貴方の隣で、これからも。「おうかわこはくや、よろしゅう」
彼との出会いは今でも鮮明に覚えている。葉が落ちた桜の木に雪が降り注がれた寒い冬。背後に立つ母親らしき人物が頭を深々と下げる間、片時も私の目から視線を逸らさなかったその少年からは、静かに死の匂いがした。
♢♢♢
ドタドタと廊下を駆けていく武士の姿が障子に映る。
また彼奴らか畜生め、場所は?西の方角だ、既に着いた三人が重傷を負っている。了解、加勢するぞ、おう。
小声で話しているのは障子越しにいる私を気遣ってなのだろうか。残念ながらこうして全て私の耳に届いてしまっているのだが。
廊下に人気が無くなったのを確認すると黙々と進めていた編み物を床に置き、はあ、と大きく溜息をついた。
「最近なんだか騒がしいですね、つい二日前も同じ様に戦に向かっていた気がするのですが」
向かいに座る彼に話しかける。桜河は手を止めることも顔を上げることもなく、編み物を続けながら呟くように答えた。
「嬢は何も気にせんでええ」
感情を無にしているようで表情はぴくりとも動かない。ただ自分の指先だけを凝視している。
「そういえば、貴方は行かないのですか。戦に出ず編み物だなんて桜河にしては珍しいような」
「…今日は嬢のお目付役っち頼まれたんじゃ。ほれ、手ぇ止めたらあかんよ」
おかしい。桜河に限って戦中家に篭もるなんていつもならば有り得ない。彼はどれだけ人に止められても一人で戦に出てしまうような、そんな人間だ。以前道中に私を置いて敵と殺り合った際には上からこっぴどく叱られていたが、まさかそれを反省してだなんてあまり考えられない。
やはり…やはり重傷なのだろうか、その腹部の傷は。傷を見た訳ではない、怪我をしたとも聞いていない。ただほんの少し腹を庇ったような動きをしているように見えるのだ。
「桜河、少し休憩しましょう。もう三時間も続けていますよ」
お菓子を持ってきますので、そう言って私は立ち上がり障子に手をかけた。
ーーー
「ん〜美味しいですね!」
「うん、どれも絶品やわ」
大皿に乗せられた数種類の和菓子を順に口に入れていく。一つの箱の菓子を食べ尽くすのではなく、こうして種類を設けて少しづつ食べていくのが二人の間のちょっとした流行だ。
「このお菓子、桜河はきっと好きだと思いますよ。まさに和菓子の鉄板というべき逸品です」
「コッコッコ♪そうやと思って最後に取っておいたんじゃ、ほな頂こか」
そんな他愛のない会話から次第に、話題は昨今の周辺の騒々しさについてへと変わっていく。
「争いはこのひと月でもう四度目です、一体急にどうしたのですか。つい先月までは退屈な程に何も無かったというのに」
「……」
「…無視はやめてください。周囲の人間から口止めされているんでしょうけど、私は朱桜家の長女ですよ。昨今の情勢について知る権利はあるはずです」
桜河は私と目を合わさず黙々と菓子を頬張る。何も答えないという意志の現れだろう。
「…はぁ、分かりました。もうこの話は止めます」
「それがええ」
物騒な事に関しては決して口を開こうとしない。昔からそうだった。母上も父上も桜河も使用人も、赤い血を見せないように私の目をがばりと覆う。
分かっている、いくら武家の長女といっても女として生まれた以上私は剣を握れない。それどころか血が何色かを知ることさえ許されない。私も周りの人間のように戦場に立ちたいのに。唯一私の心を理解してくれていた桜河の姉も、いつの間にか会いに来てくれなくなった。
「ただ止める代わりにひとつ、桜河にお願いをしても良いですか」
「なんじゃ」
「…私と一緒に街を巡ってくれませんか」
ーーー
昨日の今日だと言うのに桜河は朝から私に付き合ってくれた。
見上げればすぐにでも雨が降り出しそうな灰色の空。これではまるで今の時刻が分からない。おおよそ午後の一時頃だろうか。
「嬢」
隣を歩く桜河に名を呼ばれる。
「傘なら持っとる、安心しい」
「天気ではなくて、時刻です。陽がないとさっぱり分からなくて不便ですね」
「まあ大体午後の一時とかやない?そん証拠に…」
「うひゃっ?!」
桜河は私の腰を覆うように腕を回すとその手でぽんと腹を叩いた。
「さっきからええ音鳴らしとるやん」
「き、聞こえていたのですかっ!?」
「音はもちろん聞こえとったけど、何よりぬしはんの行動が“まる見え”なんじゃ。腹が鳴ればすぐに早口で喋って、音が聞こえんように誤魔化しよる」
「ちょっと、私の行動を文章化しないでくださいっ恥ずかしい…!」
熱の集まった耳を両手で塞ぐ。桜河はその手首をひょいと持ち上げると片方の手で自身の財布をひらひらと見せびらかした。
「わしも腹が減ったところじゃ。何食いたい?奢ったる」
ーーー
数分歩いて見つけた店の看板に僅かな既視感を抱く。入って店の者に聞いてみると両親の行きつけの店なのだと教えてくれた。幼い頃に連れて来られたのかもしれない。
私が来たと知り、明るい笑顔で出迎えてくれた店主が、店一番の特等席に案内してくれた。風情漂う中庭を一望できる縁側にお洒落な座椅子が二つ横並びに置かれている。
天気がよければもっと綺麗だったでしょうね。また晴れた日に二人で来よか。なんて話しながら並んで椅子に腰掛けた。
暫くしてやってきたのはお昼時にはそぐわず、でも二人にはぴったりの品である。
「ったく、昼飯に餡蜜なんて栄養が偏るやろ。ご両親に怒られるで」
「むぅ、その言葉そっくりそのままお返ししますよ、桜河。お昼ご飯に大福とは如何なものかと」
二人それぞれ黙々と菓子に向き合う。
半分を食べた辺りになるとそろそろ違う味が欲しくなった。互いのを一口ずつ貰う恒例行事が始まる。
「ん」
桜河が机越しに腕をのばし、こちらに大福を差し出した。僅かに、中身の餡子が零れそうにはみ出ている。
「あ、危ないっ」
瞬間、垂れた餡を綺麗に口に仕舞いながら私はかぷりと大福に噛み付いた。
「あぁ堪忍、ちと指に力入れすぎとったわ」
「落ちてしまってはせっかくの餡子が勿体ないですから、気をつけてくださいね?」
動いた反動で視界を邪魔しにきた横髪を耳にかけ直し、微笑みながら少し叱った。今のは割と…いやかなり姉らしかったのではないだろうか?
「それはそうと嬢、こん後はどういう予定なん?朝から出歩いとるのにまだ何も買うてへんやんけ」
「この後ですか、そうですね……」
午前のことを思い出す。可愛い箸置きに惹かれて入った雑貨店、帯の新調に訪れた呉服店、愛くるしい人形がずらりと並んだ玩具屋さん。どれも私が行きたいと言って入った店だ。
そうだ。せっかく桜河を誘ったのに、まだ彼の行きたいところに行っていないではないか。
「貴方の行きたい所に連れて行ってください」
「えっ、わしの…?なんでや、今日は嬢が来たくて来たんやろ。遠慮ならするんやないで」
「遠慮ではありません。私、すっかり浮かれて今日の目的も忘れてしまっていたのですが…今日貴方を誘ったのは貴方のためなんです」
「わしのため?どういうこっちゃ」
眉毛をへの字に曲げて不思議そうにこちらを見る。まあそんな反応をするのも無理はない。私は彼を誘った時わざと、あくまで今日の外出は私のためであり桜河はその付き添いであると誤解させるような言い方をしたのだ。そうでもしないと桜河が外に遊びに出るなんてめったにないのだから。
「貴方の気分転換になればと思いまして。しばらくは安静にしなきゃならないのでしょう?その傷」
「………!な、なんで…それを…」
桜河の目がこれでもかと見開かれる。
「あまり私を侮らないでください。見ていれば誰に言われなくとも分かりますよ。貴方が昨日戦に出向かなかったということは相当の深傷なのでしょう」
「……」
桜河の左手が自然と腹部へと移る。
それに引っ張られるように、そう気づけば無意識に、私の腕も同じ場所に伸びていた。
触れる直前ではっと気づき手を止める。傷を触っても良いのだろうか、痛くないだろうかと。
桜河はそんな私の心情を汲み取ったのか、私の手首を掴み腹部を触らせてくれた。ざらざらとした感触から包帯が巻かれているのだろうと察し、心が痛む。
「…無理をした訳やない、自分を犠牲にしようと思った訳でもない。真っ向に戦って、真っ向に敗れた。それだけじゃ」
桜河は昔から自分を犠牲にする癖があった。護衛を任される一家として生まれ育てられたからだろうか、自らの命を捨て駒のように思っているようだった。私とそう歳の変わらない幼い子が、泣き喚きもせず戦に出向く姿はまるで獣のようで怖かった。
そんな桜河に年相応に無邪気に笑ってほしいと、幼い私は色々と策を講じた。
彼の姉にお忍びの稽古をつけてもらったのは、護られなくても良いぐらいの強い女性になろうと思ったからである。そのうち目的を忘れて、ただ戦を楽しんでしまっていたのだが。
同時に私は桜河に、如何にその命が尊いかを語ることにした。貴方を失ったら私がどれだけ悲しむのか分かっているのですか、愛する人を失う恐怖を私に味わせたいのですか、自分を大切にできない人に他人は守れません。
もはや説教と呼ぶべき私の言葉に桜河は初めこそ気だるげな顔を向けてきたが、次第にそれは解け、優しい眼差しを向けてくれるようになった。
きちんとした返事を貰ったことはなかったけれど、頭の片隅に入れるぐらいには受け取ってくれているんじゃないかと淡くも期待していたのだ。
「…また昔みたいにお説教するつもりだったのですけど」
先程の桜河の言葉を心で繰り返す。自然と笑みが零れた。
「そんなことを言われたら、分かってくれていることに喜ぶべきなのか、怪我をしたことに叱るべきなのか、分からなくなってしまいますね」
「喜んでや、わしの成長を。信じてくれんかもしれんけど、こん傷は自分の命を優先した結果なんやから」
「…というと?」
桜河は一息の間を空けると当時を思い出すように目を閉じた。
「本当は向かってくる相手の息が絶えるまで蹴り倒すつもりやった。腹斬られたぐらいで退散するなんぞわし自身が許せへんかったんじゃ、本当は」
その感情は今も桜河の胸にあるのだろう。悔しそうに眉をひそめた。
「…でも貴方は自身の傷の深さを理解して、その場を立ち去った。そういうことですか」
「うん。ぬしはんからの言いつけ、ちゃあんと守ったんよ、このわしが。感情も理性も失って暴れるケダモノなんて言われたわしが。大したもんやろ?」
桜河がどこか照れくさそうに笑う。
あぁ、そうか。分かっていなかったのは私の方だったのかもしれない。
自身の命を大切にしてほしいと説得し、それを今はきっと理解してくれていると期待していたのは事実。しかし心のどこかで貴方は変わっていないと思っていた。敵以外何も捉えない鋭い眼光が、血を流しながらも敵に立ち向かう姿が、私の中の貴方のイメージとしてずっと住み着いていた。
傷が深いことに勘づいたのも、戦に向かわず家に籠る貴方に異変を感じたからだ。いつもなら止められてでも参戦するだろうに、と。その“いつも”とは一体いつの話だ。私を道中に置いて戦に出ていった日か。それも考えてみればもう三年も前のことだ。
桜河はもう感情も理性もないケダモノなんかではない。立派な、立派な、私の護衛だ。
「貴方がそばにいてくれるから、私はずっと安らかに過ごせています」
いつの間にか腹から離していた手を今度は桜河の手の上に重ね合わせる。
「ありがとう」
「…なんや急に改まって」
少し照れたように視線を逸らしたかと思うと今度は真剣な眼差しで目を合わせた。
「わしが生涯ぬしはんのそばにおるから、ぬしはんはそうやって、ずっとずぅっと、わしのそばで笑ってて」
今度は私が照れる番だった。顔が熱くなるのを感じる。
「生涯?生涯をかけて私を守ってくれると言うのですか」
照れ隠しについ茶々を入れてしまった。
桜河がふと立ち上がる。こちらににかっと微笑んでこう言った。
「当たり前じゃ。わしはぬしはんのために生まれてきたんやから」
大袈裟なことを、と言いかけた口を噤む。案外そうかもしれないと納得してしまう自分がいたのだ。自惚れなんかじゃない。ただ時折、真剣に思うのだ。私たちの出会いは運命なんじゃないかと。強い何かに惹き付けられて、出会うべくして出会ったんじゃないかと。まるで生まれる前から出会うことを約束されていたような、そんな気がするのだ。
「にやけとる」
しゃがんだ桜河の手が私の頬に伸びてきて、ぎゅいっと柔らかく掴まれる。
「…貴方の方こそ」
私も倣って桜河の頬を掴むと、そのシュールさに二人で吹き出してしまった。
「ほな行こか」
脇に置いていた荷物を持って二人で立ち上がる。
「どこへ行くのですか」
「わしが今一番行きたいところ」
「それを聞いているんです」
「んー…わしと嬢の花と言えば?」
「花……あっ、桜!」
「そろそろ花が開く頃やない?」
「ええ、きっと綺麗ですね」
満開ではないが生き生きとしたその花一つ一つは、大きな空に真っ直ぐに顔を向ける。桜は満開が一番美しいと言うけれど、この時期の桜の方が私たちにはぴったりなのかもしれない。
まだ開花したばかりの桜がここにも二人、並んで生き生きと歩いていた。