きみとあなたの我儘な恋心③ 入学式、トラブルからの寮室移動、初めての授業──。たった一日でたくさんのことが起きて、あまりの忙しさに目が回るようでした。
初回の授業は自己紹介や教科のガイダンスでしたが、そもそも大勢の人間と同じ方向に座って学ぶということが生まれてこの方無く、入学式からずっと緊張してそわそわしていたのです。
長時間の拘束からやっと解放されたスレッタは、寮室に入るなり倒れ込むようにベッドに沈みました。おろしたてのシーツは疲れ切った体を優しく包み込みます。
真っ暗な視界に浮かぶのは、休み時間に廊下で見かけたあの同級生でした。制服ではなく紺色の──確かジャージと呼ばれていた──服を羽織って他の生徒と談笑していましたが、話すことはできませんでした。視線が合うとそそくさと外され、スレッタも見ていることしか出来ませんでした。
──逃げたら一つ、進めば二つ。
母の教えを胸に、進むことは踏み出すこと、逃げることは逆の踏み出さないことだと解釈して、スレッタなりに励んできました。ですが、本当はそうではなく、踏み出さないのは見ていることではないか。今、その疑念が頭をもたげています。
逃げることは行動の一つだと、動けなかったあの時エランが手を引いて証明してくれました。ずっと悪いことだと思っていたのに、あの時逃げていなかったらどうなっていたかわかりません。
逃げること、進むこと。村の外の社会で周囲とどう接していくのか、少しずつ考えていく必要があるようです。
(……私に出来るのかな……)
初日とはいえ、今日は一度も進むことが出来ていません。心の中に不安が再び重く垂れ込めていきます。恐怖を紛らわそうと枕を抱きかかえた時、がちゃりと入り口が開く音がしました。
目元を拭うと、慌てて立ち上がってエランを出迎えます。
「──お、おかえりなさい!」
おもむろに口に出た言葉のエランの反応は、沈黙でした。目を見開き口を少し開けて、ぽかんとスレッタを凝視しています。
また失敗してしまったのでしょうか。あまりにも長く黙ったままだったので、不安に襲われて俯いてしまいました。足元を見つめながら指を捏ねて、しどろもどろに言い直します。
「え、えと、あの、お、おお邪魔してます……」
「今日からここは君の部屋だから、遠慮する必要はないよ。……言われたのが初めてだっただけ」
好意的な反応ではありませんでしたが、不機嫌になったわけではないようです。安堵と同時に勇気付けられて、もう一歩進もうと一つ大きく息を呑みました。やはりあの匂いが、彼女が帰ってきた時からしているのです。
「あ、あの、エランさん、は、──動物なんですか?」
二つあるうちの奥の机に鞄を置こうとした動きが止まり、スレッタを振り返ります。真っ直ぐ射抜く瞳の奥で、何かが揺らいでいました。
「気付いたんだ」
「は、はい。あの、エランさんはどの動物なんですか?」
「狐」
サマヤ村のあった山にはおらず、逸話や図鑑でしか知りません。スレッタの表情が興味に輝きます。
「詳しくお話を聞かせてください!」
「うん。僕も君のことを聞かせて欲しい。でも荷物はそのままでいいの?」
見回す視線の先では、運び込まれたままのスレッタの荷物が積み重なっています。移動し終えた後慌ただしく授業に参加し、帰ってきてからも悶々としていた為、何も進んでいません。
唸るスレッタを他所に、エランは続けます。
「それに、夕食は18時から。あと2時間あるけど、シャワーはどうする?」
「あ、えっと……荷物、整理したいので……食べてからします」
「なら先に入るね」
流れるような動作で上着の裾を掴みましたが、何故か手を離し、何もなかったかのように浴室へと向かいます。
何かあったのでしょうか。首を傾げても答えが出るはずもなく、それよりも早く終わらせなければとスレッタの頭の中は片付けのことでいっぱいになっていきました。
心底、すっかり、エランは忘れていたのです。──自分は男だということを。
シャワーを浴びて髪と体を洗っていても、先程の動揺はまだ落ち着きません。
人間の姿になってから女性の格好しかしておらず、誰とも親しくならず、学園内でも自然体に過ごしていた為頭から消えていました。
何も考えず、危うくスレッタの前で脱いでしまうところでした。そうなれば変質者として突き出され、お縄にかかってしまいます。いくら興味がないとはいえ、それぐらいの常識は身についていました。
深く考えないまま同室を提案したのは失敗したかという懸念も浮かびましたが、大丈夫だろうと首を横に振ります。要はバレなければいい、バレたらその時考えようと、エランは気楽に構えていました。
それだけ彼女からどんな話が聞けるだろうと浮かれていたのもありました。村以外の同類を見つけたのも誰かとの交流で興味という感情が湧いたのも、スレッタが初めてだったのです。
せっせと荷物整理に励んでいたスレッタは、箱の中から出てきた歯ブラシセットに顔を綻ばせました。カタログとにらめっこして選んだ、デフォルメの可愛らしい狸がプリントされたものです。故郷を思い出して寂しくないだろうというのが決め手でしたが、実際に見ると心が温かくなります。
エランがシャワーを浴びていますが、洗面所は浴室と扉一枚隔てているので、手早く置いて退出すれば問題ないはずです。
「し、失礼しまーす……」
中を確認してから身を滑り込ませ、棚に歯ブラシセットを置きます。
青の歯ブラシセットの横に自分のものが並ぶのを見ると、微笑ましい気持ちになりました。やっと人心地がついたようで、硬直していた心が緩む心地よさを覚えていたその時、ガチャリと取っ手を掴む音が聞こえました。
すみません、と慌てて謝りながら身を翻した視界に、あり得ないものが映りました。思わず振り返った視線の先に佇む、躊躇いなく開いた扉の先の人物に、あんぐりと口が開いてしまいます。相手もまた、スレッタの存在に驚いて目を見張っています。
目尻のつり上がったイエローグリーンの瞳は、間違いなくエランのものです。ですが長かったオリーブ色の美しい髪は見る影もありません。横髪は多少残っているものの後頭部は短くなっており、何よりあるはずのものがないのです。
実際に見るのは初めてですが、漫画で知っています。女性特有の乳房はなく真っ平らで、どう見ても、紛れもない──
「お、おおお、おおおおとこ──」
「僕はこれで」
先に動いたのはエランでした。下着は幸いにも穿いていた為、かけてあったズボンをひったくって履くと彼女の横を抜けて部屋へと向かいます。スレッタは慌てて後を追い、窓から逃げようとするエランの腕を掴みました。
「ど、どうして逃げるんですか!?」
僅かに顔を向け、鬱陶しそうに睨み付けます。
「女性しかいることが許されない場所に女装した男がいたらどう思う?」
「……変質者?」
「分かってるじゃないか。悪いけど、僕のことはもう構わないで──うっ」
隙を突いて外へ乗り出そうとしましたが、動けません。それどころか腕に食い込む指の力が増して、呻きが漏れました。
「待って、待ってください! せめて話だけでも──」
スレッタは必死でした。
折角仲良くできると思ったのに。動物である自分を隠さず、故郷の話も気兼ねなくできると思ったのに。こんな別れ方は認めたくありません。
「こんなところで捕まるなんてごめんだ。放っておいてくれ!」
「わたし、通報するなんて、言ってません──!」
すったもんだの挙句、エランが窓のサッシに滑って体勢を崩した隙に室内に引っ張ることで、スレッタの勝利と相成りました。
さすがのエランも体力を消耗したのか、ぐったりと壁に背中を預け、疲れた様子を隠そうとしません。声にも力が入っていませんでした。
「……僕が言えた義理じゃないけど、通報したほうがいいと思うよ。自分の身は守ったほうがいい」
「エランさんだから大丈夫、です」
「そういう問題じゃないだろ……」
深い溜息と共に吐き出された言葉は、スレッタの耳に届きません。今一番重要なのはやっと話ができる状況になったことです。聞きたいことが山程あるのですから。
スレッタはエランに向かって座ったまま上半身を乗り出しました。
「何か事情があるんですよね?」
「……君には関係ない」
ぷい、と逸らされた顔から窺える壁の高さは、ちょっとやそっとじゃ崩せそうにありません。
「大体、黙っているメリットが分からない」
「それは、その……」
仲良くなりたいから。
とはっきり口に出して言える勇気は出ません。でもメリットと言われても、何も思い浮かばないのも事実です。
もごもごとこねくり回した結果、要求すればいいと思い至りました。
「と、友達になってください!」
意を決した一言の反応は、先程の取り付く島もないものでなかったのは幸いでしたが、狐疑するように眉根を顰めるものでした。
「そういうのは取引材料に使わないほうがいいと思うけど」
「えっ」
「裏切られても文句が言えなくなる。本当に大事なものは取引のテーブルに出さないほうがいい」
ばっさり斬り捨てられて、あえなく撃沈。これも駄目でした。がくりと肩を落としながら、スレッタは考えます。
エランと仲良くなりたい。これは本心です。なら何をして欲しいのか。
(……あ)
ふと、先程の会話が頭をよぎります。一番して欲しかったことは、少し考えればすぐ思い浮かぶものでした。
「──エランさんの、故郷のお話をしてください」
言われた方も思い出したようで、目を少しずつ見開いていきます。
「故郷の場所や、一緒に暮らしてたみなさん、どんなことでも。私もお話しますから!」
ありったけの思いを込めて伝えた言葉に、ぽそりと小さな声が届きました。
「……それでいいの?」
「これがいいです! それに、さっき約束したじゃないですか。楽しみにしてたのに忘れるなんて、酷いです」
ふくれっ面でむくれると、意外だったようできょとんと目を丸くしました。先程の壁の高さはどこへやら、和らいだ目元は申し訳なさそうに伏せられます。
「そうだったね……ごめん」
「い、いてくれるんですか! もうどこにも行かないですか!?」
勢い余って体ごと距離を詰めて覗き込みましたが、イエローグリーンの瞳は静かに真っ直ぐ見返します。
「うん。でも君も話したら、僕ばかりが得してしまうよ」
「え、えっとそれは……私も喋りたいので……」
急に不安になって、そわそわしてきました。また駄目なことをしてしまったでしょうか。指を捏ねながらおずおずと尋ねます。
「いや、ですか?」
「いやじゃない。うれしいよ」
窓から風が吹き込んで、二人を撫でるように駆け抜けていきます。
オリーブ色の髪をふわりと揺らして、目元を和らげて微笑む穏やかな顔から、視線を動かすことが出来ませんでした。意識して息を吸わなければ、呼吸すら忘れるほどに。
(お母さん。私、前に進めたよ)
今度こそ落ち着いたという安堵感と小さな達成感がこみ上げてきて、顔が綻んでいきます。疲労は確かにありますが、それ以上にとてもとても嬉しいものでした。
こうして、スレッタとエランの共同生活が始まったのです。