しるし「うぅ…」
頭が割れる、とはよく言ったものよ。じんじんと、偽りの心音に合わせて脳を揺らす痛みに米神を抑えて唸る。この現象はどうせいつものヤツに決まっている。さすがわし様察しがいい!と、我褒めを口にする元気もない。むしろ口を開けば酷い頭痛のせいで吐きそうなくらいだった。
痛む米神、そして瞼の奥を指先で揉み…自室のベッドをごろごろと転がる。なにしても痛むとか地獄か?頭だけでなく、心なしか首まで痛む始末。これは本格的にダメなものだと見切りをつけて立ち上がる。自分でどうにもできんのなら医務室へ行くしかあるまい。と、そう決めたのだが…
「お?っ…」
くらり。
世界が歪んだと思った瞬間、なんとか足を踏ん張り、無様に床へ倒れることだけは回避したが…変に力を込めたせいか、頭痛が悪化した。じんじん、という痛みの信号が…内部から鈍器で殴り付けられるかのようなガンガン、というものに変わる。もはや目も開けていられず…そのままベッドにぼふりと倒れる。
「っ…う…クソ…!」
目を強く閉じると瞼の裏に光が散る。それが閉じたままの目に焼き付く。二重、三重にも暗闇で散る光と強烈な吐き気に、もはや一ミリも動く気力を失う。もう、いい。
纏っていた霊衣を解き、眠る時に着用している簡素なTシャツとスウェットという、お洒落からは縁遠いものへと換装する。まぁ、わし様だし?なにを着ても優美で華麗である故に、多少それらが損なわれるだけで済む。いや…それでも大きな損失であるのは間違いないのだが。そこを差し引いてもこれ、なかなかに楽なものでな。誰に会うわけでもなし。誰ぞか来たとしても出るものか。どうせこれはカルデア全体案件であろうし。このまま寝て、目覚めた頃にはきっと終息して…わし様は再び最優で最カッコいいわし様に戻っている。そうに決まっている。そうしよう。そう決めた。
「あ…」
あぁ、そういえば…。と、うっすら目を開いて、ズキリとはしる痛みにやはりダメかと諦めて閉じる。
一瞬見えた外への扉…そしてその向こう、食堂へと続く道のりを脳裏に描く。隣にはカルナが、アシュヴァッターマンがそれぞれおり、些細な…けれど幸福に満ちた日常、というものの会話を楽しむ。誰にもなににも縛られることはない。身分も立場もない、同じ旗の元に集いた仲間…ひとりの戦士として、今日という日の想いを語る。その中で最も重要な外せんものがある。食だ。わし様は、今生のあらゆる食にハマっておる。
今日のお昼は、特製オムライスであったな…あれはいい。思い出す。このわし様を一口で虜にしたあの魅惑のふわとろ食感を。スプーンで真ん中にすっと切れ目を入れてやれば、自重で薄く、ふわりと焼けた黄金の衣が割れて…中から甘めのバターと溶け合い、キラキラと輝いてすら見えるとろとろの卵が溢れ落ちる。上からかけるのはデミグラスソースでもいいし、甘酸っぱいトマトケチャップでもいい。
影法師の生を受け…見たこともない。嗅いだこともない。美しく彩られた数多の食をこの口に入れてきた。その中で、最近最も気に入っているもの。さして豪華でもなく、なんなら素朴でさえあるそれをわし様はいたく気に入った。例え、それを作ったのがあの野蛮人だったととしても…いや、やっぱり嫌だが。あ~。
「食べたかった……」
カルデアに召喚されてから、ある意味毎日が驚きとトンチキ現象の連続だった。
そもそも召喚された先に弟が…それもオルタという反転した形の、までいたことも驚いたが、まさかあのトンチキ王子まで人理の英雄だとかいうものに選ばれていたのが意外だった。というか…よく招きに応じたなと思った。あの野郎が人の命など聞くわけがない。我儘で強欲。てめぇの気分次第であらゆる物事を決める。それが人の命であっても、だ。つまらない、飽いたと簡単に塵のように捨ててしまえる下衆野郎。それが、俺の知るドゥリーヨダナという男だ。
だが、呼び出したマスターの性に引きずられたのかなんなのか知らんが、その印象に少しずつズレが生じている。少なくとも、俺に対しては相変わらずだったが、マスターに対して…あいつが身内と認定した者に対しては甘々のゲロを吐きそうなほど…。
と、考えて近くの壁に一度頭を打ち付ける。脳内であってもあいつをやさ…や、やさしい、だなどと称したくない。クソ、吐き気がする。あいつはどこまでいっても最低最悪の我儘クソトンチキ王子で十分だ。
…十分のはずだ。
「おい、起きてるんだろ」
ガン、と。蹴りをくれたのはそのクソ野郎の部屋の扉だ。
カルデアにはよくトンチキ現象…霊基異常が起きるという。この前は一部のサーヴァントが猫だか犬だかになったらしい。なんだそのおぞましい現象はと、久しぶりに身震いしたほどだ。
今回は原因不明の体調不良。そもサーヴァントは睡眠も食も必要ない。霊核に達するほどの深手を負わなければ死にもしない。だから、病気にもならん。毒や精神汚染をくらうことはあっても、唯人のように風邪をひくだの熱がどうのということはない。
俺はなんともないが…エミヤは頭が痛むとキッチンを休んでるし、よくシミュレーターで手合わせすることがある同じランサーの書文や金時は体が怠いとか、熱があるだの言っていた。調べてみれば何人かのサーヴァント…それも元人間の、に異常が出ているらしい。なら、こいつだって例外じゃないはずだ。
…来る途中でカルナとアシュヴァッターマンとすれ違ったが…行き先に察しがついただろうに、あいつらはなにも言わなかった。ただ、アシュヴァッターマンだけは殺意の籠った目で俺を睨んできたが…それだけだ。
「チッ…返事くらいしろ」
あの二人とすれ違った、ということは部屋にいるはずだ。なんなら、すれ違いとか腹が立つ事態を避けたかったから、来る前に居場所の確認はしてある。それでも、あの野郎なら相手が俺だとわかれば無視くらい平気でするだろう。
…一瞬。ほんの些細な気まぐれ程度の時間。脳裏に過ったのは、地に伏すあいつの姿だった。顔は――よく見えない。
「……」
首を数度振り、過った記憶をふるい落す。
扉が開く気配はなく…しょうがねぇ、壊すかと手を振り上げた瞬間。シュッと呆気なくその扉は開く。
「ドゥリーヨダナ…」
今まで閉じてたのはなんだ、やっぱり嫌がらせか?と、とりあえず部屋の主を一発殴ってやろうと決めて中へ入る。
踏み込んだ室内は薄暗く、仄かな花の香りが鼻を擽る。人を、惑わす匂いだ。それを軽く手で払い除けながら、部屋の奥に鎮座するあの野郎の寝床…俺の部屋にある簡素なベッドより遥かに品がいいとわかる。強突張りなあいつのことだ。マスターにこれじゃないと嫌だとか我儘を言ったに違いねぇ。
豪奢な造りの天蓋付きベッドに苛つきを抑えながらゆっくり近付く。中を覆い隠すようなヴェールをそっと手で開けば、
「ドゥリーヨダナ?」
ベッドの縁に横倒しになった状態で眠るトンチキ野郎の姿を見つける。これだけ近くにいるのに目を覚ますどころか、うんうんと唸る始末。あのドロドロとした、花と我欲を煮詰めて固めた目が開くことはない。よく見ると暗い中でもその顔色の悪さが目立つ。やっぱりこいつも具合が悪いらしい。
一瞬迷って…その額に手を当てる。熱はない。むしろ冷えているくらいだ。
身なりを気にする男にしては、わりと酷い格好をしている。そういえば少し前に青色のクソダセェTシャツとスウェットという現代の寝巻きが楽でいい!と騒いでいた気もする。雅さの欠片もねぇところを見ると、楽な格好で休みたかったらしい。
「おい」
手の甲で頬を軽く叩く。力加減を誤らないよう最大限の注意を払った。が、少し弱すぎたのか。叩かれてもドゥリーヨダナはぴくりとも動かない。半開きになっている口から、してるかも怪しい細い息を吐くだけ。
普段のぎゃーぎゃー煩く喚き散らすこいつを見慣れているからか、この状態はかえって不気味だ。それだけ具合が悪いのかもしれない。
改めて、ドゥリーヨダナという男を見下ろす。額にあてたままだった手のひらを頬へと滑らせたのはなぜだろうか?
撫でる形になったこいつの肌は、確かに齢を重ねているというのに滑らかだった。女の柔肌とそう代わりがない、なんて言ってやれば顔を真っ赤にして怒り狂っただろう。
顎に蓄えた髭がなければ、もう何歳かは若く見えるだろうに。似合わないとは思わない。いけすかないだけだ。引き千切ってやろうかと思う。
具合の悪さから色味が悪くなっている唇は、常なら紅を引いたように艶やかで赤い。それが悪辣な笑みを象り…何度俺の怒りの天井をぶち抜いたか知らない。
「ドゥリーヨダナ」
名を呼ぶ。この、見目だけはそこそこの…自分磨きに余念がない、気位がバカ高い男の名を呼ぶ。
応えろ。誰あろうこの俺がお前なんぞの名を呼んでいるんだ。お前を殺す、何度でも殺すと誓っている、ある意味で唯一の存在がここにいるんだ。簡単に寝首をかかれるような無防備な姿を晒すことは許していない。そんな簡単に手折られるモンじゃないはずだ。
「ん……?」
僅かに溢れた殺気を感じ取ったのか。それでもひどく緩慢な動きだったが。瞼が震え、ゆっくりと持ち上がる。重い瞼の下から覗く花の色が俺を捉えて――ゆるり、と細まる。は?
「……」
目は開いている。だが意識が覚醒しきっていないらしい。ぼんやりとした虚ろな目が、俺をじっと捉えて離さない。笑っているようにも見える表情で、ドゥリーヨダナはすり…と、俺の手のひらにその頬を寄せる。
「……た、……い」
あったかい。と、そう言ったのか?
まるで小さい動物が寒さに凍え、同じ生き物の熱で暖を取るように、俺の手のひらの熱を受けて嬉しそうに笑んでいる。呆気にとられて動けずにいるのをいいことに、ゆるゆると下から伸びたドゥリーヨダナの両手が、俺のそれを捕らえて…あろうことか自ら己の額へと導く。
「ふふ……」
くすくすと、まるで無垢な子供のようにそれは笑う。悪辣さも、裏のあるものでもない。幼い頃…まだ互いになにも知らず、バカみたいに先を信じていたあの時に見たような気がする。もう霞んで、遠く朧気な記憶。笑顔だった。
「…バカ野郎が」
腹立たしい。憎らしい。
こんな面を俺に再び見せるなんて。今のお前はお前であってそうじゃない。狭間の意識の存在。真実の姿なのか虚像なのか。それを知る術を、俺はなにひとつ持ち合わせちゃいないというのに。
本当に、本当にクソ野郎だ。
「起きたら覚えてやがれ、忘れるな」
額に導かれた手のひらをドゥリーヨダナの手のひらごとベッドへ縫い付けて、無防備に晒された額に俺のそれを押し当てる。至近距離で交わされた視線は再びドゥリーヨダナが瞳を閉じたことで一方的にそらされる。
すぅ、と。来た時よりはるかに穏やかな寝息をたてて眠るドゥリーヨダナの唇に…俺は触れるだけの口付けを施す。
「っ…!」
眠るドゥリーヨダナから額を、体を離して唇を手の甲で拭う。どうして?なぜ?なぜ俺はこのトンチキ野郎に口付けなぞした?己のしたことだというのに、まったくもってわけがわからねぇ。理解できない。
人の気も知らず、呑気に寝くさるクソ野郎に腹が立つ。腹が立つのに…その、色味が良くなって…まるで食べ頃の果実のように鮮やかに、俺の目に映る唇がどうしてか旨そうに見えた。だからだ。そうに決まっている。俺は、ただ旨そうなモノを食らっただけ。ただ、それだけ。
「…本当に覚えてやがれよクソ野郎」
吐き捨てるように言って、俺はドゥリーヨダナの部屋を後にした。
――あぁ、どうしようもなく腹が減った。