名前はまだ無い こはくんのことを、知っていたようでいて実は何も知らなかったのだと、最近気付かされた。
彼と幼少期に同じ時を過ごしたから、朱桜家の当主だから、彼の兄だから。そんな理由だけで彼を一番に理解しているのは私だと思っていた。
しかし事実、彼と同じ屋根の下で生活をし始めてから、彼の未知の一面がどんどんと明るみになっているのだ。
例えば朝に弱いところ。sweetsとは違って案外洋食派なところ(本人は和食に飽きただけだと言い張っているけれど)。horrorが苦手なところ。歯磨き粉はsoftmint以外得意でないところ…どれも初めて知ったことだった。
知らなかった一面を知れた、それはきっと嬉しいことなんだろうけど。
正直、悔しい。知ったかぶっていたようで恥ずかしい。
彼のunit memberはきっともっと前から、私が最近知った彼を知っていたのだろう。
燐音先輩、椎名先輩、HiMERU先輩、三毛縞先輩、あとは白鳥くんや漣先輩も。私よりもずっとずっと長く一緒に時間を過ごしているに違いないから。
…妬ましい。私の知らなかった一面が彼らにとっては当たり前であることが。
数週間前に三毛縞先輩に同様の感情を抱いた時は、“彼の周りにいる方々には出来ない私なりのやり方で彼の傍にいよう”と心に決め、このJealousyを片付けたのに。
現状に満足出来ず、全てを知りたいと、そう思ってしまう自分がいる。彼を構成する全てを、私が知って、受け止めて、愛したい。
なんて私は傲慢なのだろう。
「坊」
背後から名を呼ばれた。
なんでしょう、と振り返る。ちょうど貴方のことで頭を悩ませていたなんて素振りは見せないように気を配りながら。
「待たせてすまんな、わしも準備できたで」
赤と青のstripe柄が特徴的なtieを、両手で左右にいじっている。
彼が着替える最初からその様子を眺めていたけれど、おおよそはそのtieを結ぶのに手間を取っていた。
どうやら彼は洋服が苦手なようで、idolの衣装も自分一人で着られるようになったのは最近のことらしい。特にtieは衣装でもなかなか着ける機会がないため最も苦手なんだそう。
手伝いましょうかと声をかけたが、坊にされるのはなんやちと悔しいわ、と拒否されてしまったので、仕方なくこうして彼の支度が終わるのを待っていたのだ。
「似合いますね、玲明学園の制服」
cream色のjacketに黒色の襟、checkered柄の赤いpants。淡い桃色の髪との相性は抜群で、顔が普段より一層映えて見える。
「おおきに。番組の撮影で着た以来やわ」
「今日が初めての登校日ですもんね」
「そう。人生初の、な」
幼稚園も小学校も中学校も、そして高校一年生も、彼は学校というものを経験したことがない。朱桜家に存在を気づかれないようにするためだ。
彼の人生の大切な一部分を我ら一族が奪ってしまった。直接関わっていなくても、朱桜家の長男である限り私も加害者側であるのは事実だ。
それに、そんな事実を知ったのはつい数ヶ月前のSS予選でのことである。無知の罪、私はそれも背負わなければならない。
罪の償い、なんてものを完璧には行うことは不可能だろうが、現当主として色々と手は尽くした。先日のJさんの一件で桜河家を起用することが出来たのも、本日よりこはくんの学校生活が始まるのも、大きな成果だと思う。
あとは彼の新たな門出を祝福するのみ。
こはくんが希望したのは夢ノ咲学院ではなく玲明学園だから、彼の高校生活の思い出に私が登場することは出来ない。
でも、途中までとはいえ、こうして一緒に登校することが出来るのはきっと私だけだろう。 こはくんがいつまで我が家に留まっているかは分からないが、同じ屋根の下で暮らしている限り私たちは二人並んで学校までの道を歩くことが出来るのだ。
私だけの特権。
眠い目を擦りながら着替えに苦労するこはくんの姿を横目に自分も制服に袖を通して、朝食を共にして、並んで登校して。
そこにはこはくんと私以外には誰も居ない。私しか知らない、私しか見れない、私にしか体験ができない。
ふふん、どうでしょう?悔しいですか?嫉妬してしまいますか?ずるいと思いますか?
頭の中の、“彼のご友人達”に勝手に問いかける。
紛れもなく、今私に芽生えているのは優越感だ。
でもなぜ…?なぜ私は勝手に、こはくんに関するあらゆることで他人に競争心を燃やしているのだろう。
いや競争心なんてものではないようにも思う。今までに抱いたことのなかった、もっと感情的でもっと心を揺らがされるような…“何か”だ。
分からない。この感情の答えが。
ただ何となく、それがこの先の私の人生を狂わせてしまうような大きなものであるという予感が、している。
危険だ。
今の私には背負いきれないかもしれない。
ぺちっと自分の頬を叩く。もう考えないようにしよう、という切り替えの合図だ。
「鞄、開いてますよ」
鏡と睨めっこしながら未だにtieをいじっているこはくんに近づくと、肩にかけていた鞄を閉じてあげた。
光を受けてテカテカと光っている黒い合皮の鞄はいかにも新品という感じでどこか懐かしさを感じる。
来年や再来年の今頃にはどのぐらいシワができているのだろう。
ーーー
「こんな荷物軽いと忘れもんしてそうで心配やわぁ」
「とりあえず生徒証、筆記用具、提出書類…その辺りがあれば大丈夫ですよ」
「せや、その提出書類が多くて困っとったんじゃ。よぉ分からん紙が大量でな」
「確かに、転入となると書類も多そうですね」
何気ない会話をしながら廊下を通り、玄関に腰を下ろした。
こはくんはまだ硬くて履きにくい新品の革靴に、先程の制服と同じく顔をしかめている。
「いややわぁ…こんな固い靴履いて毎朝学校まで歩かなあかんの?いややわぁ」
しゅんと今度は悲しげに眉毛を下げる。なんだか出来ないことだらけで不貞腐れてしまった赤ん坊のようだ。
(赤ん坊…)
(…赤ん坊?)
考えないようにしようと先程思考を途中で止めていた内容がふと脳内に蘇ってきた。
『彼を構成する全てを、私が知って、受け止めて、愛したい』…。
『私だけの特権』…。
(…赤ん坊)
(…!!!!)
瞬間、点と点が繋がったような感覚が起こった。
もしかして…もしかして私は、こはくんのことを生まれたての我が子のように思っているのではないだろうか?!
あぁ、そうだ。だとしたら先程まで私の中で湧き上がっていた、妬みに似た感情にも説明がつく。
親ならば誰でも我が子が一番だと思うだろうし、他の人にとられたくないとも思うだろう。
そうか、なるほどなるほど。
彼と一緒に暮らし始めて距離が縮まったからだろうか、私の中のこはくんへの気持ちはいつの間にかlevel upしていたらしい。
まあ我が子のように思っていると言ってもこはくんへのこの気持ちが“親心”なのかと問われたら、はいとすぐには答えられないけれど。
今までの弟として彼に向けていた愛、それを超えたものであるのは事実のようだ。
革靴に足を入れるとトントンと床をつま先で叩いた。石でできた床だからか、音が綺麗に響く。
こはくんも靴を履き終えたのを確認すると、玄関の戸をがらりと開けた。
外は“始まりの日”に相応しい好天。青い空、心地よい春風、わずかに香る花の匂い。自然と心が晴れやかになる。
近くを周回していた見張りの番に会釈をし、二人並んで家の門を出た。
ーーー
門を出てからしばらく、駅に向かって一本の道を歩く。
「靴は大丈夫ですかこはくん、足の痛みはありませんか?あっそうだ、絆創膏を持っているといいですよ!革靴は靴擦れしやすいですからね。私のでよければ今pouchからお出ししますけど…」
「絆創膏なら持っとるよ」
「そうですか、きちんと準備していたんですね。偉い偉い…♪」
「なんやねんそれ…ったく、兄はんスイッチがまた押されてもうた」
いつものが始まったわぁ、などと言いたげな呆れ顔だ。横から見ても分かりやすいほど顔に出ている。
(兄はんswitch…こはくんはまだ私が“兄の段階”にいると思っているようですね)
でもそれもそうかとすぐに気がついた。私自身気づいたのはついさっきなのだから。
「違いますよこはくん」
「ん?違うって…何が?」
「私気づいたんです、も…」
言葉を続けようとしたところを、チャリンチャリンという背後からの自転車のbellで中断される。
道を開けるために肩が触れるほどこはくんの方に体を寄せると、スル〜っと自転車が通って行った。
気を取り直して…おほん、と咳払いをするとこはくんの方へ向き直った。
「私、気がついてしまったんですよ。
…もう貴方のことを、弟として見ていないんだって」
「…」
「…」
ブォンと車が横を通る。髪がなびく。
こはくんが歩みを止めた。振り返り顔を覗いてみると、まるで雷に打たれたかのように目をまん丸にしている。
そんなにこはくんにとっても驚くことだったのか。
「……は?え?ちょ、坊それってどういう意…」
「あ〜新学期ってなんだかそわそわしちゃいますね。こはくんはどうですか?やっぱり緊張していますか?そりゃあ初日ですし知らない人ばかりですし、何より転入生ですからね。注目されることも多いと思いますけど…でも大丈夫ですよ!classmateはきっとみんないい人ば…」
「はあ」
こはくんが私の言葉を遮るぐらいの大きなため息をつく。
兄として…じゃなかった、親として?…それもなんだか違う気がするけれど。彼の緊張を和らげてあげようと思っていたところだったのに。
「………期待して損したわ」
「ん?何か言いましたか。すみませんちょうどbikeが横を通ったので聞こえなくて…」
いつもは静かなこの道が今日はやけに交通量が多い。
こはくんが何を言ったのかは聞き取れなかったが、表情はいつもと同じあの呆れ顔だ。
「なんでもない、はよ行こ」
隣にいる私を置いてスタスタと先に行ってしまった。
一歩踏むごとに揺れる桃色の髪からちらりと覗かせる小さな耳、それが微かに赤く染まっているように見えるのは私の気の所為だろうか。
道の脇に咲く紫の花々が風に揺れた。
いつだったか気になって調べたことがある。確か名前はライ…ライラック…?もう七年ほど前のことだから名前は不確かだけど。
紫陽花に似た小花の集まりは色鮮やかでとても綺麗だ。
家から外出するときはどこに行くにしても通っていたこの道、そこに咲く見慣れた紫の花。いつもと何一つ変わらない平凡な風景のはずなのに、今日そこにこはくんがいるだけで別物のような新鮮さを感じる。
これから先も忘れないんだろうなと、なんとなく思った。いや、忘れたくないと思った。今日という日を、今目の前に広がっている景色を。
二〇二四年 四月七日、貴方への思いの大きさに気づけた日。
こはくんにとってはすぐに忘れてしまいそうな、何の変哲もない一日かもしれないけれど。
いつか二人で語りたい。貴方がいるそれだけで私の目に映る何もかもが色鮮やかに見えたんだと。
そのいつかが来るまでは私が、私だけが、この日の思い出を独り占めしていよう。
こはくん自身は私のものでなくても、私と二人で過ごした思い出は紛れもなく私のものにできるから。
「こはくん、歩くの速いですね」
「遅刻したらどうすんねん。ぬしはんはまだしも、わしは初登校日なんやから」
「そうですね、早く行って損は無いです」
前を歩いていたこはくに追いつくと、また肩を並べて歩みを進めた。
早歩きで少し動きが雑になっているからか、時折お互いの手がぶつかる。
その度に何故か心臓が跳ねて、口角も無自覚に上がっている。まるで私の体じゃないみたいだ。なんだか…怖い。
やっぱり貴方への思いは今の私には背負いきれないぐらい重くて得体の知れない“何か”なのだろうか、と。ここで十数分前までの思考が戻ってきてしまった。
私は、何も知らない。嫉妬も独占欲も庇護欲に似た愛も、全部全部その“何か”から生まれたものなのだろうけど、今の私にはまだ分からない。
いつか“何か”の正体が分かる時が来たとして、その時私は今と変わらず彼の隣にいられるだろうか。
分からない、やっぱり、何も。でもそれでいいんじゃないかとも思う。
今は、貴方の隣にこれからもずっといると心に誓って、前を向いて歩いていくだけだ。貴方への思い、まだ名の無い“何か”。それを背負いながら。