぬいぐるみのようだ。
シャンプーやボディソープの甘い香りとほわほわとした雰囲気とが相乗効果のようになって、坊の可愛らしい風呂上がり姿を形成している。
…って、さすがに気色悪いだろうか。
「こ〜はくん♪」
突然名前を呼ばれた。まさか…視線がバレっとったんか?
焦って少し思考を巡らせていたら、返事をするよりも速く、真横に座っていたこはくの膝に上半身から倒れ込んできた。
勢いで生まれた風に乗って、ふわっと甘い香りがまた鼻をかすめる。
「どっどないしたん急に…」
あまり自らは仕掛けないこはくとは対照的にボディタッチが多くハグの要求など常である坊だが、膝枕なんてものは初めてだ。
慣れない状況に戸惑いながら、とりあえず彼の頭をぽんぽんと撫でてやった。
「今日の私、何点でしたか?」
膝の位置からこはくを覗き込む。
目が輝いているように見えるのは真上の天井についた照明のせいだろうか。
普段よりもハイライトの入ったその瞳は“私を褒めて!”と言いたげに感じる。
いや目など見なくとも、にまぁと上がった口角からそれを察するのは容易いことだ。
「うーん、せやなぁ……七十五点」
「あ、案外低いですね…そこは『百点満点』とか言うところじゃないですか」
「冗談じゃ冗談」
「……じゃあ、本当は?」
「九十五点」
「ん、んん〜!高評価ですけど…っ!」
坊は悔しそうにくしゃっと顔を歪ませた。
いつぞやの彼の言葉を借りるなら“梅干しみたいな顔”だ。
…いや、あの時は悲しみに暮れていた時に用いていたか。
まあいい、こっちの顔の方がしっくり来る。
「コッコッコ♪ひいた5点はこれからの期待を込めてっちやつじゃ。家事のひとつもしたことないお坊ちゃんがこんだけようやったと思うで」
「家事をしたことがないのは貴方もでしょう?」
「せやからようやったっち言うとんねん。尊敬の意を込めてな。特に料理は、見た目はまだちとあれやったけど味はほんま別格やったし」
太さの不均一な人参を思い出す。あぁ、あとごぼうも。
見た目はいかにも素人という感じだったが、味は甘すぎず辛すぎず、程よく甘辛いきんぴらごぼうだった。
「ふふん、そうでしょう♪料理本を読んでみたり椎名先輩にちょっとしたコツを教えてもらったり、たくさん準備したんですよ」
「ニキはんに?」
「はい。ジャガイモを茹でる時は切れ込みを入れてからがいいとか、ゆで卵は茹でる前に卵の丸い部分にヒビを入れておくといいとか………あとは……料理の一番の隠し味は、愛情…とか……」
少し恥ずかしそうな様子の坊はこはくの顔をちらりと見ると、視線を向こうに逸らした。
耳も少し赤くなっている。
「愛情、なあ」
「だ、大事なのは気持ちですから!何事もそうでしょう?」
「うん、せやね」
今日いただいたどの料理も、味は本格的なものだった。
ニキはんに付きっきりで教わったのだろう。
でもその美味しさ以上にこはくの心を満たしてくれたのは、料理一品一品からちらほら顔を覗かせる“坊らしさ”だった。
『包丁はちゃんと使えたんやろか』『手ぇ震わせながら恐る恐る調味料加えてそうやな』『人参、案外固かったやろ?びっくりしたやろなぁ』なんて次から次へと坊の姿が脳内を駆け巡る。
それがなんだかとても幸せに感じたのだ。
もしかしたらそれは愛情の力なのかもしれない。
長さも太さもバラバラな人参に、たしかに愛を感じた。愛おしいと思った。
「料理ってほんますごいなぁ」
感動だ。
今ならニキはんの言っていることがとてもよく分かる。料理はいいもんだ。
「おぉ、すごかったですか?私の料理」
「え?いや違…わないか。まぁそうやな、すごかったわ」
「…ふふ、そうですかそうでしたか…!さぁ、もっと褒めてください♪」
坊は体を起こしてこはくと目の高さを合わせると勢いよく首元に腕をまわしてきた。
おでこが触れるほどに顔がぐっと近づく。
……なるほど、ずいぶん熱烈なお褒めを頂きたいようだ。
顎を少し上げると、坊の唇に自分のを重ねた。
「な…っ!?」
坊が慌てたようにこはくの肩を押しやり、自身の唇に手を当てる。
「な、なな、なぜ今…キ、kissを!?」
「うん?今そういう流れやったんちゃうん?」
「そんな…!私はただ褒めてと言っただけです!!」
今日一の顔の赤さで体を反らせている。
坊はいつもこうなのだ。ボディタッチは自ら平然としてくるくせに、いざこちらから仕掛ければただ一回のキスでさえこうも照れまくる。
……正直、この変わり具合はこはくのツボだ。
もっと照れさせたい…いや、からかいたいの方が正しいだろうか。そんな風に魔が刺してしまう。
彼の背に腕を回し、ぐいっと自分の方に体を寄せると、耳元でこう囁いた。
「…ほな、今日はいっぱい頑張ってくれたし、坊にはご褒美をやらなやな?」
「あ、ちょっと待っ…!」
一度離れた唇に獣のように喰らいつく。
…あぁ、大好きだ。
この腕の中にいるこの人が、生涯守ると決めたこの人が。
愛しくて愛しくて堪らない。
触れれば触れるほど想いが強まる。
そして、想いが強まれば強まるほど…触れたいという衝動が湧き立つ。
(堪忍、坊…今日はぬしはんのこと寝かせられへんわ)
欲を制御できないケダモノはついに坊をソファに押し倒した。
まだバッグの中で眠るショートケーキが溶け出していることにも気付かずに。