Resolution“お前に知っておいて欲しい事があるんだ。”
コルヴォはソファから立ち上がると部屋を数歩進み、ダウドに向かって手招きした。
彼は前からずっとこの事を考えていた。ある秘密。コルヴォは恋人に隠し事をすることを好まなかった。もちろんわざわざ言ってない事もたくさんあるが、訊かれれば何だって、それがジェサミンとの馴れ初めというプライベートな内容であれ、国家を揺るがしかねない機密事項であれ、彼がダウドに対して隠したいと思うものなどなかった。
唯一、このことを除いては。
“お前にはルーンの位置が見えないのか?” 不思議そうな顔をしたダウドにそう訊かれたのは数週間前のことで、彼らが仕事でホワイトクリフを訪ねた帰り道の事だった。乗り継ぎのため鉄道馬車を降りた時に、すぐ近くにルーンの反応があるから時間に余裕があれば寄ろう、そう彼に声をかけられたコルヴォは返答に困った。彼は心臓を身につけていなかった。
それは単純にもうルーンやボーンチャームを必要としなくなったという理由のほかに、ダウドと親密な関係になってから何となく――機械の心臓は何も気にしないだろうが――身につけていることが気まずく感じられたり、彼の前で心臓を取り出すことが躊躇われたからだった。
ダウドはアパートが並ぶ通りを指したが、コルヴォにはどの建物なのか正確にわからなかった。だから侵入ルートを彼に相談された時、曖昧な返事をする他なかった。そして、ルーンの位置が見えないのかと彼に聞かれた時も、コルヴォの返事はその場を取り繕うだけのものだった。
“来てくれ。”
コルヴォの声音や雰囲気が平時より張りつめたものになっていたのだろう、ダウドは若干緊張を滲ませた動きで近づいてきた。
普段エミリーの気持ちを汲んで彼がタワーに長く留まる事はないし、恋人としての時間を過ごす時はコルヴォがダウドのアパートを訪れるのが常だが、今日は違っていた。コルヴォが演習で腕をやや深く傷つけてしまい、大事を取って打ち合わせの場がタワーの彼の私室になったのだ。並んで柔らかなソファに座り、軽く食べながら地図や警備計画を広げて話し合う、ゆったりとした時間はかつて暗殺者がコルヴォの部屋の隣で生活していた頃のようだった。
そしてコルヴォは今日、彼に秘密を打ち明けることを決めたのだ。
彼は進み、ワードローブの前で膝をつくと1番下の引き出しを開けた。そして、そっと白い布に包まれたものを取り出した。
“これは、ジェサミンだ。”
白い布を持ち上げ、ダウドに見せると彼の顔に目に見えて動揺が走った。傷のある目が大きく開き、灰色の瞳が凍りついたように包みに向けられている。コルヴォは指でそっと、白く柔らかな布を剥がしていった。
“お前に見えるかはわからないが、”
コルヴォは言ったが、彼に心臓は見えないだろうと思っていた。見えるならばあの時、彼が浸水地区で毒に侵されたコルヴォの武器を引き剥がして箱に収めた時に、それも同じようにしていた筈だった。彼と彼の部下は念入りに、コートのポケットに入っていた弾丸までも見逃す事なくコルヴォから取り上げていたのだ。その時の彼に残されたのは衣服と、武器になり得ない髑髏のマスク、そして心臓だけだった。
“……何があるのか、俺には見えない。”
ダウドは何もないとは言わずに、“俺には見えない、” と言った。彼の答えは、彼がコルヴォを信じていることの完璧な証明だった。コルヴォは狂っている訳ではない。彼の前には確かに革と機械で出来た心臓があり、それは一定のリズムで音をたて脈打っている。
“何があるのか教えてくれ、コルヴォ。”
ダウドの声は硬かったが、コルヴォの目にしっかりと合わせられた視線には信頼や愛情があった。彼はこの秘密を知りたいと思っているし、打ち明けようとしているコルヴォに喜びのようなものを感じている。それがコルヴォを勇気付けていた。
“これは…、機械で出来た心臓だ。アウトサイダーが夢の中でピエロ・ジョプリンに作らせたと聞いている。”
“この心臓は、ジェスの魂の一部が入れられている。彼女の声で語るんだ。”
目の前の男が顔色を変え、息を飲んだのがコルヴォにははっきりわかった。
“彼女は向けた相手の秘密を私に語る。そして、ルーンやチャームの位置を教えてくれる。”
ダウドの喉が大きく動いた。“黒目野郎がお前に与えたものか?” コルヴォは頷いた。
“左手にマークを付けられた時に、ヴォイドでもらった。”
そういえば何故アウトサイダーは心臓をくれたのだろう。神が暗殺者に与えたダークヴィジョン(彼はヴォイドゲイズと呼んでいるらしい)はルーンやチャームの位置が見える。何故、黒い目の男はコルヴォにはそうしなかったのだろうか。何故心臓だったのだろう。ジェスを失ったコルヴォへの慰めか、それとも単なる彼の悪趣味ゆえかーーコルヴォにはまだダウドほど彼の行動が読めるわけではない。ダウドは心臓をどう評価するだろうか。
しかし、ダウドは傷の走る顔を歪めて低く唸るのみだった。“ここに、それがあるんだな。”
“見えないか?” コルヴォの問いに彼は首を振った。“見えない。”
“でも、もしかしたら見る方法があるかもしれない。”
コルヴォは驚いて顔を上げた。ダウドは布包みを持ち上げるコルヴォの手に、マークの隠された方の手で控えめに触れて言った。
“アーケインボンド。この力は、それ以外の俺の能力の一部を相手に渡すことができる。”
“それは……つまり私が、お前に‘心臓を見る’という能力を分け与えられると?”
“多分。お前が望むならだが。”
コルヴォはその申し出にしっかりと頷いた。彼にもアウトサイダーの贈り物を、ジェスを、コルヴォの隠していたものを見てもらいたかった。
コルヴォの意思を確認すると、ダウドは彼の肘をそっと押し元のソファへと導いた。彼は並んで座るとコルヴォの方へ体を向けた。コルヴォの膝の上では心臓が正確なリズムを刻み続けている。彼の膝にかかる重さも現実のものなのに、コルヴォ以外の人間には見えない。
“俺が部下に能力を分け与える時には、ヴォイドの流れは一方通行だ。しかし、お前とならば双方向で繋がる事ができると思う。”
言いながら彼は手袋を外し、ソファの背もたれに置いた。白い手がコルヴォの両手を取る。剣を持つ皮膚は硬くなっているが、しっとりとした暖かい手だ。
“そして、これにはまたある程度の双方向の信頼が必要だ。”
もちろん。
コルヴォは間髪を入れずに答えた。彼を信じているからこそ心臓のことを打ち明けようと思ったのだ。ダウドは薄く笑って身を乗り出すと、驚くべきことにコルヴォに素早い軽いキスをした。滅多に与えられる事のない彼からの飾らないキスは、コルヴォの全身に知らずに渡っていた緊張をほぐしてくれた。
“……ヴォイドの流れを感じ取れるか?”
ダウドは自分の右の手のひらをコルヴォのマークに、コルヴォの右手を同じように自分のマークを覆うように重ねた。
アウトサイダーの刻印から漏れる金の光が重ねた隙間から僅かに漏れ、手のひらの輪郭の血の赤色を透かしている。ヴォイドの細かな振動が手から腕、腕から心臓へと巡り、心臓から網を広げるように全身へと波及していくのを感じた。同時にこの世のものではない深淵からのノイズが鼓膜を震わせ、視界はいつもよりも少し暗くなり、あらゆるものの持つエネルギーのゆらぎを感じ取れるようになった。
そこまではいつも彼が能力を使った時と同じだったが、次第に、コルヴォにはなにかが圧迫感を持って彼の中を満たしていくのを感じていた。圧倒されるような感覚があるがそれは心地良くうねり、内側からそっと全身を押されるような不思議な感覚だった。これは、おそらくダウドのヴォイドパワーだろう。手に落としていた視線を上げると、ダウドは半眼でヴォイドの流れを操ることに集中しているようだった。彼の薄い唇が開く。
“見える。革と、内側にワイヤーと何かの機械の仕掛けがあって、拍動している。……これが心臓か。”
“そうだ。そして、ジェサミンの一部だ。”
コルヴォの答えに、ダウドは大きく息を吐いた。その中に隠せない悲しみや後悔が充満している事は双方が知っている。
“会話はできない。ただ、握るとその場所や近くにいる人間の秘密を教えてくれる。彼女の声で。”
コルヴォの手の上に置かれた太い指がぴくりと動いた。
“前はいつも身につけていたが、今は大切にしまってある。私は一人の夜にこれを取り出して、彼女の声を聞いているんだ。”
闇に溶ける幽幻の声を、ヴォイドからの彼女の囁きを。それはコルヴォを癒し、時に慰め、勇気をくれる。
ダウドは苦しい時のように眉間に深く皺を入れていた。コルヴォは重ねてある手を移動させ、一度彼の手を優しく握ると、ゆっくりと彼らの間の温かな繋がりを離した。
“まだ、見えるな?”
ダウドが肯定したのを確認し、コルヴォは膝の上の心臓をすくい上げた。鼓動は機械的に一定のリズムを刻み続け、それは隣の男にも聞こえているだろう。彼は心臓のワイヤーを指に絡め、そっと力をこめた。
“命を失っても死の祝福を受けられないのね”
深淵から響くような優しい声。ジェサミンの声である事は明白なのに、決して人間のそれではない。ダウドは体を硬直させた。
“新しい時代の始まりを感じるわ”
コルヴォが再び握る手に力を入れると、ダウドの顔は明らかに歪み、彼は曲がった唇を震わせた。恋人を泣かせたいわけじゃないんだーー、コルヴォは彼の肩に腕を回すと、その体をやや強めに引き寄せた。肩と肩、腕と腕をしっかりと合わせ、自分が隣にいること、そして今も彼を必要としていることを伝える。
“鯨を燃やしていた”
“かつて街全体が闇に包まれていたわ”
“私たちもここにいたのよ”
“私たちもここにいたのよ”
“私たちもここにいたのよ……”
やがて、いくら握っても彼女の声は同じ言葉を繰り返すだけになった。ヴォイドの名残をはらんだ美しい声は部屋の空気に溶け、優しく拡散し、彼らをそっと包み込む。
“私は今でも彼女を愛している。そして、お前が彼女にしたことをまだ完全には許せていない。”
“でも――、お前が必要だし、ここにいて欲しいと思っている。”
コルヴォの声も同じように空気に解け、隣の男からはただ、“ああ、” と短い答えが返される。
“私といてくれるか? そうしたら、いつかお前のことを赦せる日が来ると思うんだ。”
少しの後、低く耳に心地良い声がした。
“どこにも行かない。俺はずっとお前の側にいる。”
コルヴォはそれを聞いて目を閉じた。触れる男の体温は温かく、手の中の鼓動は心地良い。
“彼女” を見せた、それ自体が赦しに近付いている事には、おそらく彼ら両方が気付いている。心臓は、ゆっくりと脈を打ち続けていた。