やっと猫カフェナンパに辿り着いたノスクラ。 しかしその機会は案外早く訪れた。仕事先の猫カフェのバックヤードで休憩中の猫たちにごはんをあげたり、ブラッシングをしたりとあれこれお世話してから、一匹の猫を抱かえてフロアに戻ったら、なんとそこにノースディンがいたのだ。腕に抱いているのが猫でなかったら落としてしまっていたところだった。
「ノースディン!? 何故ここにいるんだ!」
「なんだこの店は。接客がなっていないな。私は客だぞ。」
驚きすぎて思わず声を上げてしまった私に、ノースディンは澄ました顔で言い放ったが、その直後、私に軽く頭を下げた。
「いや、今の言い方はよくないな。悪かった。」
私は自分の耳が信じられなかった。あのノースディンが、私に謝罪をしたのだ。
そして自分の目も信じられなかった。私が勤めているのは保護猫カフェで、どの子も雑種ばかりだ。他の猫カフェにも連れて行ってもらったことがあるが、そちらは血統書つきで毛並みの豊かな美しい猫がほとんどで、初対面の高級な猫は私には恐れ多かった。吉田さんの猫もふかふかなのだが、馴染みのある子で私に懐いてくれているから存分に撫で回させてもらえる。正直言って、よそのカフェの気品が漂う綺麗すぎる猫よりも、毛色がまちまちだからこそうちのカフェの子達のほうが身近に感じられて好ましいし、どの子もみんなとても可愛い。
そのごく庶民的な保護猫カフェの一席で、万が一のことがあって猫に怪我させないようにプラスティックで統一された安価なカップを使って、仕立てのいい衣服をまとった選ばれし古き血の美麗な吸血鬼がティーバックの紅茶を飲んでいるのだ。ちなみに猫達には気に入られたようで、ノースディンの回りは猫だかりになっていた。何だこれ? 本当に何なんだこれ? お前、豪奢な屋敷で見目麗しい猫を膝に乗せて寛ぐべきだろう?
「ず、ずいぶんと懐かれたな。」
保護猫は警戒心が強い。初来店でここまで猫が集まるお客はそうそういない。
「私の使い魔が猫だからかな? 私が猫好きなのが伝わって、応えてくれているのだろう。可愛い従業員達だ。言っておくが、チャームは使っていないぞ。」
「大丈夫だ。それは疑っていない。」
私も猫が好きな吸血鬼だが、保護猫カフェに来てチャームの能力を使ってまで猫をはべらせたがる古き血の吸血鬼がいたらさすがにどうかと思う。
それはそうとして、どうしてノースディンがこのカフェに来店しているんだ? 私に会いに来たのか? まさか、その発想はうぬぼれというものだろう。しかし彼が猫と遊びたくて保護猫カフェに来るような男とはとても思えない。
「それにしても、ずいぶんと可愛らしい格好をしているな。」
私はカフェの制服である猫の絵が描かれたエプロンを身につけて、人よりも寒さに弱いためその上から厚手のカーディアンを羽織っていた。ノースディンは彼の膝から降りようとしない猫を撫でながら、私を見上げて笑いかけた。そんな顔もできるのか。
今の私にはノースディンの血が流れているせいもあってか、勤め先の猫をかわいがってくれている彼にどうしても親近感を感じてしまう。彼の笑顔を見るのは初めてだったので尚更だ。うっかり絆されかけたが、どうにか気を強く持とうとした。私と彼は、吸血鬼としての血のつながりはあれど、ただの通りすがりでしかないはずだ。
「からかいに来たのなら帰ってくれないか?」
「まさか。似合っていると言いたかっただけだ。堅苦しいカソックもさまになっていたが、今のお前にはそのほうがいい。」
まるで猫を愛でる時のように、彼は目を細めて微笑んでいた。もう疑う余地がなかった。彼は私に会うためにわざわざこのカフェを訪れたのだ。
仕事中であるにもかかわらず、私は思わず彼の隣に腰を下ろしてしまった。
「私に会いに来てくれたのか? 今日も、このあいだも?」
「当たり前だろう。他に何がある?」
「ドラルクに会いに来て、そのついでに鉢合わせたのかとばかり。」
正直に言うと、ノースディンは深々と溜息をついた。
「いくらシンヨコでもそんな偶然があるものか。」
吉田さんと三木さんと同じことを言われてしまった。
「ところで、何故私の勤め先がわかったんだ?」
「ドラルクが教えてくれた。住まいまでは聞いていないから安心してくれ。」
就業中なのについ話し込んでしまっていた。私の日本語がまだおぼつかないためルーマニア語での会話だったから内容は聞き取れなかっただろうが、とうとう見るに見かねたのか、同僚の若い女性が寄ってきてノースディンに何やら声をかけた。
「ちょっとお客さん、店員をナンパするのはやめてくれません? うちそういうお店じゃないんでー。クラさん人気あるから気持ちはわかりますけどー。」
「わざわざ猫カフェまで来て男をナンパなどするか! 彼は私の古い知り合いだ! 少しくらい話をさせろ!」
チャームの能力を持ち、女性には甘い態度を貫くはずのノースディンがこんなふうに言い返すとは珍しいことなのではないだろうか。しかしナンパとは何だろう? まだ私が知らない日本語だ。何にせよ就業中に私語はいけない。スミマセンデシタ、と同僚に詫びてから仕事に戻ろうとする私をノースディンが呼び止めた。
「まったく。ところで退勤時刻は何時だ?」
「え、一時だが……。」
ノースディンは壁の掛け時計を見遣った。まだ夜の十時を過ぎたばかりだった。
「そのあとの予定は? 他に都合があるならもちろん優先してくれてかまわない。出直そう。」
「帰るだけだ。」
「ふむ、なら二時間延長で頼む。」
ノースディンは私の同僚に日本語でそう告げた。同僚は驚いた。
「三時間コース!?」
業務に関係する言葉は積極的に覚えようとしているのでそのあたりのやりとりは理解できた。彼女は「クラさんの仕事上がり待ちって、やっぱりナンパじゃないですかー!」と、臆病な猫達を驚かせない程度の声量で喚いていた。だからナンパって何なんだ? 帰ったら吉田さんか三木さんに教えてもらおう。
「三時間はさすがに長くないか? いくら猫好きと言えど。」
私もノースディンに訴えたが、彼は紅茶のお代わりを注文した。
「三時間くらいかまわんよ。二百年と比べれば一瞬だ。」
その吸血鬼はあなたを二百年待っていたんじゃないですか?と吉田さんと三木さんは言った。本当に彼は、私が目覚めるのを二百年ものあいだ待っていたというのか?
カフェの猫達はみんな可愛いし私に懐いてくれてもいるし、店の方針上、当然お客さんも猫好きのいい人達しかいないので和やかだし、普段なら仕事はとても楽しくて充実しているのだが、それからの三時間は針のむしろとまでは言わないものの、どうにもいたたまれなかった。なんせ氷笑卿ノースディンが安いカップで安い紅茶を妙に優雅に傾けながら居座っているのだ。同僚にも「あの人クラさんの何なんですか?」「家までついてくる気では? ストーカーですよ!」「吸血鬼ですよね? 吸対呼びます?」と心配そうな顔で時折囁きかけてくる。ストーカーという単語の意味を私はまだ知らない。
「カレハワタシノナニナノデスカ……アマリワカリマセン……」
あやふやに答えると、女性同僚から「シフトが合えばせめて家まで送れたんですが……お友達、呼んだほうがいいのでは?」と本気で心配されてしまった。いや、まさかノースディンが私ごときに妙な真似をするとは思えない。むしろチャームを使える彼に、同僚の若くて愛らしい彼女と関わらせるほうがよっぽど不安だ。
とはいえ、私の勤め先の、決して見た目が優れているとは言いづらい雑種の保護猫達に懐かれてすり寄られたり膝の上で寝られたりしても、いやがるどころか丁寧に撫で返して優しくしているノースディンの姿は、好ましいものだった。使い魔は猫だとノースディンは言った。その子もきっと丹念に愛されて、主人のもとで幸せな日々を送っている。さぞ綺麗な子だろうと思うと、せめて写真だけでも見せてほしくなってしまう。
このカフェは夜を生きる吸血鬼に合わせて閉店が深夜四時だ。猫カフェとしては異例だが、正式な許可は取っている。もちろん寝てしまった猫達はもうフロアに出さないけれども、吸血鬼の多いこの町の空気に当てられたのか、夜更かしで元気な子が数匹いるので、深夜でも通ってくる常連客は多い。若い女性ながらも同僚は、徒歩数分の距離に住んでいるからと言って、明け方近い閉店作業までこなしてから帰宅する昼夜逆転生活を送っていた。
「いざとなったら吸対呼ぶかギルドに駆け込んでくださいね! いくら美形のイケオジでも、クラさんの上がりにもろ合わせて三時間コースはヤバイですよ! 絶対外で待ってますってば!」
まだ仕事に慣れなくて深夜一時で上がる私を彼女は相変わらず心配してくれていたが、眠っていた二百年を差し引いても彼女よりも年上の成人男性で、かつ元悪魔祓いだった私が、まだ二十代前半のうら若い女性に甘えられるわけがない。私はこう答えた。
「カレハタブン、ワルイ、チガウ。ダイジョウブデス。デハ。」
終業時刻を迎え、更衣室で服を着替えてカフェを出ると、彼女の言ったとおりノースディンが立っていた。
「……少し、いいか?」
彼は私を待っていた。私も彼を待っていた。ああ、と私は答えた。