1 照らしてよ、ペリドット自分が欲しいものなんて、この世のどこにも無いと思っていた。
照らしてよ、ペリドット
何が欲しい?何が好き?クマのお人形よ。このミニカーはどう?とってもかっこいいでしょう?
物心ついた頃だ。自分のような感情を表に出さない子供を持つ親は大変だろうと、あの手この手で自分を喜ばせようと必死な両親を哀れに思った。愛嬌があって愛され上手である兄がいるから余計にそうだったのだろう。兄と分け隔てなく自分のことも愛そうと躍起になる両親は、自分の目には滑稽にすら映ったものだ。
別に何も欲しくなかった。無いからといって不満だったわけではない。それが彼らには理解できないようだった。強いていうなら、自分も兄のようであれば―――少し何かが違っていただろうかと思った。
「はじめまして、宇髄弟!」
陽の光を一本一本に丁寧に集めて綴じたような黄金色の燦めく髪。地平線から覗く朝陽はきっとこんな色なんだろう――不思議な光が宿る瞳が、初めて自分を映した時。今まで、死んでいるように生きてきたのは、あるいは影のように、永遠にも感じる平坦な日々を怠惰に息をしているふりを続けて来たのは、この光を手に取るためだったのだとさえ思った。彼は、自分を照らす光だった。
自分で言うのもなんだが、幼い頃より兄と共に身内から他人から、外見に関していつも賞賛を受けて来た。けれど彼に属する美は、自分とは対極にあるものであると感じる。この自分を形成する皮が暗鬱な内側を隠すための鎧であるなら、この人のそれは内面をそのまま外に写した剥き身の美しさだ。彼と初めて相対した時、その若芽のように清らかな一瞬の連続を何かに留めて置けないとしたら、それはとても残念なことだと思った。どうにかしてそれを留めて置けたなら――留め置きたいと感じた衝動は、今思えばそれが人生で初めて感じた欲望だった。出会ってから何年経とうとこの衝動は消えずにいて、自身の生涯の商売道具としてカメラを手にするきっかけとなった。生き物は皆等しく老いてゆく。与えられた時間が刻々と擦り減ってゆくこの人の今を、永遠に閉じ込めておける手段だと思ったのだった。
父の転勤で東京に越して来たのは自分が12歳――小学六年の夏だった。二学期の始まりに合わせて夏休みの後半に自分たち家族は新しい街にやって来た。新学期が始まると、二つ年上の兄は持ち前の社交性でもってすぐに親しい友人が出来たらしかった。そうして連れて来たのが彼、煉󠄁獄杏寿郎だ。彼は兄に誘われ度々家へ来た。ある時は晩夏の暑気を凌ぎに、ある時は兄とテスト勉強をするため、ある時は兄の新しいゲームや音楽を一緒に楽しみに――。彼が派手好きな兄のお気に入りであることは明らかだった。華美な見た目だけでなく、快活で純粋で素直な人間性が、兄だけではなく誰にとっても魅力的であることは、幼い自分にも想像が及んだ。家の中で出くわす度、彼は兄へ接するのと同じように声を掛けてくれ、また時折自分たちと一緒に遊ぼうと誘ってくれもした。
彼の瞳が自分を映すと、声を掛けられると、それまで持ち主にすら潜むように大人しくしていた心臓が突然動き出したように五月蠅くなるその訳が初めは解らなかった。けれど兄たちが中学の3年になった年、受験生の分を守って彼があまり家を訪れなくなったことで、長いこと彼の姿を見ることが出来なくなって初めて気がついた。自分は、彼に、恋なんてものをしているのだと。
皮肉だ。人生で初めて欲しいと思ったものが、兄の友人であり、同性であるだなんて。気づいた瞬間に、自分には似つかわしくない恋心が儚く散ったことに独り静かに拉がれた。だから自分のその心の閉塞など誰も気づかなかったに違いない。彼への想いは粛々と、誰の目にも触れずに沈み滅びゆく。
春になって少しすると、ほとんど一年ぶりにあの人が家にやって来た。兄が進学した高校と同じ制服を彼が着ていることから、兄との交友が今も変わらず続いていること、きっとこれからも続くであろうことを悟った。
「久しぶりだ、かなり背が伸びたな!もうすぐ追い抜かれてしまいそうだ!」
久々に見るあの眸。明るく伸びやかな声。向かい合って立つと以前より視線が交わる位置が近くなっていて、壊れて散り散りになっていたはずの思慕の欠片がたちまちに再び胸の内で形成されるのを感じた。またこうして時折顔を見ることが叶うのだ。この眼に自分が映り、耳触りの良い声を聴くことが――。たとえ彼にとって自分が友人の弟というだけの存在としてしか叶わなくとも、それでも。
この再会が自分でも意外なほどかつての恋を勢いづけた。彼のいる高校へ自分も必ず進学しようとその日に決めた。それまでは入学先などどこでも良くて、進路調査票に志望校を記入する欄には毎回少し困っていたのだ。たとえ彼とは在学期間が僅か一年しか被らなかろうと彼のいる日常へ自分も身を置いてみたいと、自分には希少とも言うべき願望が胸に灯った。学び舎で過ごす彼の姿を目にすることは、兄たちが通っていたところとは違う学区内の中学へ自分は通っているので、今まで実現していないことだった。
幸い誰に反対されることもなく(尤も、滅多に自分の希望など口にしない自分が強い意志で以て決めたことに驚きこそすれ、誰も口を挟む筈もなかった)、ただそれだけを目標に受験対策に励んで彼と兄の高校に無事合格した。
しかしようやく少し近づいたと思っても、絶対に埋まらない距離。一年後にはもうあの人は卒業して行ってしまう。そうすれば今度こそ、もう二度と会えないかもしれないのだ。高校がそうであるように、彼が兄と同じ大学に通うかなんて解らないし、また仮にそうなったとしても変わらず親しくいるかどうかは解らない。どうにかして【友人の弟】という味気ない存在から抜け出せないかと考えた。しかし考えたからといって、想い人どころか交友関係でさえ積極的に自分から親交を深めたことがないというのに、突然似たようなことができるはずもなく。
いつものように自分は、何もできなくて。
いつものように彼は、兄の隣で。
笑っているのだと思っていた。
「――――」
笑った顔しか見たことがなかったから、酷く驚いた。その笑顔は全て内側から来る何の混じり気のないものなのだと思っていたから。
(そんな顔もするの。貴方は)
休み時間たまたま行き合った、学校の廊下で何人かでふざけ合っている三年の集団。兄と、あの人と、仲の良いクラスメイトだろうか。兄の傍らには女生徒がいる。「俺の新しい彼女〜」などと戯けながら笑う兄に「お前高校入って何人目だよ宇髄!」と茶々を入れる友人たちの周りで、彼は同じように笑いながら。
(出来てないよ。失敗してる)
笑みのカタチに作られた表情を眺めながら思った。彼は、友人たちと同じように笑えているつもりなのだろうか。
「煉󠄁獄くんが天元くんに手紙渡してくれて、それで」
新しい彼女とやらが恥ずかしそうに嬉しそうに感謝の眼差しであの人を見る。それに対して彼はまた嘘くさい笑み。どうやら頼まれてラブレターを兄に渡す役を担ったらしい。
「そうそう。俺の親友がキューピッドになってくれたわけ。な?」
残酷に、兄があの人に無邪気に笑いかける。そう、残酷だ。
兄さん、何年も傍に居ながら彼のこと、少しも気づいていないの。それとも気づいていて敢えて―――いや、兄は一見冷淡そうに見えて実は恐ろしくお人好しだ。自分のようにひねたところなど少しもない。彼が隠し通している秘密になど気づきもしないでずっと傍に置いているのだろう。自分たちの関係性にこれ以上の形は絶対に無いという最後通牒を意図せず渡しながら、きっと一番親しい間柄を築いている。
見つけた。
貴方に自分を刻める糸口。いいや、これは糸口だなんて見落としてしまいそうなほどのそんな些末なものではない。彼自体が眩すぎて気づけなかった、その後ろに暗々裏に広がる昏く深い兄への思念。
いつから。いつから貴方は兄を想っていたのだろう。叶わないと思い知りながら離れるという選択もせずに、挙げ句恋人など手引きしてやって。それでも良いと思っているのだろうか、傍にいられるのなら――。
話題が一段落したのか、友人たち、兄と彼女が散り散りになってゆく。一人、彼だけが残った。
「杏寿郎さん」
自分に呼ばれてくるりと振り向いた顔は、まだ繕いきれていない。そんなに傷つくのならなぜ恋人たちの結び役など買ったんだ。
――ああ、でもやっぱり、解るよ。
「君…、……。やあ!」
すぐにいつもの調子に切り替えて、明るく挨拶してみせた。
傷ついてもいい、少しでも自分を見てくれる瞬間があるなら。代わりでもいい。少しでも貴方と繋がれるなら。そんな縋る思いを捨て切れず、自身を傷つけ続けても尚、特別なひとがいる世界を手放せない。
ねえ、貴方なら解ってくれるでしょう?
中学二年の夏休みが終わると、とても美しいひとが遠くからやって来た。東京は既に色々な人で溢れ返っているというのに、クラス担任に連れられて教壇に現れた君は、見たこともない美貌のひとだった。自分と同じ性とは思えないような艶麗な顔の造りをしているというのに、その顔の乗った躯は猛々しく、男として見惚れるほど見事だった。そんな、まるで神話から抜け出してきたような若い男神のような彼は、やって来た初日から何故か自分に好意を持った様子で話しかけてきては、その後も何かと新しい学校生活のために俺を頼った。
一目惚れというやつだったのかもしれない。彼が覗き込んで話しかけてくる度にどぎまぎとして、初めそれは彼が見目が整い過ぎているせいだろうと思っていた。けれど、それを否定するのにさほど時間を要さなかった。彼が好きだ。名前を呼ばれる度に甘い痛みに心臓が疼く。クラスじゅうどころか学校じゅうの注目を集める彼が、親しげに毎日声を掛けてくるのが誇らしかった。その彼が、転入して来てまだ日も浅い内から俺を彼の家にまで招いてくれて、二人の時間を過ごして。だからこそ、そこまで自分を友人として好いてくれている彼を絶対に裏切ってはいけないと思った。彼が好んでいるのは【友人の煉󠄁獄杏寿郎】。そう何度も頭の中で繰り返し不要な想いを追い出そうとしてきたが、未だに成功しないまま彼の傍にいる。
偶然だったのかどうか解らないが、中学から引き続き宇髄と同じ高校に通うことになり、クラスが分かれたりしても変わらず彼との付き合いは続いていた。男同士なのだし、いっときの迷いだったようにその内もしかしたら彼への感情も次第に薄らいでくれるかもしれないと、入学後からずっと淡い期待を持って傍にいたけれど、最高学年になった今も願いは叶ってくれていない。
宇髄が中学時代から女生徒に絶大な人気があったのは言うまでもないが、高校に入るまで彼が恋人を作ることは無かった。毎日嫌というほどそんなに告白されているのに誰とも付き合わないのか?と聞いてみたことがある。彼女を持たないのは別に彼に明確な意図があってのことではないらしい。
「んー?何となく?今はいらねぇかなって」
彼の気紛れな性分を表すような、ふわふわとした答えだった。その反動でもあるかのように、高校に進むと宇髄は誰かの恋人でいる期間をほとんど途切れさせなかった。それでも俺との付き合いもまめにして怠らない。彼曰く、恋愛にだけのめり込んで友情を蔑ろにするのは地味な男がすることなのだそうだ。
高校生になり、少年の名残のような中性的な要素が彼から抜け落ちてゆき、日毎に成人男性らしさが増していくのを目の当たりにしては、俺は動揺してしまう自分を恥じた。からだが男らしくなっていくことは自分にも彼にも当たり前のことなのに、制服の白シャツから覗く鎖骨や、手首の内側の硬そうな筋、いつの間にか大きく張り出した喉仏に目を奪われてしまうことがある。友人に欲情してしまうような自分が彼の傍にいていい訳がない……。素知らぬ顔で親友のふりをしておいて、心の内では気の合う男友達なんかではなく熱を分かち合うような触れ合いを望む、裏切り。けれども自分は、不埒な空想をどうやっても逃れられない――。
苦しかった。どうして好きになってしまったんだろう。どうして君はいつまでも俺の友人でいてくれるんだろう。派手で楽しいことが好きな君には、野暮ったい自分よりももっと馬の合う誰かがいそうなものなのに。
『煉󠄁獄くん、あのね、これ……できたら宇髄くんに渡してもらえないかな?』
醜い感情を抱えていたくなくて、あの日も嘘をついた。
『ああ、もちろんだ!』
自分に。彼に。惨めな恋心に。
受け取ったこの手紙の中にしたためられた言葉たちが彼を射抜いて結ばれたら、彼女はもう宇髄の何人目の恋人になるのだろう。三人、いや四人目…だったろうか。いやもう何人目だろうとそんなこと――そんなことが解ったって、自分が彼の何番目かになれる日など来ないのだから。
「杏寿郎さん」
めでたく恋人同士となった二人や友人たちが行ってしまってすぐ、呼ばれて振り返ると彼によく似た顔の生徒がいた。宇髄の弟だ。
「君…、……。やあ!」
今年新入生として入学してきた宇髄の弟とは、時々こうして行き合った時二、三言葉を交わす。
「部室へ行くのか?」
手に提げ持っているボトルを現像液だろうと予想して尋ねてみる。彼の所属する写真部の部室は自分たち三年の教室の並びを通り過ぎ、突き当りの階段を上がったところにあるのだ。きっと用務室に届いたそれをしまいに行くところなのだろう。二つ持って両手が塞がっているようだから、一つ請け負ってあげよう。そう提案しようとした、時。
「苦しくないの。兄さんのあんな顔見て」
いつもの、
「…え――?」
感情の読めない茜色が見下ろし尋ねてきた。
「な、に…「苦しくないの?自分の傷抉るような真似をして」
「何…を……」
何を、言っているんだ。そう誤摩化しの言葉を発する隙すら彼は与えてくれなかった。
「何をじゃないでしょう。全然上手く泳げてないよ、杏寿郎さん」
校内履きのサンダルの先をゆっくりと進めて宇髄の弟は近づいてくる。目の前に立つと、もう彼の兄と殆ど変わらない背丈ですっかり見下ろされている。
「………いつから…、…………」
次の言葉が出て来ない。舌の根が毒でも飲んだように痺れて、もつれる。
いつから、彼は気づいていた?
ああ、いつからだろうと彼はとにかく自分の兄へ向けられる劣情を目の前に黙っていられなくなったのだろう。それはそうだ。だって彼にとっても裏切りだ。彼のことは小学生の頃から知っている。その時からずっと自分は、宇髄の親友のふりを続けて、いて――
「杏寿郎さん」
「………」
顔を上げたくなかった。罪状を言い渡される被疑者のような気分で、けれども彼に屈してのろのろと顔を上げた。
「身代わりをあげる。本物をあげられない代わりに、」
ああ、彼に似た顔で、なんて綺麗に笑むんだろう。
「その身代わりを、貴方の好きにしていいよ」