ハイラル城備忘録*幻史【医務官の記録】
1:傍にいるべき者
ハイラル城常駐の医務官である私の元に、ゼルダ姫が運び込まれたのは月が頭上高く昇った頃だった。ひどく静かな夜で、遠方に出向いた英傑一行が戻ると聞いていたより、ずっと早い到着に思えた。
「こちらへ。事情を説明して頂けますかな?」
ぐったりとしたゼルダ姫の御身をその胸に抱きかかえ、開け放ったドアの前で肩を上下させていたのは青い顔をしたリンク殿だった。彼の話で何かを飲んだらしいことは分かった。古い文献を探す為、出向いた先での出来事という。その場所の名に悪い予感が頭をよぎった。私は手早くゼルダ姫の状態を確認した。
上気した頬。その割に発熱に至らぬ体温。乱れた息と顔色だけなら通常の感冒と症状は似ているが、やはり何か違う。
「うわごとのよう何度か熱いと。呼吸も荒く苦しげで……」
リンク殿の言葉で私は確信した。本人だけが身体の火照りを感じているのだ。
「奥の部屋を準備しましょう。詳しく検査して見なければ分かりませんが、お話から察するに姫様が飲まれたのは幻覚剤の類いではないかと」
「……俺のせいです。俺が無理矢理にでも同行していれば」
「今は責任を問うている場合ではございません。とにかく人払いを致しましょう」
ゼルダ姫を分厚い石壁に囲まれた高窓しかない部屋へと運び入れた。元々疫病患者を他者と接触させない為の施設だ。ベッドに寝かせると、白い額や首筋には汗が滴っていた。寒いくらいの気候でこの発汗。やはり悪い予感ほど当たる。光を当て瞳の中の虹彩を確認する。狭窄がある。視点も合わない。すでに幻覚を見始めてる可能性が高い。
ゼルダ姫が訪れた場所は以前より、人を拐かす事件が出ていると噂があった。近隣の医者に運び込まれた者はいずれも記憶が朧気で、心身に傷を負っていたという。姫様の耳にも入っていたはずだ。それでも厄災からこのハイラルを護る為に、どうしてもというお気持ちがあったのだろう。生真面目で純粋なのはゼルダ姫の良き点でもあり、従者としては危険因子でもある。一番それを知っているのは目の前の青年。だからこそ、こうして打ちひしがれているのだ。
「今の状況で姫様をお一人にする訳にはいきません。が、男である助手には頼めない。何か間違いがあっても困ります。信頼の置ける侍女を呼んで参りましょう」
「それは――」
「他所からの報告と同じ薬が使われたのであれば、おそらくこれから出てくる症状は理性の崩壊と本能の暴走。つまり、姫様が飲まれたのはそういう薬です」
目の前の青年がますます蒼白になるのを見た。強く握られた拳は大きく震えている。リンク殿は自分のせいだと言った。その責任感からだろうか。
「……ぅ、……」
白い腕が伸び上がり、誰かを探すように揺れる。
「姫様っ」
「リン……ク」
「ここにおります」
青年の両手が揺れる手を取った瞬間、薄くゼルダ姫の目が開いた。朧気な瞳はまっすぐに覗き込む自分の騎士を見つめていた。安堵したように緩んでいくゼルダ姫の口もと。躊躇無く主の御手を握りしめる従者の姿は、以前より考えていた二人の関係性を確証に変えてくれた。
「俺が」
必死さと罪悪感と心配の入り交じった表情で、リンク殿は唸るように言葉を紡ぐ。
「ここにいてはいけませんか」
「責任感でおっしゃられているのなら、ご遠慮頂きたい」
私はあえてそう伝えた。
「責任を感じているのは事実です。でも、それだけじゃありません。これから姫様にどんな症状が出るのか俺には分かりません。でも、他の……誰にも見せたくないんです」
じっと目を見るが、彼は一瞬たりとも視線を逸らさなかった。許されるまではテコでも動かない。その気概を強く感じる。いつも寡黙な彼の感情的な言葉に、私は満足して頷いた。
「お任せします、リンク殿」
彼はパッと目を見開き、真鍮色の頭を深く下げた。
「解毒薬はすぐに準備はできません。同じ薬という確証もない。貴方にお願いするのはただひとつ。これから起こる症状から姫様を護ってあげてください」
「……はい」
「護るとは身体のことだけではありません。貴方は判断に迷うかも知れない。現れる症状はゼルダ姫様の心そのもの。どうか、姫様が真に求めていることを見極めてください。言っている意味は……わかりますね?」
青年はここに入ってきて初めて、戸惑うように視線を外した。私の意図が伝わったのだろう。その頬は赤らんで見えた。
「貴方だから許可するのです。私も席を外しましょう。薬が抜けるまで待つしか今は手立てがありませんから」
「わかりました」
「お水だけはとにかくたくさん飲ませてあげてください。分解の助けになるでしょう」
リンク殿が頷く。私は部屋を出る。扉の閉まり際、私はもうひとつ言葉を掛けた。
「このことは誰にも秘密にしましょう。これから起こることも、貴方が深くゼルダ姫様を想っていることも」
「許……されるでしょうか」
私は目尻を下げて、それに答えた。
「答えはきっと、ゼルダ姫様がご存じですよ」
私の言葉に青年は片腕を上げ、胸に誓うように打ち付けた。静かに目を閉じる。
「ど、こ……。リ、ク」
「俺はここにいます」
ベッドの傍に膝を付き、不安げな吐息に寄り添う。その姿はまだ初々しく瑞々しい。ゼルダ王妃を看取った時の泣きじゃくる幼い顔を思い出し、二人が紡ぎ合った絆に安堵していた。
「そばに……い、て」
いつもよりずっと甘えた声色を聞きながら、私はそっと扉を閉めた。
了