風の贈り物#3 夢夕陽に染まった暖かな木々が風に揺られ、こはくを歓迎する。
以前来た時のような“バレたら終わり”の恐怖を感じる必要はなく、もう二度と立ち入ることはないだろうこの庭をゆっくりと堪能していた。
中庭の中央にそびえ立つ大きな木、青々とした葉からはあまり結びつかないがたぶんこれは桜だ。これと大きさまでそっくりな桜の木が桜河家にも植えられている。同じ頃に植樹されたのだろうか。
「その桜、私が産まれたときに記念に植えられたそうですよ」
突然、背後から声がした。
驚きながら顔をそちらに向ける。
視界いっぱいに広がる御簾、その向こうに人の気配を感じた。
(………この人や)
今日、会いたかった人。会いに来た人。
そんな人が今、御簾を隔てたすぐそこにいる。
自分に気がついてくれて、話しかけてくれて。
「わしの家にも同じぐらいの桜があって…ちと驚いたわ」
「ふふっじゃあ同じ頃に植えられたのかもしれないですね」
同じことを考えていて。
(人と話すって…こないに楽しいことやったっけ)
自分の発す言葉にどう返答してくるのか、それだけで胸が弾む。くすっと笑って軽やかに弾む声にどきりとする。
(こんなん初めてやわ)
「ところでえぇと……貴方は…?」
「あっ…堪忍な、名乗らず勝手に庭に入ってもうて」
名前を伝えても良いのだろうかと、ふと思った。
桜河の男が訪れたと、たとえ悪意がなくとも彼女が人に伝えてしまったら。うちは“終わり”だ。
ここまで自分の我儘を通させてもらったのに、これ以上の迷惑はかけられない。
「一週間前にこの辺りに鞠を飛ばしてしもて…で取りに来た者…です」
あれ、こう聞くと不審者極まりないじゃないか。なんとか弁明しなければ。
印象を悪くすることだけはなんとか避けたい。
「あん時は急に飛び込んですんまへんでした…別にわざと敷地に入ろうとしたとかそんなんやなくて、ほんまたまたま鞠が…飛んでって…」
「別に、疑ってなどいませんよ。貴方はいい人ですもの」
「な、なんでそないなこと…」
「う〜ん……なんとなく?」
ふふっとまた笑って、その時に肩が揺れたのが影で分かった。不意な仕草に心臓の音が速まる。
(わし…諦めるためにここに来たんに…今日が最後って決めたんに……こんなんずるいわ)
それからしばらく、二人は御簾越しに会話を弾ませていた。
噂話とかいつ使うか分からない豆知識とか、他愛もない話は尽きない。
「暗くなってきましたね」
「…そやね」
終わりの時の合図だと、こはくは理解した。
先程まで楽しげにリズムをとっていた心臓が今度はぎゅっと締め付けられるような感じになる。
幸せは永遠じゃない。特にこはくのような人間にとっては。
「今日はおおきにな。同じくらいの歳の子と話すことなんか今までなかったから、楽しかった」
「私も、いつも話すのは両親か家来かですから、新鮮で幸せでした」
「ほっか。わしら案外似た者同士なんやね。
…環境が違てたら、仲良ぉなれたんかな」
「何を言っているのですか!明日からもまたこうして遊びに来てくださいよ。もっとお話しましょう」
(わしやって…ほんまはそうしたいに決まっとる…っ)
後ろ髪を引かれる思いをなんとか押し殺し、腰掛けていた縁側から立ち上がる。
「……ごめん…ほんまに」
御簾から顔を背ける。
もう彼女の影を見ないように。
見たら別れがもっと辛くなるから。
「今日は三日月やね。
……綺麗やけど、遠い」
その月ももう厚い雲で覆われそうになっていて、まるでこの恋のようだ。
彼女への心に蓋をしなければならない、厚い雲のように。
「……さようなら、ありがとう」
震えた声で別れを告げる。
これで最後、これで。
うん、幸せな終わりやないか。
見惚れた人と一瞬でも笑い合えた。
それだけで、十分ぐらい、幸せ。
本当に、環境が違ったら。
朱桜家と桜河家が争っていなかったら。
自分が桜河の息子でなかったら。
恋する相手が朱桜の人でなかったら。
幸せを願ってよかったのだろうか。
この恋が実ることを夢見てもよかったのだろうか。
でもこの環境、状況でなければ、彼女に出会うこともなかったのではないかとも思う。
この世界ではない世界の桜河こはくがいたとして、そのこはくは彼女とは出会っていなかったかもしれない。
そう考えるとやはり、これでよかったのだ。
彼女に出会えて会話までできて、幸せだ。
ーーーっ!
遠ざかろうとしたこはくの袖が背の方へ引っ張られた。
驚いて振り返る。
御簾と壁のわずかな隙間から、細くて白い綺麗な腕がこちらへと伸びていた。
「なっ…」
「自分だけ言うこと言って、帰ろうとしないでください」
袖を摘む手に更にぎゅっと力が込められる。
彼女が自分に言うことがあるなんて、考えもしなかった。
こはくにとっての彼女は最初で最後の恋をした人だが、彼女にとってのこはくはただ突然現れた不審者のようなものだろう。
こんな自分に一体何を告げるというのか。
「また会いましょう、お話しましょう。今度はもっと貴方と近づいて、目を合わせて…こんな簾なんか隔てずに」
「女性は結婚相手以外に顔見せたらあかんのやろ、決まりは守らな」
絶賛決まりを破っている自分が言えることではないが…と心の中で付け加える。
「、、、」
実際に見て確認した訳では無いからあくまで憶測だけれど、口をあんぐりと開けているような気配がする。
(わし、何かおかしなこと言うた?)
地雷を踏んだ?今日のちょっとで彼女が決まりを律儀に守るような人間だと踏んで発言したのだが、どこか逆鱗に触れてしまったのだろうか。
あれこれと考えていると、向こうがやっと口を開いた。
「……貴方…鈍いと言われません?」
「?なんのことじゃ」
「………いえ、なんでも」
これは、怒っているというよりかは呆れているようだ。
やはり分からない、ただ彼女の気を損ねてしまったというのは理解した。
なんや堪忍な、と謝ると、謝ることじゃありませんよ、と返されまた困惑する。
対人関係の経験のなさがここで悲鳴を上げた。
準備期間の一週間に会話のいろはも姉に教わるべきだったのか。少し悔やんだ。
〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜
脈絡もなくまたふわっと風が吹く。
強い風というよりかは下からやんわりと押し上げるような風で、そうつまりは、御簾がちょうどめくれたのだ。
さすがに顔までは見えなかったが、着ている着物から白い首筋辺りまでが現れ、どきりとまた胸が弾む。
あの日と同じように赤い髪がなびいていた。
前と違って今は手を伸ばせば触れられるほどの距離にある。
触れてしまえるほど近づいてしまったのか。
この自分にそんな資格はないのに。
罪悪感、いや疎外感……あまり合う言葉が見当たらないが、ここにいるべきではないと感じた瞬間、すぐさまここから離れなければという衝動に駆られた。
「なあ、わし、見たらあかん夢を見てしまったんよ。もう…現実に帰らな」
本当に、最後の最後。
さようなら。
「……」
「……」
コツ、コツ、コツ。
こはくの下駄の音が響く。
コツ、コツ、コツ、コツ。
「……桜が、綺麗ですね」
薄らと彼女の声が背後から聞こえた。
無意識にも止めそうになった足を前へ前へと進める。
去り際、目の前の桜の木を一瞥した。
今は夏、青々とした葉で生い茂っており、“桜が綺麗”と表現するにはどうも不適な感じがする。
去っていくこはくに何を伝えたかったのだろうか。今のこはくには分からない。
ただ、最後の言葉として贈られたからには特別な意味があるのだろうということは推測できる。
忘れてはいけない、そんな気がする。
いつかその意味が分かる時まで、胸に刻んでおこう。
こはくはゆっくりと、一歩ずつ噛み締めるようにして朱桜家を離れた。
ーーーーーーー
「…くん…こはくん!」
「え?」
「なにぼーっとしているんです?」
不意に隣から声が聞こえ、慌てて意識をこちらに戻す。
そうだ、会話の途中だった。
「…堪忍な、やっぱ思い出してしまうんよ。桜見ると」
あの時とは違って満開に花を咲かせている桜の木を、縁側で腰掛け眺めている。
茶を飲みながら、木を見て思い出に耽るなんて我ながら年寄り臭い。
「私も思い出していましたよ、三年前のあの日のこと」
もう三年が経ったのか。いや、まだ三年か。
三という僅かな数字では表すことが出来ないほどこはくを取り巻く環境は一変した。
こはくが朱桜家を訪れてから桜河への対応が変わったのだ。
ある日に突然、両家族総出の会合を開こうと提案された。家同士の溝を埋めるには顔を合わせて話す他ない、と。
そこでひたすらに話し合いが行われた。
両家の関係修復について、仕事の報酬から武器の手配まで、細かく。
突然のことに桜河一同困惑したが、朱桜側は思っていた以上に真剣だった。
「なあ、あの会合…今更聞くのもあれやけど、嬢の指示やったん?」
「会合?……あぁ、あれですか。そうですよ、私が家人全員に言ったんです、桜河家との関係修復に務めなさいと」
皆当主の娘に従わないなんてことはできなかったのだろう。
朱桜は桜河がひいて驚くぐらいには真剣に取り計らってくれた。
まあとにかくその会合での決定事項から、朱桜家から定期的に送り物が届くようになった。
中身は武器や薬、そしていつも一通の手紙が添えられていた。
こはく様宛と書かれたそれは嬢からの便りだ。
こはくはそれを読んで返事を書き、いつしか文通をするようになった。
「文通…そんなこともしましたね」
「そない懐かしむほど昔やない気もするけど」
「いいえ、懐かしいですよ、貴方の筆。とても上手いとは言えない字で、文章も少し幼いというか…私でなければ速攻に振られていたでしょうね、ふふっ」
「やかましいわ阿呆。ぬしはんが初めてやったんや、勘弁しい」
「気持ちはとっても伝わってきていましたよ、お返事が楽しみで仕方なかったのを覚えています」
三、四ヶ月、文通は続いた。
それほどの期間続くのは結婚に直結する、というのがこの地域の規則らしい。その時初めて知ったが。
ある日司から急に「部屋を訪れてください」という内容の便りが届いて。
…行った。もう二度と足を踏み入れることなど無いだろうと思っていたあの家に。
夢にすら見ていなかった、御簾の向こうに。
『三日続けて会いに来てくだされば、私たちは結婚したということになります。明日以降は貴方次第です。貴方が少しでも…私と過ごしたいと思ってくださるのならば………また明日、ここで待っています』
三晩、通った。
今でも昨日の事のように思い出せる。
三日目の夜、彼女に伝えた言葉を。
「『月が傾く前に出会えて良かった。』
……貴方、結構ロマンチストですよね」
「どうも、姉はんの趣味の本ばっか読んでて悪うございました」
「あははっ、私は好きですけど」
そう、こはくは奇跡みたいな、いや奇跡の運命を辿った。
禁忌と扱われていた少年は、家同士の極悪関係をものともせず好意を持っていた人と結婚までしてしまったのだ。
本当に出来すぎの物語である。
「……ほんま、明日にでも死ぬんかな、わし」
「もう聞き飽きましたよ、その言葉。あまり死ぬとか軽々しく口にして欲しくないのですけどね」
「そんぐらい幸せっちことじゃ」
「…それも聞きました、もう耳にたこができるほどに」
風が吹く。
桜の木揺れ、花びらが舞った。
「じゃあたまには耳の胼胝(たこ)もびっくりするぐらいの珍しい台詞言うてみるか」
司の方へ手を伸ばすとこはく側の耳に髪をかけて口を近づけた。
耳元で囁く。
「わしに夢を与えてくれて、おおきにありがとう……愛してる」
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「月は綺麗だけど、遠いよ」
貴方を愛しているけれど、もう届かないよ
「桜が綺麗ですね」
私達はまたこの場所で逢おう