その人を初めて見た瞬間、頭をレンガで殴られたかのように感じた。一目惚れだった。
彼は、アモンくんは、花壇に水を撒きながら、傍にいる誰かへ楽しげに話していた。その姿は遠目にもすごく優しくて、明るくて、だけどどこか痛いのを隠しているような、切なさに近いものを感じさせられて、心がざわついて居ても立ってもいられなくなる。
あなたをもっとよく知りたい。あわよくば、わたしのことも知ってほしい。素敵なあなたはきっと受け入れてくれる、なんて根拠無く、けれどごく自然にそう思って、わたしから声を掛けた。
果たしてそれは間違いだった。
わたしが話し掛けた瞬間、彼はびくりと震えて、その表情から微笑みも、痛みも、ロウソクの火を吹き消したように消えた。後に残った煙のように、虚ろな真顔がこちらを向いた。
あ、綺麗な顔をしてるな、と思った。
「ごめんなさいっす」
こちらが何を訊ねる間もなく、いきなり謝られてしまった。勿論そんな心当たりはない。
「主様のお身体が冷えちゃうといけないんで、失礼するっすね」
彼は性急にそう告げると、さっきまで熱心に話し掛けていた車椅子を押して、さっさと行ってしまった。わたしはそこで漸く、話にだけは聞いていた、車椅子に座るもう1人の主様を初めて直接目にした。
よく手入れされた艶やかな髪や爪、肌理細やかな肌。それから軽く閉ざされた目蓋。いつ目を覚ましても不思議ではないように見えた。
眠っているようにしか見えなかった。
実際本当に眠っているだけなのかもしれない。ただ言葉通りの、永き眠りに就いているだけなのかもしれない。もう1人の主様は、天使狩りに同行した際、街の店屋の看板の、鏡面越しに天使の光を浴びて意識を失い、以来ずっと昏睡状態なのだそうだ。「悪魔執事の主が、執事の力を解放するための詠唱ができなくては意味が無い」と、新たにわたしが呼ばれたのがふた月前のこと。
新たな主を迎えることについて、執事の間でかなり意見が分かれたらしい。中でも最後まで反対していたのがアモンくんだった。2階の他の執事が話していたのだが、もう1人の主様とアモンくんは、天使を狩る戦いが終わったら、結婚する約束をしていたのだという。詳しいことは聞けなかった。聞く気になれなかった。
「最終的に、フィンレイ様から直接命じられてしまったから、全員従わざるを得なかったんです」とルカスが言っていた。『ルカスはいつまで抵抗したの?』とは、聞かなかった。
もう1人の主様が目を覚まさない原因の究明や治療は続いているが、なにしろ前例が無いために、どちらも難航している。グロバナー家の方でも手を尽くしている最中らしいけれど、普段の待遇などからして望みは薄いだろう。貴族の誰かが同じ状態にでもなれば話は変わるだろうか。
自分の意思で動けないもう1人の主様を、アモンくんは付きっきりで看病、いや、介護しているのだ。身体を綺麗にしたり、栄養を摂るためのチューブを繋いだり。着替えはフルーレも手伝っているようだったが、殆どの世話をアモンさんが1人で請け負っている。それでいて庭師の仕事も続けているのだから、充分な休息は取れてるのか、と彼を気遣う声が後を絶たなかった。
わたしはこうなる以前の彼を知らないけど、彼が無理をしてるのは火を見るより明らかだ。気取られないように振る舞ってるつもりみたいだが、新参者のわたしでさえそう感じたのだから、何十、何百年も一緒にいる他の執事たちは、尚のこと彼を心配している。
アモンさんは自らの意思で、自分の時間を削りながら、もう1人の主様の介護と庭の草木の世話を両立させている。何かそういう使命感に駆られている。
もう1人の主様が纏う、清潔感のある白いワンピースドレスは、まるで、彼に取り憑く幽霊の着物のようだった。