灰と青「……ねえ、茨。ここから歩いていける距離に海があるんだって」
雑誌の撮影のために訪れた地方のカフェにて、チョコレートケーキをつついていた閣下が突然そんなことを言い出した。本好きのためのカフェ、というコンセプトの店内は、壁一面に天井までの高さの本棚が据え付けられ、コーヒーの香り漂う中どこに視線を向けても多種多様な本たちがぎっしりとひしめき合っている。店に足を踏み入れた当初、圧倒的な蔵書量に目を輝かせていたその瞳はその後ショーケース内の色とりどりのケーキ達に奪われ、トラブル無くすんなりと撮影を終えた今は、柔らかなオレンジの照明に照らされながら俺のことをじっと見つめている。
返答も無いままに反射的に顔を顰めてしまった自分を、閣下は穏やかな表情で見つめている。次に閣下の口から紡がれる言葉は簡単に予測がついて、俺は手元のタブレットに目を落とし、次の移動時間まで幾分猶予があることを確認した。
「……2人で歩いて行ってみない?ほら、こんなに美味しいケーキを食べたから運動しないと」
「ケーキを召し上がったのは閣下だけですけどね」
きめ細やかなスポンジと濃厚なクリームが層となって美しい断面を描き、表面は滑らかなビターチョコレートで覆われてつやつやと輝いている。フルーツのジャムやソースを使っておらず、純粋なチョコレートのみの美味しさが楽しめるのだという店自慢のケーキに閣下は大変ご満悦だった。小麦粉も生クリームもチョコレートも贅沢に使われたケーキはさぞかしカロリーも恐ろしいものだろう。
「分かりました」
「……♪ ありがとう茨」
「ただ、もうすぐ雨が降りそうですので行き帰りは車で、滞在も10分程度ですからね。今日の摂取カロリーについては……、明日以降の食事内容と運動量で調整をします」
「……けち」
「何か仰りたいことでも?」
閣下は一瞬む、と表情を固くしたもののすぐに綻ばせ、「……まあいいや。茨も一緒に来てくれるんだし」とご機嫌そうに最後の一口を口に運んだ。俺も残ったコーヒーを啜り、空になったカップをソーサーの上に置く。陶器と陶器が触れ合うカチャリという音がいやに耳に残った。
海の近くまで車を回してもらい、運転手に10分ほどで戻る旨を伝えると俺と閣下は砂浜へと足を進める。柔らかく細かな砂は歩く度に足が沈んでいくような感覚を与え、いつの間にやら靴の中にまで侵入してきそうだ。
「寒っ」
海沿い特有の強い風が吹きすさび思わず首をすくめた。目の前で閣下の長い銀髪が暴れている。自分も閣下も暑さ寒さに強い方ではあると思うが、何を好き好んでこのクソ寒い季節にクソ寒い海に来たいなどと。そんな物好きは俺達の他には居らず、俺達はくすんだ空と灰色の海とゴミが散らばる海岸を独占している。
「いいですか!海に近付きすぎないように!海に足を浸けたいなどと馬鹿なことも考えないでくださいね!」
「……分かった」
そう返事をすると閣下はさくさくと音を立てて波打ち際まで歩いて行ってしまう。俺はその場に残り、閣下の後ろ姿を眺めていた。閣下の歩いた後にはくっきりとした足跡が刻まれている。波からある程度距離を取ったところでしゃがみ、何やら砂浜を探り始めた。
ふ、と空に目を向けると分厚く黒い雲が一面を覆っている。天気予報では降り出すのは夜からとのことだったが、いつ降り出してもおかしくはなさそうだ。頬を撫でる、いや、肌に刺さるような潮風から逃れたくて手を上着のポケットに突っ込んだ。手袋を持ってくるべきだった。
目を細めて海に視線を向ける。天気のせいか普段なら青いだろう海水は暗い鈍色に見えた。海面にせり出た大きな岩に、一際高い波が押し寄せる。岩に阻まれた波は白い飛沫を上げなから粉々に砕けていった。
民間軍事会社にいた幼少期、水泳訓練と称して川に突き落とされたことがある。あっという間に、身につけていた衣服は水を吸って身体に纏わりつき自分の動きを阻害するだけの布となった。命からがら岸まで辿り着き陸へと上がると身体は芯まで冷え切っていて、自分の意に反してがたがたと激しく震え出す。
「……ばら、茨」
「……っ!」
いつの間にか随分ぼんやりしていたようで、すぐ目の前に閣下が立っていた。慌ててポケットから手を引き抜く。
「……茨、私のハンカチ出して」
「え?あ、はい、どうぞ」
鞄の中から閣下のグレーのハンカチを取り出して手渡した。1人の仕事の時は流石に本人に持たせるが、行動を共にするときは基本的に閣下の荷物のほとんどを俺が預かっている。閣下はハンカチを広げると、その上に手のひらに握っていたものたちをそっと並べた。親指の爪ほどの大きさの白い貝殻、緑色のシーグラス、桜貝……。
「……以前、薫くんが海に連れ出してくれたことがあってね。また来てみたかったんだ」
「なるほど、羽風氏の影響ですか。Eveはユニットイメージ柄海での仕事もありましたが、我々AdamやEdenとして海に訪れたことはまだなかったですね」
閣下が拾い集めたものをそっと包んで鞄の中にしまう。使い慣れた鞄はなぜだか先程までよりもずっしりと重く感じられる。顔を上げると右手を閣下に捕まえられた。じわりとした熱が手のひらから広がっていく。
「……茨、手がとても冷えてる。ごめんね、私がわがままを言ったから……」
「いいんです、それより早く戻りましょう。雨が降りそうですし、閣下が風邪など召されたら大変ですから」
「……今度は海が青いときにまた来ようね」
是非ともそうしたい。指の先まで寒さで縮こまるよりも、汗を拭いながら暑さに茹だる方が幾分かマシというものだ。