窓の外は星の海 温かい湯船に浸かってついうとうとしていた。はっと気が付くと、細い指が私のもつれた長い髪を洗っていた。
「うーん全然泡立たない。でもドラドラちゃん負けない! あ、お目覚めですか? いったんすすぐので、ちょっと浴槽の縁に頭をもたれさせてください。」
「いや何してるんですか!? 触らないでください! 汚いですよ!?」
「だから洗ってるんでしょうが! 洗えば綺麗になるんですよ! ほら、こっちに寄りかかって!」
有無を言わさずに仰向いた状態で浴槽の縁に首を預けさせられる。彼は謎の容器から謎の粘液を手に出すと、私の髪になすりつけた。
「この文字は覚えておいてください。これはシャンプー、髪用の石鹸ですね。ちょっと今は汚れがひどいので何度か繰り返しますが、一度綺麗にしておけば普段は一二回使えば大丈夫です。あ、泡立ってきた。」
あの頃はお湯も石鹸も貴重品でしたから、洗髪の頻度は週一でも多いくらいだったはずでしょうが、今のこの国では何なら毎日やっちゃっていいんで。使えるもんはどしどし使っちゃってください。そのためにホテル代出してんですから。清潔だと気分もよくなるでしょう? あとこちらはコンディショナーといって、シャンプーで洗髪した後に使うケア用品です。馴染ませて、しばらく時間を置いてから、お湯ですすいで洗い流してください。
「剛毛だからモジャモジャなのかと思ってたんですが、ちゃんとお手入れすると案外柔らかいですねえ。今度櫛を買ってきましょう。長い髪もなかなかお似合いですので、切るかどうかはいったん保留としますか。ただ、髭だけは剃らせていただきますよ。」
あなたが過ごしてきた受難の日々を表しているかのようで、どうしても見ていられないのです。
彼は石鹸を取って、手の上で泡立てると私の顔の下半分を覆う長い髭にもこすりつけ始めた。すっかり泡だらけになった私の前で、鋭く光る剃刀を開く。
「刃物を使わせていただきますが、信じてください。私は決してあなたを傷つけない。」
彼の手で、ずっと重たかった私の顔が軽くなっていく。剃刀の刃が肌をなぞる感触はこそばゆくはあったが、痛みなど一切感じなかった。
煩わしかった髭が綺麗に剃り落とされた私の顔を、彼は両手で挟み込んだ。
「ああ、やっぱり。懐かしい顔だ。私のことがわかりますか? 屋敷を訪れたあなたに、私はクッキーと紅茶を差し出した。あなたは口にしてくれた。あなた、いくら何でも警戒心がなさすぎますよ。悪魔の仔の手作りだったのに。」
よく食べられましたねえ。まあ、私は嬉しかったですけどね。そう言って、彼は今にも泣き出しそうな顔で微笑んだ。
「そういえばお名前を聞いていませんでした。教えていただけますか?」
「……私はクラージィ、クラージィと言います。」
「黒い杭」という過去の二つ名を、彼の前で口にすることはどうしてもできなかった。
結局私は、どれだけ遠慮しようと一切聞き入れてくれない彼に押し切られて、髪どころか体中を丁寧に洗われてしまった。全身が温かくて清々しく、だらしなく伸びて煩わしいだけだった髭も綺麗さっぱりなくなって、かつてないほどに快い。おまけに新品だろう厚地のローブまで着せかけられて、間を空けて二台並んでいる寝台のひとつに導かれる。
「大丈夫です。眠ってください。あいにくと変態の巣窟ではあるものの、ここにはあなたの身を生命の危機にまで晒す者はおりません……多分。うん、まあ多分死にはしません。温めてあげます。飢えさせたりしません。傷つけさせません。誰にも、決して。この血に誓って。」
清潔でふかふかの寝具に包まれると、問答無用で眠気が押し寄せてくる。私はお礼もそこそこに目を閉じてしまった。角のような髪型の少年にもてなされ、お茶と焼き菓子を頂戴する夢を見た。優しくて暖かい夢だった。