「お召替えお疲れ様です、主様。――わあ! やっぱり、とてもお似合いですよ!」
フルーレが用意してくれたのは、暗い色調のバッスルドレスだった。元の世界では一般庶民として生きるわたしにとっては、現実離れしすぎていて、本当に似合っているのかあまり自信が持てない。けれどフルーレがそう言うなら、なるべく堂々と胸を張っていよう。
「ありがとう。フルーレの衣装が素敵だからだよ」
わたしはなるたけ柔らかく微笑んでそう言った。
「僕もアクセサリーを選ぶのをお手伝いしました!」
腕の中のムーが声を上げる。
「ムーもありがとう」
「えへへ」
支度を終えたわたしはムーと一緒に控え室を出て、部屋が空いたことをフルーレに告げた。この後は、もう1人の主様の番。部屋の外でフルーレと一緒に、車椅子を引いたアモンくんが待ち構えていた。相も変わらず、向こうの主様にばかり話し掛けている。
彼からわたしへの賛辞がないことも、相変わらず。
代わりに、明後日の方向からもうひとつ声がした。
「ええ。フルーレの衣装は素晴らしいです。流石、私の弟ですね。ですが、主様ご自身が美しいからこそ、より綺麗に見えるんでしょうね」
「ラト! 何しに来たの?」
突然現れたラトに驚いたフルーレは、心做しか不機嫌になって見えた。
「クフフ。弟の仕事を見守るのも、兄の勤めでしょう?」
当然です、とばかりにラトが答える。
「俺はラトの弟じゃないって何度も言ってるでしょ! いい加減やめてよ!」
にこにこと楽しそうに微笑んでいるラトに、フルーレがぴしゃりと念を押した。その言葉に、関係ないとわかっていても胸がつきんと傷んだ。
「今日は機嫌が悪いようですね、フルーレ。兄は悲しいです…………」
「こっちがおかしいみたいに言うのやめてくれる? 仕事の邪魔しないで!」
「おや? 仕事ならもう、ひと段落ついたんじゃないんですか?」
「今日はグロバナー家が主催のパーティーだから、両方の主様それぞれ宛に招待状が届いたんだって、ベリアンさんが言ってたでしょ? 本当に人の話を聞かないんだから」
「ふむ、そうでしたっけ?
――こんばんは、車椅子の主様」
「ちょっと! もう、言ったそばから……!」
ラトはもう1人の主様の前に跪いた。アモンくんも主様に話し掛けるのを止めて、2人を見守っている。……アモンくん以外であんな風にするのは、もうラトくらいだ。他の執事も動かない主様に挨拶はするけれど、それは形式上のことで、今ラトがしているみたいに目線を合わせたり、手をとって様子を伺ったりすることはなかった。きっと、悲しくて、耐えられなくなってしまったのだ。
ラトの傷だらけの手が、もう1人の主様の滑らかで真っ白い手を慈しむように撫でた。
乾いた唇が何の気なしに言葉を紡ぐ。
「それにしても、こちらの主様は本当に静かですね。呼吸も、脈拍も、とても微かで、まるで……」
ぞわり、と嫌な予感がした。
それはわたしだけではなかったようで、フルーレの焦った顔が目に入る。
「ラト!」
咎めようとした声は僅かに遅すぎたようだった。
「そう、死体のようです」
しん、と、廊下が静まり返る。
それはきっと、誰もが聞きたくない言葉で、誰もが密かに思い浮かべたことだったろう。
頭が冷たく凍ってゆくような気がした。
「ちょっとラト……!」
「あんまりですよラトさん!」
フルーレが青くなったり赤くなったりしながらラトを窘めようと肩を掴んだ。ムーまでわたしの腕から身を乗り出して叫んだ。きっと2人とも、わたしと同じことを考えてる。どういうつもりなんだ。どうして口に出したんだ。誰が聞いてると思ってるんだ。どれも言葉にならない。
「おやおや? どうしたんですか?」
「どうしたも何もないでしょ……!?」
多分、この重苦しい空気の中で、一番焦っているのはわたしとフルーレだろう。
アモンくんが徐ろに、2人の方へ歩み寄って、ゆったりとした動きでフルーレを押し退ける。
「主様はもう二度と目覚めないって言いたいんすか?」
ラトの言葉を、一番聞きたくなかったであろう人の声。初めて聞く声色だった。初めてこの人を、怖いと感じた。
アモンくんの鬼気迫る雰囲気を少しも意に介さず、ラトはあっけらかんとして答える。
「そうは言っていません。私はただ、思ったことを口にしただけです」
それを聞いて、わたしは少しだけほっとした。それでも心臓をどくどく鳴らしながら、状況を見守る。無意識に力が入ってしまったのか、ムーが小さく呻いた。
フルーレは唇を引き結んで、腕を下ろしたまま握った拳を震わせていた。
「ですが、そうかもしれませんね」
「……は?」
アモンくんがラトの襟首を掴み上げた。
「おや? クフフ、良い目をしていますね…………。私と戦いますか?」
どこか楽しげに笑うラトとは対照的に、アモンくんは眉間に幾つも皺を寄せて、凄まじい形相でラトを睨みつけている。
「主様は、主様は…………ッ!」
震える声で、何か言いかけては止めるのを繰り返すアモンくん。主様は、何て言いたいのだろう。「生きている」? 「必ず目を覚ます」? それを、言葉にできないのはどうしてだろう。
ふと、ラトが何かに気付いたように、表情が凪いでほんの少し瞠目した。
「……………………いえ、辞めておきましょう。私は全力の相手と戦いたい。既に手負いの人と戦っても、意味がありません」
「手負い?」
思わず聞き返す。
「ええ。気が付きませんか? アモンくんから漂う、血と、膿のにおい」
バッと、アモンくんがラトから手を離して、そのまま逃げるようにどこかへ立ち去ろうとする。
「待って!」
咄嗟に引き止めてしまった。けれど、何を言っていいのかわからない。
「怪我を、してるの…………?」
あなたが心配。あなたの力になりたい。
「……放っといてくださいっす」
「…………っ、……………………」
アモンくんは立ち去ってしまった。
無力なわたしには、その背中を見送ることしかできなかった。彼の助けになりたいのは本心だけれど、彼に疎まれるのが怖かった。卑しい自分が嫌になる。
あなただったら、どうしただろう。車椅子の、もう1人の主様の方へ振り返る。
相も変わらず、小さく寝息を立てるだけ。
あなたが目を覚ませば、それだけできっと全て解決するのに。