数分か数秒か、重たい沈黙が流氷のように流れた。あんな風に拒絶されては、誰も追いかけられない。
不意にそれを破ったのはフルーレだった。意識が現在に引き戻される。
「ラト! アモンさんが手負いってどういうこと?」
フルーレがラトに向かって問い質した。しかし、ラトはきょとんとしている。
「フルーレ、主様の身支度をして差し上げるんじゃなかったの?」
「わかってるよ……ッ! 聞きながらやるから、ラトも手伝って!」
フルーレの額には青筋が浮かんでいた。こちらにまでその焦りが伝わってくるようだ。じりじりと、急かされたような心地になる。
「わ、わたしにも、手伝わせて…………!」
せめて、それくらいはしたい。
「主様…………、ありがとうございます」
フルーレはこちらの意図を汲んでくれたのか、普段よりあっさりと許可してくれた。
脱力した肩を支えて、脱衣を手伝う。人だと思えば重くて、重いと言うには軽くて、なんだか生温い人形を世話しているようで怖かった。
彼も、そうだったのだろうか。
コートに袖を通させながら、ラトが漸く話し始める。
「アモンくんは、身体にいくつも傷を負っています。臭いでわかるくらいなのですから、相当夥しく、生々しい傷跡ができているのでしょうね」
脳裏に、嫌な想像が浮かぶ。アモンくんの魔導服の下の、血の赤と、膿の黄色…………。
「……他にわかることはない?」
「さあ? 詳しいことは知りません。彼自身に尋ねるべきじゃありませんか?」
「そうかもしれないけど、主様に向かってその言い方はないでしょ」
フルーレがラトをじっとりと睨んだ。
わたしたちは、揃って考え込む。
「このところ大怪我をするような戦いはなかったし、もしかして、どこかでトラブルに巻き込まれているのかな…………?」
「そうかもしれません……。俺たちのこと、よく思ってない人は大勢いますし…………」
「ですが、あちらの主様が眠ってしまわれてから、アモンくんは殆ど屋敷の中で主様に付き添っているでしょう? 現に彼からは、彼を害した他人の臭いは感じられませんでした。私には、アモンくんが屋敷の外で日常的に襲われているとは考えられません」
「じゃあ、どうして………………」
「…………僕、知っているかもしれません」
議論が行き詰まったかのように思えたところで、意外なところから声が上がった。
「ムー?」
「ええと、その…………、これは秘密なんですけど、…………う〜ん……、誰にも言わないって、約束したんですけど…………、でも……………………」
ムーは小さな首を俯かせて、お腹が痛いみたいにうんうん唸っている。
「――あぁっ! だとしたら、アモンさんは…………」
突然、何かに気が付いたように大きな声を出して顔を跳ね上げた。
「ラトさん! アモンさんの怪我は、今までよりも酷くなっているんですか!?」
「ふむ、どうでしょうか? 今まであんなに近付いたことはなかったので、わかりません。
……思い返してみれば、今までは避けられていたようにも見えましたね。手負いの動物は皆そうします」
……何が何だかわからない。ムーは肝心なことを口に出してくれないし、それなのに意味深なことを言う。今までって、なんだ。
「ちょ、ちょっと待ってよ! ムー、今までって、どういうこと? ムーは何を知ってるの?」
わたしの混乱を、フルーレは言葉にして問うた。
「そ、それは秘密です! すみません! アモンさんのために、どうしても言えないことなんです……!」
ムーがわたわたと慌てて答える。少しだけ可哀想になってきた。
「ムーが秘密を守ってるなんて…………」
フルーレが神妙な表情で呟く。
「し、失礼ですね!」
でも、確かに、いつも油断の多いムーが約束を守っているなんて意外だ。そうさせる程に、複雑な事情があるのだろうか。
「……ムー、その約束って、アモンくん自身に口止めされたの?」
考えに考えて、わたしは問い掛ける。
「違います!」
ムーの元気なお返事。
「なら、誰との約束?」
「ボスキさんです! ……あれ? これって言っちゃってよかったんでしょうか…………?」
途端に焦りだしたムーを、わたしは優しく宥める。
「大丈夫。ムーは約束を破ってないよ。わたしが意地悪なだけ。……ごめんね」
「っ……!」
ムーは明らかにショックを受けていた。本当にごめん……。だけど放っておけない。これ以上無力でいたくない。
「フルーレ。この件は、わたしに任せてほしい」
「えっ?」
「お願い。ボスキがアモンくんの為に言い付けた秘密なら、何か大事な理由があるんだと思う。パーティーが終わったら、わたし1人でボスキに尋ねてみる」
「…………」
「大丈夫。きっと、心配する気持ちは同じだよ。…………信じて」
「………………わかりました」
フルーレはどこか苦しそうに、絞り出すように応えた。
「ありがとう。それじゃあ、早く支度を済ませよう」
動けない主様のスカートの襞を整えて、髪を梳かす。よく手入れされた髪に、櫛は少しも引っ掛からなかった。
「…………う、うぅ……………………っ」
不意に、呻き声が耳に入る。
「……フルーレ?」
もう1人の主様の手をとって、リングやブレスレットを合わせていたフルーレが、涙を零していた。
「どこか痛むの?」
ラトが尋ねた。空色の髪がふるふる揺れる。
「あ、主様…………、こちらの主様は……っ、チューブや点滴の食事を摂ってはいるけど……っ、………………うぐ……っ、…………こうやって、お召替えをさせて頂く度に、少しずつ……………………っう、っ、少しずつ、衰弱していってるのが……っ、わかってしまうんです…………! っう、……それが、悲しくて………………、けどっ、いつも手伝ってくれてたアモンさんには、言えなくて…………!」
「…………そうだったんだ」
自身の無力さに打ちひしがれていたのは、なにもわたしだけではなかったのだ。きっとラトだって、長らく眠ったままの主様に思うところがあったから、口に出してしまったのだ。みんな、現状をどうにかしたくて、それぞれに考えたり、行動したりしていたのだ。
大粒の涙が流れる赤い頬へ、ラトの傷んだ指先が触れた。
「泣かないで、フルーレ。貴方が気に病むことじゃありませんよ」
覚束無い手付きで、涙の雫を擦る。
「………………痛い」
「おっと、ごめんね」
ラトはフルーレの顔を擦るのを止めて、頬ずりをした。どことなく、犬や猫の毛繕いを思い起こさせる。フルーレは居心地が悪そうな顔をしながらも、このときばかりは珍しくラトを受け入れていた。
わたしは決意を新たにした。
「…………わたし、なんとかしてみるよ。絶対とは言い切れないけど……、できる限りのことは、なんでもする」
「あ、主様………………?」
フルーレはどこか不思議そうにわたしを見た。
「わたしならできるって、ムーも言ってくれたから。ね」
「主様…………!」
ムーがとびきり嬉しそうな顔でわたしを呼んだ。
今度こそ、期待を裏切らないわたしになりたい。みんなのためにも、わたしのためにも。