【るろ剣】だいきらいなひと【夢】 人は私を小町と呼ぶ。もちろん本名ではないのだけど、いつの間にか定着してしまった。親しみが込められた呼び名だし、嫌なわけではなかったからそのままにしている。
どうして小町なのか。理由は単純。私が蕎麦処で働く小町娘だから。ただ真面目に働いているだけなのに、蕎麦小町なんて呼ばれるようになっていた。率直すぎて素直に喜べないけれど、町に溶け込めているならそれでいい。
「はい、天ざる二ツ、お待ちどおさま」
「ありがとうねェ、小町ちゃん」
私が働く蕎麦処は小さな店で、寡黙な店主、店員も私ともう一人だけだ。もう一人の店員である静さんは初産を控えていて、いまはお休みを取ってもらっている。なのでいまは実質二人でこの店を切り盛りしていた。幸いというかここは大通りではないし、お客さんも気心の知れた常連さんばかりなのでなんとかやれている。私が蕎麦小町ともてはやされた頃はご新規さんもたくさんいたけど、何度も繰り返し通ってくれるのは親父さんの蕎麦にこそ惚れた人だけなのだ。
「あら、海老が二ツも」
天ざるを頼んだのは近所に住む老夫婦で、月に数度訪れる。頼むお蕎麦は時々で違うけど、絶対海老の天ぷらは欠かさない。天ざるに付く海老は普通なら一人前につき一尾なのだけど、今日は特別。
「おまけです。ご主人がこないだ還暦を迎えられたから、親父さんからのお祝いです」
こっそりささやくと、親父さんと同じく寡黙なご主人が破顔した。よかったですねぇと微笑む奥さんがご主人のお皿に海老を一尾移すのを見ながら、私はごゆっくりと声をかけた。
いつもより穏やかに昼時が過ぎて、最後のお客さんを見送る。しばらくは誰も来ないだろう。
「いまのうちに昼を食っておけ」
親父さんに言われ、急に空腹を自覚する。店員が二人なので、お昼は親父さんが蕎麦を作ってくれるのだ。とても助かる。きつね一択ねと口を開こうとしたとき、引き戸の開く音がした。お客さんだ。
「いらっしゃいま……せ」
笑顔が崩れたのを自覚する。修行が足りないけど、仕方ない。
「こんにちは。かけ蕎麦一ツお願いできますか?」
寒々しい笑顔を浮かべた男。手にはサーベルではなく日本刀。ここ数ヶ月ですっかり常連客となったこの警官が、私は嫌いなのだ。
「……親父さん、かけ蕎麦一ツ入ります」
すっと視線を逸らして親父さんに注文を入れる。でもこのとき、はしたなくも私のお腹が鳴った。それはもうびっくりするくらい盛大に。
「ああ、もしかしてお昼がまだでしたか? それは申し訳ないときに来てしまいました」
「……お恥ずかしいところを」
羞恥で火が吹き出しそうな顔をなんとか上げると、警官はにこにこと笑ったままだ。ああ、嫌な顔。
「でしたら、小町さんもご一緒しませんか。親父さんが構わなければ」
「え、いやそれは」
「構わないぞ。ご一緒させてもらいなさい」
この人と食事なんて。断ろうと思ったのに親父さんから許可が出てしまった。私は観念するしかない。
「…………親父さん、きつねを」
お揚げが食べたかった。
親父さんが作ってくれたかけ蕎麦ときつね蕎麦を店の一番奥の座席へ運ぶ。真正面から向かい合う。
「ああ、いつ嗅いでもいい匂いですね」
ずるる、と蕎麦をすする警官の笑みは崩れることがない。向かい合って食事をしているのに無言というのは居心地が悪かった。だから当たり障りのない話題を音にする。
「……藤田、さんは、かけ蕎麦がお好きですね」
この人が初めて店に来た日のことはよく覚えている。まだ静さんも店に出ていて、店内も常連さんでいっぱいの昼時。入店するなり制帽を取ってこの人は笑った。
「この度この街の配属となった藤田と申します。いい匂いがしたものですから」
静さんが対応した。私がそれどころではなくて。蕎麦湯の湯呑みをお盆ごと落としてしまったから。
その日から、この人は頻繁にかけ蕎麦を食べに来るようになった。
「ええ、一等好きなものですから」
藤田さんは私の器を見た。
「そういう小町さんはきつねがお好きなんですか?」
「……はい。お揚げが好きなので」
「本官のことはお嫌いですか」
ひゅ、と息を呑む。
藤田さんは笑ったままだ。まるで食べ物に好き嫌いはあるかと聞くようにとんでもないことを聞いてきた人を見つめる。
……そりゃあばれちゃうか。私はこの人の前でうまく笑えない。ましてこの人は警官で、人の顔色を読むことに長けている。
だから私は正直に答えた。
「はい、嫌いです」
「私は小町さんに何かしましたか」
嫌いと正面から言われても気にしたふうもなく笑みを絶やさないこの人が、私は嫌いなのだ。
「だってあなた、本当はそんな気味の悪い笑い方をする人じゃないでしょう」
いつでもにこにこ、あなたの街のおまわりさんですと言わんばかりのお愛想笑い。「藤田さん」はそう笑うのかもしれなくても、──「斎藤一」はそんなふうに笑わないことを私は知っている。
だから私はあなたが嫌いなの。
翌日はお店がお休みで、私は買い物に出かけた。とくに欲しいものがあったわけではないけど、小間物を眺めるだけというのも楽しい。欲しいと思うものに出会ったら買おうか。
馴染みの店を何軒か廻っていた私を弾んだ声が呼びとめる。
「あら、小町ちゃんじゃない!」
「薫ちゃん!」
蕎麦小町と並んで剣術小町と呼ばれる神谷道場の薫ちゃん。ご両親が亡くなったいまは女だてらに一人で道場を切り盛りする師範代。年齢も私と一つしか違わないのにすごい。尊敬する。
私にはあまり友人がいないけれど、薫ちゃんは数少ない私の友人だ。神谷活心流を名乗る「人斬り抜刀祭」が街を騒がせていたあの頃、何もしてあげられなかったことがいまでも申し訳ない。その騒ぎが収束してすぐあの人が私の前に現れたからいまのいままで顔を合わせる余裕が私になくて、手紙だけのやりとりだった。
「薫、誰だこの人」
薫ちゃんの横にいた男の子が私を見る。ツンツン頭の小生意気そうなまなざしの男の子と、彼を挟んで薫ちゃんの隣に立つ赤い髪に十字の刀傷を持つやわらかい雰囲気の男の人。私は二人に心当たりがあった。
「もしかして、あなたたちが『弥彦』くんに『剣心』さん?」
薫ちゃんからの手紙に書いてあった名前と特徴を照らし合わせると外れていなかったようで、弥彦くんも剣心さんも互いの顔を見合わせた。
「彼女は私の友人よ。私と並んで巷じゃ蕎麦小町なんて呼ばれてるんだから」
「蕎麦小町?」
「蕎麦処で働いているので」
剣心さんが不思議そうな顔をしたのでそっくりそのまま説明する。
「へぇー、薫よかよっぽど小町娘って感じじゃねぇか。うん、可愛い。薫とは月とすっぽんくらいの差がある」
「ちょっと弥彦、なんですってぇ⁉︎」
ぎゃんぎゃんと言い合いを始めた二人はまるで本当の姉弟みたいで、お父さんを亡くした頃の薫ちゃんを知っている身としてよかった、と思う。薫ちゃんが元気になったのは、二人の喧嘩を優しい目で見守るこの剣客さんの力も大きそうだけれど。
「申し訳ないでござるなぁ。ああなると二人とも、一通り終わるまで収まらないもので」
私の視線に気づいた剣心さんが頬をかく。その頬に刻まれた十字傷に目線が吸い寄せられた。遠い昔に聞いた、赤い髪、頬に十字の刀傷を持つ剣客の話。
薫ちゃんと弥彦くんの口喧嘩を聞きながら、剣心さんが口を開く。
「……会津からはいつ?」
この人は長州派の維新志士だったと聞く。もう東京に出て十年近くになるけれど、私に残る会津の言葉がわかる人にはわかるんだろうか。
「……九つのときに。父が藩士でしたので、母が私を子のない商家へ養女に出したんです。戦に敗れた者に世は厳しいですから、会津藩士の子でいるよりもと……父は斗南へ赴いたので、私を厳しい土地に連れていきたくなかったのだと思います」
養女に出されたときはずいぶんと両親を恨んだ。私の気持ちはどうなるの、と。父と母と一緒にいたかった、父と母と一緒ならどんな苦境でも耐えられると思った私の気持ちは。それも過去のことで、いまは穏やかな毎日を与えてくれたことに感謝している。あの状況下で会津藩士の娘を養女に出すのも並々ならぬことだったろう。養女に出されたからといって、親子の繋がりが切れることはない。
「強いご両親でござるな」
「ええ。おかげでいま、私は幸せに生きています」
下手な慰めなど口にしないことに剣心さんの優しさを感じて、私は笑った。なるほど、薫ちゃんが好きになるのも頷ける。
剣心さんと笑い合っていたら、薫ちゃんと弥彦くんの口喧嘩は終わりを告げていて、私たちを見る薫ちゃんは涙目だった。
「やっぱり剣心も男だな」
「弥彦ッ!」
うんうんと弥彦くんが一人で納得している。薫ちゃんの拳骨を食らう。
ああなるほど、私と剣心さんが二人で話していたのが面白くないのね。薫ちゃんの可愛いところだ。
「弥彦、拙者は馬に蹴られるつもりはないでござるよ」
剣心さんがそんなことを言ったので、私は首を傾げた。この場合、馬に蹴られるのは私なのでは?
「薫殿、今日は味噌の特売があるのでござろう? そろそろ行ったほうがよいのでは?」
「あッ、そうだったわね、いっけない! ごめんね小町ちゃん、今度ゆっくりお茶でもしましょう!」
味噌と聞いて勢い込んだ薫ちゃんに苦笑して、私は頷く。
「ほら弥彦行くわよ!」
「いって! 引っ張るなよ!」
弥彦くんを引っ張りながら歩き出す薫ちゃんを剣心さんも追いかけようとして、私を振り返った。
「拙者は馬に蹴られる気はないでござるし、狼に喉笛に噛みつかれるのもごめんでござる」
私だけに見える高さで剣心さんが指を差す。指先を視線で辿った私が、あっちに何があるのか聞こうと首を戻したときにはもう剣心さんはいなかった。
「……狼?」
訝りながら、もう一度剣心さんが指差した方角を見やる。見慣れた街並みしかないけれど。
目を凝らした私はここ数ヶ月で見慣れた色を曲がり角に発見した。天啓のように答えを得る。
狼。──壬生狼!
走り出していた。
見慣れた制服の色。職務中なら不自然な速度で相手も動けないはず。私の足でも追いつける。
「待って!」
角を曲がると、予想に反してその人は立っていた。勢い余ってつんのめる私を彼の手が支える。
「これは小町さん、そんなに慌ててどうされました?」
何食わぬ顔をして、私の嫌いな笑い方をする。私は支えられた手を振り払った。
「……言ったでしょう、私はあなたが嫌いだと。あなたのその、うわべだけの笑顔が嫌いなの!」
昨日、真っ正面から嫌いだと言ったせいだろうか。蓄積していたものが溢れてくる。止められない。
「どうして私の前に現れたの? やっと私は私の、いまの日常を過ごしているのに」
わかっている。こんなのはただの八つ当たり。この人が私の住む街に配属されたのはただの偶然。私が蕎麦処で働いているのもこの人が蕎麦好きなのも偶然でしかないと、わかっているけど。
それでも、言わずにはいられなかった。
どんなにありふれたものに感じても、日常とは水沫のごとく消えてしまうものだと知っている。穏やかに朝を迎え、家族と過ごし、変わらぬ明日を信じて眠りに就く。それがどれだけ尊く得難いものか。
慶応の終わり、明治を迎えた年、会津戦争が七つの私に教えた。
美しい鶴ヶ城。そこで私は新選組に出会った。
父がお城でお役を得ていた。母も奥で職を得ていた。その縁で私は新政府軍が若松城下に攻め入る以前からお城に上がらせていただいていて、新選組とも早々に顔を合わせた。本来なら七つの小娘がそう簡単に新選組と接触できたわけもないけれど、当時の私はとにかくお転婆で城内の立ち入れるところはうろちょろしていたのだ。
知らない人たちが来た、と思った私は彼らをよく見ようとまぁ高いところへ登って、そして落ちたのだ。つるりと足を滑らせて。
「……なんだこの小娘は」
その私を図らずも助けてくれたのが斎藤一だった。ものすごく嫌そうな顔で、私を猫の仔みたいにぶら下げて。
その一瞬で恋にも落ちていた。
無愛想で人が射殺せそうな眼光を持っていて、女の子たちは近寄りたがらなかったけれど、私は隙あらば近寄っていっては「邪魔だ」と摘み出されていた。強いていうなら私と斎藤さんはそれだけの関係だったのだけど、最後に会った日の思い出が私の心をこの人に繋ぎ止めた。
夜だった。なんだか寝付けなくて寝床を抜け出した。幼い私は戦況を理解していたわけではなかったけれど、不用意に城内をうろつくと母を不安にさせることは理解できたからおとなしくしていて、身体を動かし足りなかったのだろう。月が丸く、やけに明るい夜で、少し動き回るのに支障はなかった。
月光を弾く抜き身の刀を持った斎藤さんが立っていた。
それだけの光景を十年以上経ったいまでもはっきりと覚えている。
それはきっと、斎藤さんが着ていた浅葱色のだんだら模様の羽織のせいだ。新選組は洋装だったから、初めて見る羽織に興味を抱いてただ斎藤さんを見ていた。小娘の視線に気づかない人ではなく、刀を納めながら大きなため息を吐かれた。
「ガキはとっくに寝る時間だぞ」
「眠れないのです」
じいっと羽織から目を離さない私がてこでも動かないだろうことを察したようで、斎藤さんは袂がよく見えるように腕を上げた。
「新選組の誇りを形にしたものだ。なくなったところで新選組も俺の誇りも損なわれることはないが、こいつを着て倒したかった男が一人いた」
語る斎藤さんの瞳は会津にはないように見えた。新選組は京で戦ったと聞いていた。京を見ているのだろうか。
「いまは無理だが──いずれ必ず決着はつける」
獰猛な微笑みに普通なら竦み上がるだろうに、私は初めて見た斎藤さんの笑顔に目を奪われた。
それで──それで私は手を伸ばして、浅葱色のだんだら模様を引っ張って。
「大きくなったら、私をお嫁さんにしてくださいませんか」
そう──言ったのだ。
真剣だった。大真面目だったけれど、なんて馬鹿なことを言ったのだろうともいまは思う。いつ城下も戦火に呑まれるかもしれない状況下で、会津のために戦ってくれる人に、状況を理解していない子どもがとんちんかんなことを言ったのだ。
けれども斎藤さんはそんな子どもの頭を撫でる──というには乱暴な手つきで掻き回し、
「そんな台詞はせめてあと十年経ってから言え」
と、楽しげに笑った。とても貴重なものを見たような心地で、私は拳を握った。
「だったら、十年待っていてくださいませ。お料理もお裁縫もお掃除もうんと頑張って、立派なお嫁さんになります!」
私は変わらぬ明日を信じていて、それが最後になるとは思わず斎藤さんの答えを聞かずに駆け戻った。だっていっぱい寝ないと大きくなれないもの。そう思って。
変わらぬ明日などないのに。
会津は負けて、苦しい二年を過ごし、両親は斗南への移住を決めた。私も一緒に行くのだと思っていたのに、そこで養女の話を聞かされた。たくさん泣いて怒って、しばらく両親を恨むことでいっぱいで、両親の想いを理解できるようになってからは日常を築くことでいっぱいだった。
幼い頃の初恋なんてもはや過去のものだと、思って、いた。
警官藤田五郎としてこの人が目の前に現れるまで。
会津で一時まとわりついていただけの小娘など覚えていないとわかっている。それでもそんな貼り付けた笑顔を見せないでほしかった。あの獰猛な笑顔を知っている。形をなくしても誇りは損なわれないと言った、あの言葉は嘘だったの。
人は変わるものだと知っているけれど。
私の心をつかんだまま離さないあなたはどこへ行ったの。
これ以上何か言ってしまえば泣いてしまいそうで、私は唇を噛みしめる。
「あの蕎麦処を見つけたのは本当に偶然だったが──十年待ってくれと言われたからな」
頭上から降ってきた声に顔を上げたのは反射だった。
いま、なんて。
視線の先にいたのは私の嫌いな笑顔を貼り付けた男ではなかった。少しもあの頃と変わらない鋭さを宿したまなざしが私を見ている。
「立派なお嫁さんになってくれるんだろう?」
ニヤリと底意地悪そうに笑うのを見て、私は愕然とした。
「お、覚えて……?」
「いつ気づくかと思ってな」
嫌いな藤田五郎の面影などもはやない。私の前にいるのは──斎藤一だった。
「正直この街に来るまでお前を覚えていたわけではなかったが」
いつぞや士族崩れを叱り飛ばしているところを見て思い出した。
言われて目を瞬いた。
まだこの人が蕎麦処に現れる前、街で酒に酔って周囲の人間に絡んでいる男たちがいた。身なりや言葉使いから彼らが維新前は武士だったろうことはすぐわかった。明治の世を忌々しく思っていることも。それでつい、手も口も出してしまった。
「誇りを持ちなさい!」
彼らの頬を張り、叫んでいた。
「明治を築いたのは維新志士だけではないのよ! 『敗者』という幕府側の人間もいてこそ明治は成り立ったの! あなたたちも命を懸けてこの時代を作り上げたことを誇るべきだわ! お酒に酔って周囲に迷惑をかけることが誇りある人間のすること!?」
逆上される可能性なんて微塵も考えていなかった。幸い彼らが聞き分けてくれたので結果的に事なきを得たけれど、一歩間違えれば私は怪我をしていたかもしれないし、彼らに罪を犯させていたかもしれない。それでも、彼らにもあるはずの誇りを見失わないでほしかった。本当に誇りを貶めことができるのは──自分だけなのだから。
あのやりとりを見ていたの?
「俺と同じ考え方をする娘だと思ったらお前だった。──時尾」
時尾。小町という通称ではない、私の本名。会津にいたときは小娘とだけ呼んで、一度として呼んだことがなかった私の名前。
ずるい。
「……だから、うちの蕎麦処に?」
「あそこの蕎麦がうまかったのもあるが」
しれっと言ってのける人を睨むように見上げる。悔しい。全部この人の手の上だったなんて。
ふと、剣心さんの言葉を思い出した。
──拙者は馬に蹴られる気はないでござるし、狼に喉笛に噛みつかれるのもごめんでござる
「……そういえば、私と剣心さんが二人で話してるところ、見てました?」
ぽつんと呟く。斎藤さんは答えない。無言こそが肯定だった。
嘘。剣心さんが言っていたのはそういうこと?
あの斎藤一が──やきもち?
そう考えたら急におかしくなって、私は声を上げて笑った。馬鹿みたい。
嫌いだと思って嫌いだと言って、結局は「斎藤一」を忘れられないだけの私も、善良そうな警官を演じながら狼の牙をその身に潜ませるとんだ不良警官も、なんだか笑えて仕方ない。
剣客警官と相対していながら笑い声を上げている私を通りすがりの人たちが不思議そうに見ているけれど、ちっとも気にならなかった。
ひとしきり笑って、笑いすぎてにじんだ涙を拭った私を斎藤さんが見ている。変なものを見る顔で。
「ねえ『藤田』さん、私、あなたのこと嫌いなんです」
藤田さんを前にすると、私はいつもうまく笑えなかった。でもいまなら笑える。この人の中に、決して損なわれず失われない誇りがあると知ったから。
「でも『斎藤』さん、私、あなたのこと好きなんです」
斎藤さんが笑う。試すような笑み。
私はずいぶんタチが悪い男に引っかかってしまったらしい。
大嫌いで、でも大好きなひと。
お料理もお裁縫もお掃除も頑張って、とくにお料理の腕には自信があるんですよ。さすがにお蕎麦は打てないけど、おいしいご飯をたくさん作ってあげます。
だから。
「私をお嫁さんにしてくださいませんか」
【だいきらいなひと】