タイトル未定6:コルヴォ
決まってフーガの終わりを告げるのは讃美歌だった。荘厳な合唱に次ぎユル・クーラン大修道院長による歳の終わりと新しい歳のためのスピーチがあり、その後レンヘイブン河川敷で新年を祝う花火が盛大に打ち上げられる。
スピーカーから讃美歌が流れ始めると人々は夢から覚め急いで支度をし、花火が終わるまでに自分の居るべき場所へと帰る。すべては幻から現実となり、メイドは主人の上から降り市警は制服を着直して腰に元のように武装する。妻は別の男の寝床を抜け出し、夫は顔じゅうについた口紅を拭き取って家へ急ぐ。そして何もなかった顔をして夫婦のベッドで眠るのだ。
眠りにつくコルヴォを揺り動かしたのも讃美歌だった。ブランケットに包まれた体を起こすと途端に外気が入り込み、その冷たさに彼は身震いした。どうやら二時間ほど寝てしまったようだ。
安宿の薄い壁を通して廊下や階下で人間が慌ただしく動いているのがわかった。窓の外の通りも複数の足音がするもののいつものように暗く、フーガの為の電飾の灯りはすべて落とされている。スピーカーを通した歪に軋む讃美歌の流れる中、彼は腕を伸ばすとベッドサイドのランプをつけた。
彼の隣で丸まっているダウドの体は暖かで、まだ眠りの中にいるようだった。黒い髪は見た事がないほど乱れ、寝ていてもなお眉間には深い皺が刻まれている。彼の首や肩に散らばる紅や歯型にコルヴォの唇は自然と笑みの形を作った。コルヴォは彼の髪にそっと触れた。こめかみの髪は彼の流した汗や涙のせいで束になって固まっていた。
ダウドは本当に素敵だった――、コルヴォは静かにため息を漏らした。
数時間前、彼はダウドを幾重にも覆っている殻を一枚一枚はがし、彼の奥に隠れされた火をおこした。彼は普段無口で、短気な一面はあるもののこれ以上ないほど冷静な男だった。痛みや薬への耐性も強く、コルヴォは彼が肩にスリープダーツを受けても低く呻いただけで、即座に飛んで相手の首を落とした所を見た事があった。しかしコルヴォの下で汗をかいていた彼は違っていた。それを知った後はもう二度と手放す事ができなくなるような、暗殺者でもスパイマスターでもない、おそらくコルヴォだけが知ることを許された彼だ。
“ダウド……、起きて。花火が始まる。”
自分のわがままだと自覚していたが、コルヴォは彼の傷だらけの肩を揺すった。彼と一緒にベッドの上から花火が見たかったのだ。彼の娘は恋人とそれを見るのだと言っていたし、夜が明ければ彼らは新年のスピーチや来賓の大勢集まる祝賀会の為に慌ただしくなる。それまでは彼とゆったりとした時間を過ごしたかった。
もう一度揺さぶるとダウドは顔をしかめ、短く唸ってからうっすらと目を開けた。コルヴォは彼の目の周りがいつもより赤くなっているのに気付き、そこを指先で慈しむように辿った。まだ半分眠りの中にいるぼんやりとした視線がシーツの上を漂い、それから彼の上に屈んだコルヴォに向けられた。その瞬間、彼は跳ね起きた。
“讃美歌……” 彼は窓のほうに茫然とした顔を向け、かすれた声で呟いた。
“俺の服はどこだ、コルヴォ。”
彼は裸のまま素早い動きでベッドから降り、部屋を見回した。その顔はいつものように険しく、コルヴォの心は途端にざわついた。彼はベッドのすぐそばに落ちていた絡まった服を拾い上げると振ってほどき、他の服が入り口の近くにあるのに気付くと左手を握った。“待て!” コルヴォはそこからテザーの光が伸びる前に、慌てて彼の腕に飛びついた。
“どうしたんだダウド? 何か急ぎの用があるのか?”
焦るコルヴォに、ダウドは信じられないという表情で彼を見た。“これが聞こえていないのか。日が変わってしまう。”
もちろん讃美歌は聞こえているが、そうじゃない。彼の答えを聞いた途端にコルヴォの体からは一気に力が抜けて行った。さっきまであった甘やかな気持ちは消え彼の中には驚きだけがあった。まさか、ダウドは本気でこれを幻にして片付けてしまうつもりだったのか。彼はダウドから手を離すと顔を覆い、よろよろとベッドに腰かけた。
“私はただ、お前と花火を見ようと思って起こしただけだよ……。”
自分でもわかるほどに力の抜けた、ため息の割合が多く混じった声だった。ちらりと見上げると、ダウドも服を片手に酷く狼狽した様子で固まっている。
“しかし、コルヴォ……。フーガは終わるぞ。”
“知ってる。讃美歌が聞こえているからね。”
どちらも口を開かず、ノイズが混じった賛歌だけが冷たい部屋に広がっていた。しばらくしてから、ダウドが口を開く。その声は少し震えていた。
“お前は――、お前は本気で言っているのか? 俺と花火を?”
“そうだよ。お前の方は一夜限りにするつもりだったのか?”
ダウドは判別しがたい呻きを漏らし、しばらく何かを考えるようにコルヴォを見、それから窓の方へ顔を向けた。コルヴォは彼の動きを見逃さないように注目していた。汚れた窓に映る彼の顔はよく見えなかったが、彼が目を瞑り大きく息を吐いたのはわかった。
ダウドは手にしていた服を探り、どこからか煙草を取り出して火をつけると服をまた床に放り――、再びコルヴォの元へ戻ってくると乱暴なしぐさで隣に腰かけた。
コルヴォは少し迷ったが、ブランケットを手繰り寄せて広げるとお互いの体を包むように肩にかけた。ダウドは拒否することなく、静かに煙草を口に運び続けている。素泊まりの宿に暖房器具はなくどちらの体もすっかり冷えていたが、かすかな希望に彼の内側はじわじわと温まり始めていた。“花火が始まるまで話をしよう。” コルヴォは言った。“今みたいに誤解をされたくないし、私が誠実な男だということをわかってもらいたい。”
ダウドは目だけでコルヴォを見た。“お前を軽薄だと思った事はない。それにことさらフーガを強調したのはお前の方だ、コルヴォ。”
それは図星で、コルヴォは返答に困ってしまった。彼は素直にそれを利用したことを認めてダウドに誤った。“ただ、お前が応えてくれるならこれきりにするつもりはなかったよ。”
“俺は……、” ダウドはそこで言葉を切り、灰皿に短くなった煙草を投げ入れた。そして視線を自分のつま先の方へ落とすと言った。“何で俺なんだ。”
“わからない。でも、ずっと前からお前をそういう意味で見ていたことは認める。”
コルヴォは正直に言った。フーガを利用してまで欲しいと思ったのは確かだったし、下で見知らぬ男に触られている彼に腹が立ったのも確かだった。“それに今私たちの間にあったことを忘れて、明日から元の顔に戻ることなんて私には出来そうもない。”
お前はどうなんだ、そう言って彼の横顔を見つめ続けると、ダウドは顔を上げた。コルヴォを見上げる彼は様々な感情が混じった混沌とした表情をしていた。
“俺もそうだ。実のところ、俺の方はお前をこういった事の対象に考えたことはなかったが、” 彼は迷うように一度口を閉じ、また開いた。
“俺はお前に、俺と花火が見たいと言われた時……、嬉しいと思った。”
ダウドの視線はすぐに逸らされたが、コルヴォの心はその言葉に掴まれ高鳴った。彼の頬や鼻が赤くなっているのは寒さだけのせいではなさそうだった。そしてその彼の表情は、コルヴォが微笑んで彼にキスをする理由にじゅうぶんだった。
ブランケットの下の彼の肩に腕を回し、コルヴォはダウドの体を引き寄せた。顔が近づく前にダウドの瞼は降り、彼の腕もまたコルヴォの背中に回される。ダウドの体に緊張や戸惑いはなく、自然に唇と唇が合わさった。
“花火を見ながらもう一度しようか。” キスの後のコルヴォの提案に、彼からはあきれたような視線だけが返された。彼の穴はまだ潤み、柔らかく少し開いたままだろう。“フーガだけじゃないと証明しないとな、” そうコルヴォが重ねて言うと、今度は鼻を抓られる。
“……花火が終わるまでは休ませろ。”
ダウドのその答えに、コルヴォは笑って彼を抱きしめた。
讃美歌は次第に小さくなり、鐘の音と朗々と響くクーランの低い声に変わっていく。花火はもうすぐだった。
7:エピローグ
エミリーの見る限り、カリスタはすっかり酔っぱらっていた。彼女はワインを片手にジェイムソンに何かを耳打ちし、そしてけらけらと笑った。“花火はもうすぐね。” エミリーはそう言って隣の若い恋人の肩にくっついた。
タワーの屋上にはあちこちに火が炊かれ、花火が良く見える位置に女王と友人たちのためにタープと絨毯、それから快適に過ごすためのソファや酒や食べ物が用意されていた。背後には伝統的な曲を奏でる楽団と、アレクシと彼女が選んだガードたちが並んでいる。彼女たちは立場上酒は口にしなかったが、普段よりはリラックスした様子で歓談と料理とお菓子を楽しんでいた。
“お父様は帰ってこなかったわね。それから、彼も。”
エミリーは首だけを後ろに倒し、カウチの後ろに立っているトーマスに声をかけた。良かったですね、彼は答えた。彼もまたいくら彼女がすすめても座りも酒を口にもしなかった。
“恋の鞘当てはいつだって起爆剤になりますから。” 女王の座るカウチの足元でくつろいでいるカリスタが目を細めて笑った。“あの店を選んだのは正解でした。”
エミリーは背後の捕鯨員による“実際に鞘当てが起こったかはわからないですけどね……、” という呟きを聞きながら、緑の葡萄を一粒口に入れた。
“少なくともマスターは誰かを敵と味方とそれ以外にしか分けず、他の自分の感情には目を向けません。” マスク越しの彼の声には哀れみに似た色が混ざっていた。
最初に彼らの視線に気づいたのはダウドの忠実な部下である彼なのか、それとも好奇心の強い彼女の世話役だろうか。エミリーにはわからない。二人の間に何か話し合いがあったようだが、少なくとも計画を持ち掛けたのはカリスタの方だろうと女王は予想している。
“まあ、私はお父様が幸せで、私の行動にあれこれうるさく言わなくなるならそれでいいわ。”
エミリーは背の高い恋人を見上げて微笑んだ。彼女はまだまだ恋の初心者で、彼女が父親とスパイマスターの含みのある視線に気づいたのは最近の話だった。彼女もずっと彼らの間に独特の緊張感に似た何かがあることは知っていたが、それは単に彼らの持つ過去のせいだと思っていたのだ。
しかし彼女はまた、彼らが何年も自分の幸せを捨ててこの国と女王のために仕えてくれていた事もよく知っていた。そして彼らが自分の欲しいものに目を向けてくれればと願っていたのはエミリーだけでなく、彼らの周りの人間も同じだった。だから少し罪悪感を感じつつも、彼女も彼らの計画に乗ったのだった。
いっせいに歓声があがり、彼女は夜空に輝くの花のまぶしさに目を細めた。色とりどりの光の後に、鼓膜に響く炸裂音が続く。
父親も今、どこかで彼とこの花火を見ていたらいい。エミリーはそう願い、新たな光の輪に彼女もまた、周囲に混じって手を叩き歓声を上げた。