今日は可愛いお嫁さん 目の前の光景にチリは「あかん」とだけ呟いて、再びベッドに倒れた。
「あー、二日酔いやな。アオイの幻覚が見えるわ。もっかい寝よ」
「いやいや、幻覚じゃないですって」
と、妙にリアルな幻覚がツッコミを入れる。それでもチリは枕を抱きしめて目を瞑った。
「えー、そんなん嘘やん。アオイどうやって入ってきたん?」
「オモダカさんから合鍵を借りました」
オモダカーーつまりチリの上司で、昨夜は酒の勢いで散々文句を言った相手で。
ベッドでゴロゴロしていたチリは、上司の名前を聞いてガバッと起き上がった。おかげで目も二日酔いも完全に醒めた。
「おはようございます、チリさん」
そして醒めた頭が目の前のアオイを実物だと判断する。チリはここで初めてこのおかしな状況に声を上げた。
「はぁ?なんでアオイがおんねん!?」
「だからオモダカさんに鍵を借りて……」
「いや、そうやなくて。ここに来るまでの経緯が知りたいんやけど」
寝起きの頭を抱えながら尋ねれば、アオイはどこか楽しそうに説明を始めた。
「今朝早くにオモダカさんから連絡があったんです。こんな事はチャンピオンクラスの貴女にしか頼めませんって深刻な顔で」
と、ここまで聞いてチリは「あっ、これ碌でもないやつや」と決め打ちした。長い付き合いだから分かる。大層な前置きをするオモダカは碌な事を考えてない。
「それで、慌ててリーグに行ったら鍵を渡されたんです。話を聞いたらチリさんが二日酔いで大変だろうから見に行ってほしいって」
そら見たことか!やっぱ碌な事やない!
チリは思わず深くため息を吐いた。何でこんな事をアオイに頼んだのか。チリは昨夜の記憶を頭の中で巻き戻した。
切れ切れに思い出したのは「ちょっとは業務量考えろや!」とか「人手が足らんの分かっとるやろ!」とか、まぁ言いたい放題の言葉だった。ただその中に一つ、本当に一つだけ文句とは違ったものがあった。
『はぁ、可愛い嫁さんでもおったらなぁ』
文句の合間に言ったその愚痴に、オモダカはやけに食い付いていたような気がした。
「……これかいな。ホンマけったいな人やな」
「えっと、チリさん?」
一人であれこれ考えていると、アオイが心配そうに窺ってきた。とにかくこれ以上アオイに迷惑をかける訳にはいかない。
「ああ、チリちゃんは大丈夫やから。トップにもそう伝えといて」
これでオモダカのイタズラは終わりだろうと思っていたが、アオイはムスッとした顔で腕組みをした。
「ダメです!私、オモダカさんに頼まれたんです!」
アオイはベッドのチリを見下ろして、そして高らかに宣言した。
「今日は私がチリさんのお嫁さんです!」
予想を遥かに超えた言葉に思考が止まる。たっぷり数十秒固まって、チリはやっとその意味を理解した。
「はぁぁぁ!?なんやてぇ!?」
爽やかな朝日が差し込む部屋にチリの叫び声が大きく響いた。
***
「……という訳で、朝ごはんをご用意しました!」
アオイはチリの困惑を笑顔で受け流して、そのままチリの手を引っ張った。
アオイの切り替えの早さに驚きつつ、そういえばいい匂いがしてるなと気付く。人に作ってもらった食事なんていつ以来だろう。
「まぁ、用意してんのならしゃあないかぁ」
早くもこの状況に流されているのは解せないものの、可愛いアオイに手を引かれて断れる訳がない。アオイの手料理が待っているなら尚更だ。
「私、チリさんのために頑張ったんですから!」
んジャカパーン!とよく分からない擬音でアオイはテーブルの上を示した。
そこにはパルデア式ではなく、チリの故郷のジョウト式の朝食メニューが並んでいた。ご飯に、卵焼き、焼き鮭、そしてワカメと豆腐の味噌汁だ。久しく見ていなかったラインナップにチリは目を輝かせた。
「どないしたんこれ!?」
「へへー、言ったじゃないですか。頑張ったって」
チリの驚いた顔にアオイは得意げに笑った。
「ライスと卵はサンドイッチでも使うので問題なかったです。トーフもハッコウシティに売ってますし。鮭とワカメはマリナードタウンで競り落としてきました」
「ええっ!?朝早うから堪忍な」
「いえ!チリさんの喜ぶ顔が見たかったので!」
そんないじらしい事を言われると堪らなくなる。チリは思わずギュッとアオイを抱きしめた。
「チリちゃんのお嫁さんめっちゃ可愛いんやけど!ありがとうなアオイ!」
感謝を込めてモチモチのほっぺに頬擦りすれば、アオイはくすぐったそうに笑った。
「もう、チリさん!ご飯冷めちゃいますよ!」
まるで本当のお嫁さんのような台詞を噛み締めて、チリは名残惜しくアオイから離れて席に着いた。アオイもほんのり頬を染めたまま目の前に座る。互いにニッコリ笑って、チリは手を合わせた。
「ほな、いただきます!」
「はい。召し上がれ!」
いそいそと箸を取って、まずは卵焼きを掴んだ。
「あ、これだし巻きやん」
口にした瞬間にじゅっと溢れた出汁がおいしい。
「味薄くないですか?作っててちょっと心配で」
ああ、確かに心配にもなるか。パルデア風のオムレツとは全然違うし、かと言ってカントー風の卵焼きとも別物だ。出汁文化が強いジョウト料理はアオイには未知の領域だっただろう。
「大丈夫や!ちゃーんと美味いで」
「それならよかったです……」
ホッと息を吐くアオイにチリは目を細めて笑った。きっと出すまでに何度か練習したのだろう。アオイの皿にある卵焼きがチリのものより崩れているのがその証拠だ。
「それにしても、よう作り方知っとったなぁ」
「サワロ先生やハイダイさんに相談してたんです。調味料を売ってるお店もその時に教えてもらって」
アオイは何でもないように言ったが、つまり、チリに振舞うために前々から準備していたという事だ。チリはそれに気付いてますます笑みを深めた。
「あの、他も大丈夫か確かめてもらってもいいですか?」
アオイはまだ手を付けていない料理に目をやっておずおずと頼んだ。本当はゆっくり味わって食べたいところだが、可愛いお嫁さんの不安を取り除くのが先決だろう。
「見た感じ他も大丈夫そうやけどなぁ」
そう言ってチリは味噌汁の椀を取った。一口啜れば、懐かしい味噌の香りが鼻から抜ける。
「はぁ、これや、これ。落ち着くわぁ」
「ほ、本当に?」
「ホンマホンマ。チリちゃん嘘つかへんよ」
卵焼きと同じくしっかり出汁が効いて、味噌の加減も丁度いい。目を閉じれば、まるで地元に帰ったかのような気さえする。
「こんな美味い味噌汁作れるなんて、アオイは料理上手なんやなぁ。ええお嫁さんになるで」
「今はチリさんのお嫁さんですよ!」
アオイはチリの言葉に頬を膨らませてむくれた。その顔にチリは慌てて訂正した。
「すまん、せやったな。今はチリちゃんの可愛いお嫁さんや」
ああ、ホンマにチリちゃんのお嫁さんやったらなぁ。
チリはアオイを見つめて心からそう思った。こんなお嫁さんがいればきっと毎日楽しいだろうに。
そんな思いが形を変えて、思いもよらない言葉になって口から溢れる。
「アオイの作った味噌汁、毎日飲めたらええのに」
「えっ?」
アオイの驚いた声にチリはハッとした。あまりにもベタすぎる告白に、アオイよりも言ったチリの方が焦った。
「あ、ちゃうんや。その、ホンマに美味かったから」
今さら言い直しても遅い。目の前のアオイは頬を赤く染めて目を泳がせている。どうやらちゃんと意味が通じてしまったらしい。
「えっと、その、チリさんがよければ、毎日作りますけど……」
「へっ?」
今度はチリがアオイの言葉に声を上げた。アオイはもじもじしながらチリを見上げる。
「私、これから毎朝来ます!それで、あの、大人になったら……」
大人になったら。その言葉の先をチリは期待に胸を高鳴らせて待った。二人の間に緊張した空気が流れる。アオイが大人になったら本当に……
と、その時、チリのスマホロトムがけたたましく鳴って二人の会話を遮った。
「なんやねん、こんな時に!」
顔を赤くしたアオイを横目に、チリは乱暴にスマホロトムを引っ掴んだ。そして画面を見て盛大に舌打ちする。
「休みの日に何やねんトップ!?」
不機嫌なままで通話に出ると、画面の中のオモダカはクスクス笑った。
「おや、もしかしてお邪魔してしまいましたか?」
まるでこちらを見ていたかのような言い方に薄寒くなったが、それでもチリはオモダカに噛み付いた。
「そんで、何の用です?まさかやけど、このイタズラの感想を聞きたくて電話した訳やないですよね?」
「いえいえ。さすがにそこまでプライベートに立ち入る真似はしませんよ」
アオイに合鍵を渡した張本人が今さら何を、と思いながら話を続ける。
「ほんなら、何なんです?」
「ええ、お楽しみのところ大変申し訳ないのですが、至急リーグまで来ていただきたくて。端的に言いますと、休日出勤の打診ですね」
「はぁ!?今から?」
オモダカの急なお願いは今に始まった事ではないが、よりによって今日それをするとは。しかもこんなタイミングで。
「それではお願いしますね。遅刻厳禁ですよ」
そして、オモダカはこうやって一方的に話を終わらせるのが常だった。本当に部下を振り回すのが好きな人だ。
「チリさん、大丈夫ですか?」
ガックリと肩を落とすチリの元にアオイが心配そうな顔をして駆け寄って来た。それだけが唯一の救いで癒しだ。チリは寄ってきたアオイをぎゅうぎゅう抱きしめて叫んだ。
「嫌やぁ!こんな可愛いお嫁さん置いて仕事行きたない!」
「気持ちは分かりますがダメですよ。お仕事なんでしょ?」
よしよしと背を撫でるアオイは優しいのに手厳しい。そこは良いお嫁さんポイントではあるものの、チリはイヤイヤと子供のように駄々をこねた。
「嫌や嫌や!今日はお嫁さんと一日中イチャイチャするんや!」
「イチャイチャって……」
アオイは呆れたような、恥ずかしそうな、微妙な表情をすると、やれやれとため息を吐いた。
「私、夕飯作ってチリさんの帰りを待ってますから。それで夜はゆっくりしましょう?」
「えっ、ホンマに!?夜までいてくれんの?」
アオイの魅力的な提案にチリの表情がパァッと明るくなる。さっきまでのどんより気分が一気に晴れるようだ。そんなチリに対してアオイは少し遠慮がちに目を伏せた。
「その、チリさんさえ良ければですが……」
「ええに決まってるやん!よっしゃ、それならさっさと仕事終わらせてくるで!」
チリはそう宣言すると、抱きしめたアオイの頬にキスして食卓に戻った。今はごっこ遊びのようなこの時間が、本物になったらいいのにと思いながら。