歳の数だけ同道した仕事の帰り道、夕暮れの街はいつもより少しだけ雰囲気の違う活気に溢れていた。
通り沿いの民家の玄関先には柊の枝先に鰯の頭を刺した魔除け飾りが吊るされ、大気は豆売り露店の香ばしい炒豆の香りに満ちている。
「そうか…今日は節分か、でもいい歳した大人ふたりで“鬼は外、福は内”もないよな…」
なぁ、正雄…と問いかける俺に、そうですね、と返しながらもちょうどすぐ側にあった出店に駆け寄ると、正雄は炒りたてで湯気の立つ豆の詰まった紙袋をひとつ、小脇に抱えて戻って来た。
その顔は、何か悪戯を思いついた子供のようにスン、と澄まして鼻先を突き出し、口角がくっと上がっている。
「福豆、買ってきました!」
「ん?するのか?…豆撒き」
「違いますよ、食べるんです…!ほら、歳の数だけ…ってやつ」
帰りつくなり、上着を剥ぐように脱がされ、ほら座って、とソファに身体を押しつけられる。
自分もコートを脱ぐと、正雄はソファの背面を回り込んで俺の隣に腰かけた。
ふたり並んで座る時の定位置だ。
膝頭が触れるほどの近さで向かい合う。すると正雄は微笑んでこう言った。
「さ、先生、口開けて?」
「え?」
「ほらほら、早く!」
言われるままポカンと口を開くと、ポンと放り込まれたのはさっき正雄が買った福豆だ。
ごりごりと奥歯で噛み砕くと、口の中に炒った苦味と、きな粉のような甘味がほんのりと広がった。
それをコクンと飲み下す。
すると正雄は指先に摘まんだ次の一粒をまた俺の口に投げ込んだ。
しばらくそんなやり取りが続いて今、数十粒目。
何がそんなに嬉しいのか、正雄はちまちまと豆を食う俺の様子をにこにこ顔で見つめている。
その額には露店でオマケに貰ったと言う、愛嬌はあるが少しも恐くない「鬼の面」がちょこんとつけられている。
この豆攻撃は鬼の責め苦のつもりなのだろうか?
「一粒ずつじゃまだるっこしいよ、正雄…何個かまとめて寄越してくれよ」
「駄目ですよ、先生、一個ずつ、ゆっくりと…ね?」
「おいおい、お前、俺が何歳か知ってるだろ?こんなペースで食べてたら、いつまで経っても終わらないぞ?」
口に含んだ豆を頬の内側に舌先で押し当てながら抗議すると、正雄はふん、と小さく鼻息を漏らしたかと思うと、つらつらと反論を始めた。
「先生が…一粒の豆を口に含んで咀嚼してから飲み込むまでを約10秒だとすると、先生の年齢から考えて、およそ600秒超、つまりオレは10分以上、公然と先生の顔を見ていられるワケです」
「…なんだよソレ…俺の顔なんていつだって見られるだろ…?」
ずっと一緒に居るんだから…と、小声で付け足したものの我ながら恥ずかしくなってしまい、俺は目を伏せると、ぷいっと顔を背けた。
「分かってないですね、先生…一方的に見るだけなら、いつもやってるし、普段と変わらないでしょ?でも今は、そうじゃない、オレに見られていることを意識している先生を見る、ってのが良いんですよ!」
「お前はまた…そんなことを言って…!」
うんと年下のくせにこんな風に俺を困らせる。そうだ、仕返ししてやろう!
「ならお前には、俺が食べさせてやるよ、ほら、口を開けなさい!」
「それには及びませんよ、先生!」
ぐい、と肩を掴まれたかと思うと一気に距離を詰められ、とたんに唇が触れ合う。
「んっ…ん…んんん…っは!」
ねじ込まれた正雄の舌は、俺が口内で転がしていた豆を器用に奪い取ってしまった。
無様に口の端から涎を垂らし、呆然として見つめる俺に得意顔を向けて口をもぐもぐと動かす正雄。
俺はまんまと返り討ちにあったわけだ。
「へへ?驚きました?…えっと…俺の歳で言うと…まだ優に20回以上出来ますね?」
ね、先生?
細めた双眸に艶を纏って、この後の展開に期待を籠めたように口を半開きにするこの子は鬼神でもなければ福の神でもない。
この悪戯好きの小悪魔は、しかし俺に福音をもたらす天使でもある。
「夜は、まだこれからですから…」
「…そうだな…」
そして“俺”という凡夫は、その甘美な誘いに簡単に手の平を返してしまう。
春立つ日の前夜。
無邪気な子供たちの「鬼は外、福は内」が表を駆けてゆく。
俺達は信心も畏敬もかなぐり捨て、神にも仏にも背を向けて、互いに互いの欲に溺れる。