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    mayo

    @mayonaka_rom

    さめしし壁打ち練習用
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    ありがとうございます☔️🦁

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    mayo

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    さめしし。ししさんが血縁のない子どもの世話をする話。

    世界はそれを、(①と②)「獅子神さーん、遊びに来たよー」

     広いリビングに真経津の声が響く。無職代表の彼は暇ができると(空腹になると)獅子神の家を訪れていた。投資家という仕事を何だと思っているのか。獅子神はいつも小言をこぼすものの、来たら来たで甲斐甲斐しく世話してやるのだから、来訪をやめるわけもない。今日も多分に漏れず遊びに来た真経津だが、扉を開けたとたんにぴたりと足を止めた。
    「おう、真経津か」
     ダイニングテーブルに獅子神が座っていた。その後ろには従業員という名の雑用係が二人。全員の視線が真経津に集まるが、問題はその人数だった。
     獅子神の向かい側、ひとりの子どもが不安げな視線で真経津を見上げていた。幼児と呼ぶべき年頃か。椅子に座った足は床についておらず、ブラブラと不安定に揺れていた。靴下の指先に大きな穴が空いているのが見えた。新幹線が描かれた半袖のTシャツとブルーのショートパンツも色褪せ、あちこち毛玉だらけだ。第一、今は十一月。見るからにペラペラの衣服は、暑がりだからで済まされない薄さだった。
    「……獅子神さん、知らないうちにおめでただった?」
    「ちっげーわ!」
     雑用係たちを背後に従え腕組みした獅子神は気難しげな雰囲気だが、ツッコミは健在だった。
     真経津の登場に気を取られていた子どもが、大声に弾かれたように体の位置を戻した。首をすくめ、おびえた様子で身をちぢこめる。
    「あーわりぃ。オメーを怒ったわけじゃねえよ」
     すかさずバツの悪そうな顔で詫びたが、両手を膝の上に握りしめたまま動かない。
     獅子神は宥めようと伸ばしかけた手を引っ込め、後頭部をばりばりと掻いた。幼い子どもを相手に、どうしたらいいかわからない様子だ。
     獅子神が子どもを苦手にしていることは誰もが知っていた。親しい面々だけではない、彼の元で働く雑用係たちも、もちろん。
    「獅子神さん、この子、手も洗ってないですよね。僕らで連れて行きます!」
     園田と呼ばれる方の男が取り繕うように手を挙げると、子どもはほっとしたように息を吐いた。やたらと豪奢で一般人離れした容姿の家主よりも、人の良さそうな外見に気を許したのだろう。行こうと促す声に、子どもがとん、と椅子から降りた。
    「向こうで話すか」
     二人が洗面所は連れていくのを見届けてから、獅子神は真経津を書斎へと誘った。テーブルの上に置かれたメモを片手に。


    「それがあの子どもということか」
     村雨は眉間を揉みながら、ソファを一瞥した。連勤明けで疲れが溜まっていた。それでも獅子神の家を訪れたのは、真経津からの「獅子神さんに子どもがいるよ!」という怪文メールのためだ。着替え前に見るべきではなかったと後悔する。あらゆる説明を省略した文面は、あきらかに年上の友人をおちょくるためのものだとわかっていても、疲れきった村雨の脳を破壊しかけた。ロッカールームを出るなり獅子神の家に直行する程度には。
     ソファには真経津と子どもが並んでいる。ゲームの音量が大きいために、こちらの会話は聞こえないだろう。それでも地声の大きい自覚のある獅子神は、声をひそめるように気をつけていた。これ以上、小さな子どもを怯えさせるのは気の毒だからと。
     書斎で真経津にも示したメモを渡され、目を走らせる。「しばらくお願いします」という走り書きの一文とともに氏名らしきものが添えられていた。
    「名前に聞き覚えは?」と問えば、獅子神は苦々しげに頷いた。元奴隷の一人の苗字だという。下の名前はやけにきらきらしい。というか意味もなく小難しい漢字を並べているせいで、何と読むのかわからなかった。
     園田にも確認してみたが、男の名前はぼんやりと覚えているものの、素性などに関する記憶はなかったという。当時の状況で互いの身辺を話し合う機会など、あるはずもないが。獅子神が奴隷達を解放したあと、彼らが他の人間とあえて接触を絶った節もある、と獅子神は言い添えた。
     唯一もう一人の雑用係が覚えていたのは、男の左薬指の肉がすこし落ちていたこと。顔や素性よりも指先の記憶が残っているとは、倉庫落ちしたとはいえギャンブラーだからか。呆れに似た感情が湧いた。しかし重要な情報ではあった。男が身を持ち崩す前に妻帯者であったのならば、子どもがいたとしてもおかしくない。
    「何らかの事情で子どもといられなくなったということか」
    「だとしてもいきなり人んちに置いていくなんて、ふざけてやがる」
     園田たちとちょっとした日曜大工をするため外出し、帰宅した昼下がり。見知らぬ子どもが一人で玄関先に座っていた。冷えこんでくる前にとりあえず屋内へ保護したのだと、低い声が説明した。
     獅子神は倉庫落ちした人間を買い集めることで、畏れられつつも、それなりの人望を得ていたようだ。金もあり、世話好きだ。そして詮索しないたちであることを見越して預けようと考えたのか。
    「身勝手にも程があるな」
     村雨の言葉に、獅子神も無言で同意した。金髪の隙間に覗くこめかみに青い血管が浮く。彼が怒るのも無理はない。
    「まだあんなちっせえガキだぞ」
     うつむき、精一杯押し殺した声は、唸るような響きを帯びていた。テーブルに置かれた手を上からそっと覆ってやると、震える親指の爪が村雨の指を引っ掻いた。チリ、とした痛みは彼の胸から生じるように思えた。村雨は重たい息を吐き出し、目線だけをソファへ移動させた。

     子どもは真経津の隣に行儀よく座っていた。雑用係たちはすでに仕事を終えて帰宅したあと。彼らも残った方がいいかと気にかけてはいたが、途方に暮れる獅子神に代わって、真経津が子守を引き受けたらしい。子ども同士で気が合うのだろう。大画面いっぱいに映る電車を二人揃って眺める姿は、歳の離れた兄弟のようだ。
    「三、四歳といったところか」
    「もうすぐ四歳だって。まあ、本人が言っただけだから本当かはわからねえけど。名前もあのメモの漢字だと正直言って読めねえだろ。訊いてみたら、あっくんだと」
    「あのつく名前など幾らでもあるな」
    「そうなんだよ。大体……」
     獅子神がふと目を伏せた。ホクロの目立つ目尻がわずかに震える。
    「その、……登録とか、ちゃんとされてるかもわかんねえし」
     無戸籍児のことを言いたいのだと悟った。村雨は仕事柄、福祉と連携するケースも少なくはない。獅子神の心配は言葉にせずとも理解できた。玄関先に子どもを放置された時点で通報することも可能だったのに、ためらったのはそのためだろう。そして村雨が呼ばれたのも。
    「もうすぐ何か焼き上がるな。食べ終わったら診察をしよう」
     獅子神の表情が、あからさまにほっとしたものに変わる。
    「助かる」
     言葉の通り、オーブンからは甘い香りが漂い始めていた。冷凍しておいた生地を使って、急ぎでクッキーを焼いたのだと、獅子神が説明した。しばらく相手をした雑用係によると、来る前にパンを食べたと言っていたらしいが、そろそろ空腹になる時間だろう。夕食までのつなぎとして供するつもりだった。もちろん真経津と村雨にも。村雨の疲労を見越したように獅子神が立ち上がり、コーヒーでいいかと尋ねてきた。
     そのとき子どもが真経津の袖を引き、なにかを話しかけるのが視界に入った。体をかがめた真経津が、ふむふむとうなずいている。
    「獅子神さん、この子。新幹線に乗ってきたんだって」
    「新幹線?」
     テレビ画面には特徴的な先頭車両が映っていた。新型の新幹線だ。本当かと尋ねる真経津に、子どもが一生懸命うなずいてみせた。警戒心からからあまり言葉を発することはない。それでも数時間をともに過ごした青年には、少しずつ心を許し始めているようだった。
     キッチンへ移動した獅子神がそれを見て、かすかに眉を寄せる。いまだ距離を置かれているのを気にしている様子だ。無理もない、と村雨は考える。大きな体躯に金色の髪と青い瞳。一般的な暮らしをしていて出会う人間ではないのだからと。自分もおなじタイプの人物であることは、本人だけが理解していなかった。
    「あっくん。あの人はお医者さん。わかる? 先生だよ」
     子どもの視線が村雨に向けられたのに気づき、真経津が説明をし始めた。三人の中では最年少だが、少なくとも外見に関しては一番まともだという自負からだ。
     おい、し? と口ごもるあたり、医者の概念はないようだ。それが幼さによる知識か経験、どちらの欠如によるものかは定かでないが。
    「せんせ?」
    「そう、じょうず。村雨先生。それでほら、今キッチンにいる人が……」
     真経津が指さす方向から、ふわりとあたたかな湯気が漂ってくる。気重な空気を払拭するようなバターの香りも。
     子どもが鼻をひくつかせ、トレイを手にした獅子神を見た。次の瞬間、ぱあっと顔を輝せた。
    「ママ!」
    「は?」
     三人の声が見事に重なった。動きがぴたりと止まる。
    「ママ、ママ!!」
     一足早く状況を把握したのは、子どもに携わる経験の多い村雨だった。甘い菓子の香りとひるがえるエプロン。年端のいかない子どもが母親を想起したのも、無理はない。それは少なくとも愛情と母性の欠けた暮らしではなかったという証左でもあった。わずかな安堵を覚えて獅子神を眺める。しかし当人はトレイを持ったままプルプルと震えていた。
    「……じゃねぇ……」
     必死で声を殺したのは、目を輝かせる子どもへの配慮だろう。
     子どもは獅子神の動揺など知る由もなく、ソファから身を乗り出さんばかり見つめていた。眼差しに込められたのは純粋な親しみ。先ほどまでの警戒しきった姿が嘘のようだ。その向こうでは真経津が腹を抱えて身をよじっているのが見えた。宙に浮かせた脚がバタバタと上下に動き、一体どちらが子どもなのかと首をひねりたくなる。村雨もまた、ごほん、とわざとらしい咳払いをした。じろり。香り高い湯気の向こうから、何とも複雑な表情で睨まれる。
     けれどもご丁寧に型抜きしたクッキーをトングで掴む姿は、
    「……ママだな」
    「……ママだね」
     一人を除いて再び重なった声。
     オメーらのクッキーはねえぞ。すごみたい気持ちをどうにか抑え、獅子神はクッキーをケーキクーラーへと移していった。




     きっかり二時間後、面々の前に並んだのは卵の黄色も鮮やかなオムライスとハンバーグ。茹でたブロッコリーに花のかたちのニンジングラッセ。まるでお子様ランチのような夕食メニューだった。
     ナプキンを配り終えた獅子神が、ぽりぽりと目元を引っ掻く。
    「あー……なんつうか、な」
     誰が訊いたわけでもないのに、頬のあたりが赤らんでいる。言い淀む口元を見ずとも、考えていることが丸わかりだ。
    「わあ、おいしそう。僕、獅子神さんのオムライス好きなんだよね」
     村雨の眉がぴくりと反応した。
    「待て、真経津。あなたは以前にも食べたことがあるのか?」
    「あれ、村雨さんはないの? 前はケチャップじゃなくデミグラソースがかかってたけど」
    「獅子神、どういうことだ?」
    「どういうことだって、オメーがいないときに昼飯とかで作ったんだろうよ」
     メニューをすべて覚えているわけではない。こともなげに言うと、村雨が鼻を鳴らした。
    「あっくん、獅子神さんのご飯はレストランよりおいしいからね。いただきます!」
     真経津がどこ吹く風だ。村雨の視線をものともしない、向かい側の席に向かって声をかけると、子どもがこくんとうなずいた。獅子神がキッチンに立つあいだも期待に満ちた目を向けていたほど。待ちわびた様子でスプーンを手に取る。子ども用のカトラリーは揃えていないから、やむなくデザート用のもので代用していた。
    「真経津だけに、あなたは」
    「しつこいぞ。とっとと食え」
     ひと言言い捨て、獅子神も席に着いた。隣をちらりとうかがい、慣れないスプーンを握りしめて食べる姿にほっとする。好物を聞いときゃ良かったな。そう思いながら、フォークを手にしたとき、リビングの扉が勢いよく開いた。
    「待たせたな」
     姿を見せたのはカソック姿の男である。
    「天堂さんも来たんだ。オムライスおいしいよ」
    「ふむ。この前のトリュフ入りホワイトソースのものとはまた違うようだな」
    「待て、天堂。いや、獅子神。なぜ私だけがオムライスを食べていない」
    「わりい、天堂の分ねえんだけど」
    「食事は済ませてきたから心配いらない。あとで軽食と甘味を頂こう」
     それよりも、必要なのはこれじゃないのか。天堂が片手に持った袋のなかから、小さなプラスチックケースを取り出した。低年齢のカトラリーセットだ。
    「おお、助かる」
    「これも神の勤めだ。メールで頼まれた物以外にも色々と用意してある」
     獅子神がケースの蓋を開けて渡してやると、子どもは嬉しそうに握りしめた。手に合うサイズに変えたことで、先刻までよりも食べ方がずっとスムーズになった。
     ソファでくつろぐ天堂を除き、食事を再開する。だが、村雨だけは依然として渋面だった。
    「村雨さん、そんなに不満ならケチャップでハートでも描いてもらえばいいじゃん」
    「そんな子どもじみた真似はしない」
     次は必ずデミグラソースのとホワイトソースのもの、それぞれを作るように。念押しする時点でどうなんだ。思うだけで口には出さない。
     向かい側のやりとりは極力聞こえないふりをして、食事をつづける。ふわふわの卵をのせたオムライスにスプーンを入れれば、鮮やかなケチャップライスが顔を覗かせた。味付けは甘め。ハンバーグも香辛料控えめにして、野菜を細かくした幼児向けだが、向かいに座るお子様舌二人にも好評のようだ。
     相変わらず緊張しているのか、単に腹が空いていたのか。無言で食べ続ける小さな頭が、不意にこちらへ顔を向けた。
    「……おいし、ママ」
     ぐ、と食べ物を詰まらせた音が聞こえた。しかも二重に。
     目をすがめて向かい側を睨みつけると、視界の端で天堂がうんうんと満足げにうなずいた。
    「親の愛は偉大だからな。神も祝福しよう」
     村雨の手はワイングラスへ、真経津の手はオレンジジュースのグラスへ。二人の手が同時に伸びていた。


     そして食後。真経津が再び子どもをソファへ誘った。
    「とりあえずはこのぐらいあれば充分か?」
     天堂が教区のボランティアに用意させたという袋。中には幼児が数日暮らすための衣類がぎっしり詰まっていた。他に入浴用品や洗顔道具まで揃えてある。買いに行く時間がなかったために依頼したが、予想以上の充実ぶりだ。人脈に感謝する。持つべきものは友、いや、神である。
    「――それでどうするつもりだ」
     シャンパンを傾けながら天堂が問う。ネイルを施した指先が、優雅な手つきでチーズをつまんだ。
    「必要があれば、神の保護下に置くことも可能だ」
     民間の児童養護施設にツテがあるのだという。外国籍など行政の介入が難しい家庭の子どもも多く、事情を話して預けることもできるそうだ。村雨の診察によれば痩せ気味である他は健康状態も悪くないらしい。虫歯なども見当たらないことから生育環境は劣悪でなかったことが推察された。受け入れ体制が整っているのなら、願ってもない申し出である。
     しかし。
    「――しばらくはオレんちで何とかする」
     獅子神は唇にぐっと力を入れた。
     メモに書かれていた、しばらくという期間。それがどのぐらいを表すのかは定かでない。人道的とは言いがたい扱いをした獅子神を頼ったのは、どういった心境からだろう。疑念が胸にわだかまっていた。
     園田たちは賭場を抜けられて良かったと、獅子神を一途に慕っている。だが、子どもの父親は。奴隷としてこの家に留めた日々が、彼ら親子の運命を狂わせてしまったのではないか。そう考えると、息が苦しくなった。
     黙りこんだ獅子神に、天堂が静かな目を向けた。
    「起きたことは変えることができない。目の前に注力すべきだ。ほら、彼のように」
     向かい側の席では村雨がタブレットを使い、調べ物の最中だった。
    「……ああ、そうだな」
     自分にできることはなんだろう。
     考えを巡らせたとき、村雨がふと手を止めた。獅子神の視線を受けて、テーブルに置いた画面をくるりと裏返してみせる。
    「これは……新幹線のダイヤか?」
     上部のサムネイルに見覚えがあった。東海道新幹線の新型車両だという。
    「子どもの記憶がたしかなら、今日の昼ごろ品川駅に着く同型の列車はこの数本だけだ」
    「東京駅じゃねえのか?」
    「車のなかでパンを食べたと言っていた。タクシーであなたの家に来るなら、品川駅の方が近い」
    「どこかに泊まってから来たって可能性は?」
    「あなた、昨日の天気を忘れたのか」
     秋晴れの広がる今日とは異なり、昨日は一日雨模様だった。日本列島全体を雨雲が覆い、かなり強く降った時間もある。昨日の出発であれば長靴を履かせるなり、もう一枚服を着せるなりの措置があっただろう。村雨が指摘した。
    「履いてきた靴も古びてはいるが、それほど汚れていない。靴底を見ても雨の中を歩いた様子はなかった」
    「東海道新幹線ってことは、大阪あたりから来たのか」
    「少ない言葉を聞いた限り、子どもは標準語を話す家庭で育っている。案外近くの可能性もあるな。停車駅のマップを見せれば、何か思い出すかもしれない」
     オムライスに一喜一憂していた男とは思えない分析に、獅子神は感嘆の声を漏らした。
    天堂も同感らしく、「ご苦労。彼にも労いを」と、最後に残ったチーズを口に放りこむ。
     そして「せっかくだ。この前の栗の渋皮煮も頂こうか」と付け加えた。
     まずい。
     余計なことを、と思った時にはもう遅い。村雨がすかさず割り込んできた。
    「獅子神、この前の渋皮煮とは――」
    「ああ、もう出すから待ってろ!」
     せっかくうまくいってたというのに。またしても雲行きがあやしくなってきた。獅子神は乱暴に会話を切り上げると、足音も荒くキッチンへ向かった。耳に響くのは天堂の含み笑い。
     あまり考えたくはないが。
     嫌な予感が確信のかたちに変わっていく。
     真経津だけではない、天堂にまで弄ばれている気がする――オレと村雨の仲を。

     獅子神が村雨からの告白を受け入れ、交際に至ったのは、ほんの数週間前のことである。勤務医という仕事柄、忙しく過ごす村雨と会えた日は数えるほど。つまりいまだ完全にまっさらの清い仲だが、獅子神は浮かれに浮かれていた。
     だって相手はあの村雨礼二である。浮かれない方がおかしい。
     しかし何かがおかしいと気づいたのは、告白の直後である。雑用係たちが近くにアパートを借りた。ついては勤務形態を日勤に変えてほしいと言い出したのだ。元からたいして仕事もないからと了承したが、根が寂しがり屋の獅子神は、二人からの突然の申し出に大層驚いた。  
     その上、「いやあ、僕らが住み込みのままじゃ、村雨さんに悪いですし」と頭を下げられ、さらに驚いた。
     勘の良すぎる現役ギャンブラー相手では、何を隠したところで無駄だ。元より暴かれる覚悟は決めていた。
     けれども雑用係たちにまでばれたのは何故だろう。匂わせをした覚えはない。本当はしたくてたまらないけど。慎みある大人の男として、頼りになる雇用主として、完全に隠しているつもりだったのに。
     以来、各方面から茶化されている気がしてならない。気恥ずかしさと居心地の悪さ。両方が獅子神を交互に襲う毎日だ。今も、こんな風に。
     動揺を押し殺し、どうにか気を取り直す。瓶詰めにしておいた渋皮煮を小皿に盛る。食後すぐに歯を磨かせた子どものそばにいる真経津の分は脇によせると、天堂と村雨の二人分をテーブルへ運ぶ。
    「……はじめて見たぞ」
     眼鏡越しに向けられるのは、またも非難がましい瞳。お子様か、オメーは。
    「……はじめて出すからな」
    「ふむ。何事もはじめてというの心踊るものだな」
     意味深な神託は無視を決めこみ、そそくさとキッチンへ戻った。何か作業をしていなければ気持ちが落ち着かない。ティーポットに淹れた紅茶をカップへ注いでいく。
     村雨はまだ何か言いたげではあった。けれども一緒に出したブランデー入り紅茶に気分が上昇したらしい。ようやくデザートフォークを手に持った。黙々と食べる姿を目の端で追う。
     村雨の分だけ。こっそり一つ多く盛りつけておいた。我ながらガキくさいアピールではあったが、浮かれ調子は時にはみ出してしまう。
     気づかないはずのないメッセージ。反応が知りたくて窺っていると、くるり。振り向いたのは意中の男ではなく、隻眼の神父だった。天堂はあわてふためく獅子神に向かって微笑んでみせた。まっすぐに、慈愛に満ちた眼差しで。
    「二度目の賞味だから赦そう。次回はマロンのパウンドケーキを所望する」
    「お、おう、覚えておく」
    「私もいるときに焼くように」
     村雨は他人事のように澄ました表情で、栗を口に運んでいた。天堂も最後のひとつにフォークを刺す。到底敵う相手ではない。獅子神の口から降参のため息が漏れた。
     ふとカウンターに目を落とせば、盛りつけの際に砕けた栗がひとかけら。つまんで口に運んでみる。レシピを見ながらはじめて作ったにしては悪くない。ふるさと納税で届いた栗を煮たのは先月のこと。雑用係たちに手伝ってもらい、大量の皮剥きと格闘した記憶も新しい。これなら正月の栗きんとんも手作りするかなと、取り留めもない考えが頭に浮かんできた。獅子神は甘いものをあまり口にしないが、皆でつつくにはいいだろう。
     予期せぬ出会いから、予期せぬ方向へ舵きりした日常。何だかんだと騒ぎつつも、楽しんでいるのが自分だけでなければいい。
     ひそかに願いながら最後の一口を噛み砕いたとき、ようやく村雨と目が合った。栗はとっくに食べ終え、空っぽの皿を前に、ティーカップを持っていた。湯気のせいで眼鏡のレンズが下半分だけ曇っていて、思わず口の端が上がる。
     あ、ヤバい。何がおかしいんだと不機嫌になるヤツをやっちまった。
     あわてて口元を引き締める。ついでに眉間にも力を入れ、何事もなかったような顔に戻したものの遅かった。村雨の口が開いていく。舌鋒を覚悟して首をすくめる。
     しかし獅子神に向けられたのは、特別な表情。
    「――あなたが作るものは何でも美味しい」
     予期せぬ微笑みに、ぐっと息をのみこんだ。
     ヤバい。
     これは別の意味でヤバいやつ。
     心臓が跳ねた気がして、呼吸がどんどん苦しくなっていく。耳が熱い。カウンターで見えないのをいいことに、エプロンを両手でぎゅっと掴んだ。落ち着け、自分。
    「神にも紅茶を」
     マイペースな神の託宣は救いの手に見えた――少なくとも獅子神の目には、という限定つきで。
     背後では、村雨のティーカップが珍しく無作法な音を立てていた。

    「おーい、そろそろ動画も終わりにしろよ」
    「ママがああ言ってるからね。これでおしまいにしよう」
     こくん、と頭を振るのが見えてしまえば、怒りたくとも怒れない。ため息をつきながらテーブルを片付けていると、軽快なBGMをバックにやさしげな女性のナレーションが聞こえてきた。前回までのあらすじを紹介しているようだ。
    『あっくんはもうすぐ四歳になります』
    「――え?」
     テーブルをふきんで拭く手がぴたりと止まる。グラスをまとめていた村雨も同様に。真経津がソファ越しに何か言いたげな視線を送る。
     遅れて来た天堂だけは何事かわからない様子で見守っていた。
    『新しい新幹線に乗って、おじいちゃんの家に行くのです』
     ぼんやりとした疑いは、決定的なものに変わった。
    「まさか……」
     かちゃり。村雨の手のなかで、グラスが耳障りな音を立てた。しかし構うことなく、眼鏡の奥の瞳はテレビ画面に固定されている。そこに映し出されたのは、先ほど見たばかりの新型新幹線。アニメーションと実写の違いはあるが、特徴は間違えようもない。村雨がグラスを持ち替え、ゆっくりと息を吐き出した。
    「――幼児の発達には個人差が大きい。動画で覚えた言葉を繰り返しただけかもしれないな」
     名前、年齢、交通手段――得たはずの手がかりが空中でばらばらに解けていった。振り出しに戻った予感に、全員の視線が交錯する。
     八方塞がり。
     同時に浮かんだであろう言葉は、言うことなく押さえ込んだ。
     獅子神は片付けの手を止めてソファに歩み寄る。子どもは困惑する大人たちをよそに、いつの間にかうとうとと眠り始めていた。真経津に寄りかかった体をそっとはがし、ソファに横たわらせた。背もたれにかけたブランケットをかぶせる。寝息を立てる体は頼りないぐらいに小さい。毛布にすっぽりと隠れた子どもを眺め、獅子神はこめかみを押さえた。
     身をかがめ、ばれないように、そっと。
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