乾いていて、少しめくれた皮のひっかかりがあり、温かい唇だった。
一瞬だけだがコルヴォの頬の耳近くに触れたその感触は、彼の中にぶら下がりなにかを形成しようとしていた。1匹のアシナガ蜂が軒先にゆっくりと巣を作っていくようにだ。
今朝、彼らが仕事で街の屋根を飛んでいた時の事だった。コルヴォの能力であるブリンクはダウドの飛べる距離よりも少し短い。ちょうど彼らが話し合っていた仕事の内容に気を取られ、その事を忘れていたコルヴォはアパートの柵から落ちかけた。彼は能力で屋上のフェンスの内側に降り立ったダウドを追いかけたが、コルヴォのつま先はフェンスの錆びた金属の縁をわずかにかする程度だったのだ。
咄嗟にテザリングを使いダウドが引き上げてくれたおかげでコルヴォの体が4階から地面に叩きつけられる事は避けられたが、魔力のロープで引かれ飛び上がるように勢いのついた体はダウドの方へ倒れ込んだ。
ダウドは両手でしっかりとコルヴォの肩を掴み、長身と体重を支えてくれていた。ただ頭がぶつからないようお互い無意識に逸らしたはずが、わずかに唇が接触してしまった。それだけだ。しかしコルヴォは謝罪も礼も言えずに、その瞬間にもたった1秒にも満たない頬の感覚だけを反芻し追っていた。
“失礼。”
ダウドは無表情で短くそう言った。彼も唇が触れた事は判っていたのだろう。
しかし、それは彼にとっては特に気に留めるべき事ではないようだった。ダウドはすぐに左手を握ると次の目標地点に向けて姿を消していたし、その後もいつもと何も変わった様子はなかった。
ただ、コルヴォだけが意識しているのだ。朝から昼、夕方へと時間が経つほどに彼の中の巣は六角形のセルを増やしていく。蜂が増え、うるさいほどだった。昼食は味がせず、会議では名前を三度呼ばれても気づかなかった。済まない、自分はどうやら疲れているらしい……、コルヴォは今日そのセリフを何人に言っただろう。
日が完全に落ち、夕食後いつもの側近たちと行う明日の議会やアポイントに向けての打ち合わせを終え、コルヴォは自室に向かった。これもいつもの通り、部屋ではダウドが彼を待っていた。ダウドを見た瞬間にコルヴォの中の羽音が一斉に止む。
“証拠はまだ不十分だ。監査の形で、揺さぶりをかけた方がいいかもしれない。”
手袋の手で報告書を差し出した男が言った。彼らは密告のあったとある企業の不当な取引制限を調べていたが、今の所難航していた。
コルヴォが近づくと、いつもの彼の匂いがした。髪を撫でつけているグリスと、煙草と革と、わずかな潮のにおい。彼は無意識にダウドの唇を見た。乾いていて、中央の方で少しだけ皮がめくれている。コルヴォの中で羽音がざわめき出し、彼は差し出された書類の束を受け取りそこなった。受け取る指先の力がじゅうぶんではなかったのだ。
“……どうした、疲れる一日だったのか。”
ため息交じりでダウドが言い、しゃがんで互いの足元に広がった紙を拾い始めた。羽音に支配されたコルヴォはただ彼の頭を見下ろしている。何故、こんなにも気になるのだろう。過去には複雑な関係ではあったが、今の彼は自分と同じく女王と国家を支える味方であり、信用も信頼もしているが――そんな風に見た事はなかった。彼の酷薄そうな唇。乾いているが、温かい。
“失礼。”
そう言った瞬間、コルヴォは間違ったと思った。この場合口に出すのは“済まない” が正しいだろう。普段なら必ずそう言うのだが、彼の中で何度も反芻している朝の光景と感触が彼を誤らせたのだ。
だが、コルヴォがその言葉を発した途端、ダウドは素早く顔を上げた。彼の書類を集める手は止まり、動かない肩は彼が呼吸を止めている事を表していた。
コルヴォは息を呑んだ。見上げる男と視線が合った瞬間わかったのだ。彼もまた朝の事をはっきりと覚えている。そしてそれをたった今同じように反芻している。
そして何か、なにか彼らの間に今までなかったものがそこにあるのを感じられた。水面を内側から弾く繊細な光みたいななにかだ。
蜂たちがいっせいに飛び上がった。育った巣の中からは何が出て来るのだろう。