虎視眈々 目が覚めたとき、私の頭の中は九龍城砦の喧騒と同じくらい混沌としていた。薄暗い部屋には湿った空気が漂い、どこか甘い残り香が鼻腔をくすぐる。窓の外からは、狭い路地を行き来する住人たちのざわめきや、鉄鍋を叩く音が絶え間なく響いてくる。ここは私の部屋だ。九龍城砦の片隅に位置する小さな住まい。幼い頃からこの無法地帯で育ち、雑多な音や匂いに慣れ親しんできたはずなのに、今朝の感覚はどこか異質だった。胸の奥に言い知れぬざわつきが広がり、身体が重い。昨夜の記憶が曖昧で、頭の中に靄がかかっているようだ。
私はベッドの上でゆっくりと身体を起こし、ごく自然な流れで隣を見た。そして、息を呑んだ。そこには男が寝ている。薄いシーツにくるまり、無造作に横たわる姿。知らない顔ではない——どこかで見覚えがある。乱れた髪と、眠りに緩んだ表情が妙に印象的だ。私の心臓が一瞬強く跳ね、喉が締め付けられるような緊張が走った。
「お、おはようございます⋯?」
なんとか絞り出した声は震え、部屋の静寂に頼りなく響いた。男は目をこすりながら寝返りを打ち、低い声でぼそりと返した。
「ん。おはよ⋯」
眠気が混じり、どこか無防備な響きがある声。一瞬の沈黙が部屋を包む。私は必死に昨夜の記憶を掘り返そうとした。頭の片隅に浮かぶのは、帰り道にある路地裏の安酒場で一杯ひっかけた場面だ。カウンターのざらついた木目と、薄汚れたグラスに注がれた安酒の匂い。「そろそろ帰ろう」と立ち上がったところまでは鮮明に覚えている。
だが、その後がまるで闇に飲み込まれたように途切れている。男の人に声をかけられた気がする。一緒にもう一杯飲んだような⋯でも、それ以降は真っ暗だ。頭が重いのは酒のせいか、それとも何か別の理由か。私は混乱を抑え込み、極めて冷静に口を開いた。
「あの⋯ど、どちら様でしょうか⋯」
隣で寝ていた男は枕に顔を埋めたまま、眠たげに呟いた。
「十二だよ、十二坊ちゃん」
その名前に私の頭の中で何かが繋がった。十二。廟街を仕切る組織の若頭で、九龍城砦にもよく顔を出す男だ。先生や、龍城幫の信一と一緒にいるところをたまに見かける。つり目が特徴的で、人懐っこい笑顔と、独特のヘアスタイルが印象に残る人物。私は彼と顔見知り程度の関係でしかない。四仔の診療所で見かけたりすれ違うこともあるが、それ以上の接点はないはずだ。
なのに、なぜ彼が私の部屋にいるのだろう。私のベッドで無造作に寝ているのだろう。混乱が胸を締め付け、私はおずおずと確認するように尋ねた。
「あの、たまに先生たちと一緒にいる廟街の人、ですよね」
十二はようやく顔を上げ、乱れた髪をかきあげながらニヤリと笑った。その笑顔にはどこかいたずらっぽい光が宿っていて、私をまっすぐ見つめる視線に気圧されそうになる。
「センセイ、あ、四仔か! そうそう。オレ、半分この城砦の住人って言われてるくらい入り浸ってんの。お前のことも前から知ってるよ」
彼の言葉に私は一瞬たじろいだ。確かにここは私の部屋だ。壁には色褪せたお気に入りの映画のポスターが貼られ、窓際には前の住人が置いていった壊れかけのラジオが埃をかぶっている。見慣れた景色のはずだ。だが、十二がそこにいるだけで、まるで別世界に迷い込んだような違和感が広がる。私は上半身裸で、慌ててシーツを胸元まで引き寄せていた。十二の肩や腕には大小さまざまな古い傷跡が刻まれ、黒社会での荒々しい生き様を静かに物語っている。私は彼の視線に耐えきれず目を逸らし、声を絞り出して核心に迫った。
「それで、あの、私たちはなぜこんな⋯一緒に、その、ベッドに⋯」
十二は首をかしげ、ゆっくりと天井を見つめた。その仕草は妙にゆったりとしていて、まるでこの異常な状況を心から楽しんでいるかのようだった。
「うーん⋯何でだろうな。お前、昨夜いい飲みっぷりだったからなぁ。オレも起きたばっかりで頭働いてなくってさ、やべ、パンツどこだ」
「飲みっぷり⋯」
私は彼の言葉に首を傾げた。曖昧な答えに混乱が深まるばかりだ。すると、彼は勢いよくシーツをめくり始めた。私は顔を真っ赤にして咄嗟に反対側へ視線を逃がした。心臓がバクバクと鳴り響き、頭が熱くなる。九龍城砦という混沌に慣れているつもりでも、この状況は別格だ。十二は平然と立ち上がり、部屋の隅に放り投げられていたズボンを拾い上げた。その動きには一切の気まずさがない。
「なぁ、お前昨夜のこと覚えてる?」
彼が突然振り返り、私をまっすぐ見た。探るような目つきに私は首を横に小さく振った。
「たまにはって、ちょっとだけ飲んで帰ろうとしたところまでは覚えてるんですけど⋯それ以降は、何も⋯どうにも頭が重くて⋯」
「ふーん、そうだろうな」
十二は曖昧に笑い、肩をすくめた。そして、ゆっくりと私のそばに近づいてきた。彼はベッドの端に膝をつき、私を見下ろす形になった。距離が近すぎて息が止まりそうになる。彼は私の顎を軽く指で持ち上げ、真っ直ぐ見つめてきた。その指先は少し冷たく、ゾクッとする感覚が背筋を走った。
「まぁ、オレもさっき起きたばっかだし、細けぇことはわかんねぇけどさ。お前、昨夜すげぇ楽しそうに飲んでたぜ?とりあえず、オレたちに与えられた選択肢はふたつだな。無かったことにしてそれぞれの日常に戻るか——⋯」
彼は一瞬言葉を切り、私の目を覗き込むように顔を近づけた。吐息が頬にかかり、心臓が跳ね上がる。
「オレがちゃんと責任を取るか」
その言葉に私は息を呑んだ。責任?何の責任だ?彼の口調は軽いのに、その裏に何か隠れている気がしてならなかった。顔が熱くなり、混乱したまま尋ねた。
「責任って⋯何の?」
十二はニヤリと笑い、突然私の肩に手を置いた。私は反射的に後ずさろうとしたが、彼の動きの方がずっと速かった。次の瞬間、私はベッドに押し倒されていた。シーツが乱れ、彼の重みが私を包む。
「何のって⋯お前はどう思う?」
彼は私の上に覆いかぶさり、低い声で囁いた。目の前には乱れた髪と、鋭いのにどこか優しい瞳がある。息が触れるほどの距離に、心臓が激しく鳴り響く。彼の柔らかくない手のひらが私の頬をそっと撫で、そのまま首筋に滑ってきた。私は動くこともできず、ただ彼の跳ね上がった眦を見つめ返すしかなかった。十二の指が髪をかき上げるたび、微かな震えが全身を走る。彼は私の髪を一房指に絡め、ゆっくりと顔を近づけた。額に触れるか触れないかの距離で一瞬止まり、私の反応を伺うように見つめてくる。そして、そのまま私の額に軽くキスを落とした。
唇が触れた瞬間、全身が熱くなる。彼は少し離れて、私の顔を見て笑った。その笑顔があまりに近くて自分の部屋だというのにどこにも逃げ場がない。
「なあ、面白い状況だろ?男と女がこうやって朝を迎えるなんて、運命みたいだ。お前の部屋でこんなことしてるなんてドキドキするよな。まぁ、酔っ払ってただけなんだけどさ」
私は言葉を失ったまま、ただ彼を見つめた。十二は私の髪を弄びながら、いたずらっぽく笑った。
「それともやり直す?今度はちゃんと覚えてられるようにさ。お前がそんな顔してると、もっと近づきたくなるんだけど」
その言葉に私の心臓がさらに跳ねた。やり直すって何を? 彼の声は軽やかで、まるで冗談のように響く。でも、その距離、その視線、そして首筋に残る彼の指の感触が私を逃がさない。私は顔を背けようとしたが、十二は私の頬に手を添えて引き戻し、再び目を合わせた。耳元で囁く声が、さらに心を乱す。
「おっと、冗談だって。まぁでも⋯」
彼は急に明るい声に切り替えた。
「腹減ったな。朝メシでも食おうぜ。お前、なんか作れねぇの?」
「はい?」
私は呆然としたまま、しばらく彼を見つめた。押し倒されて心を乱されたばかりなのに、この軽い切り替えは何だ?頭が混乱する中、渋々ベッドから起き上がり、「⋯何かあるか探してみます」と呟いた。着替え終わると十二も立ち上がり、私の後ろを着いてきて小さなキッチンに勝手に入り込んで棚を物色し始めた。その自然な振る舞いに、私はさらに戸惑いを覚えた。
「へぇ、インスタント麺か。まぁ悪くねぇな。オレ、卵入れて食うのが好きなんだよなあ」
「卵はうちにはないの」
「ごめんごめん。入れろって意味じゃないから気にすんな」
彼のペースに巻き込まれ、私は鍋に湯を沸かし、麺を茹で始めた。狭い部屋にスープの匂いが漂う。すると、背後に気配を感じた瞬間、十二が後ろからそっと抱きついてきた。彼の腕が私の腰に回り、頭の上に顎を乗せられる。私は驚いて固まり、鍋をかき混ぜる手が止まった。
「なんかこういうのっていいよな。仲良しカップルみたいっていうかさ」
彼は私の耳元で囁き、低い声で笑った。私は顔を真っ赤にして振りほどこうとした。
「ちょ、ちょっと!」
だが、彼は軽く笑ってさらにぎゅっと抱きしめてきた。スキンシップの多さに頭がクラクラする。なんとか彼を振り払い、麺を丼に分けてテーブルに向かい合って座った。気まずい沈黙の中、十二が突然口を開いた。
「なぁ、お前、名前はなんだっけ?自己紹介から始めようぜ」
私は箸を止めて名乗り、よろしくとだけ答えた。
「いい名前だな。オレは十二。まぁ、知ってるか」
彼はニヤリと笑い、麺を啜った。あっという間に食べ終わり、スープを飲み干すとポケットから飴玉を取り出して口に放り込んだ。そして、ふと思いついたように言った。
「なぁ、まずはお友達からってのもいいけどさ——お友達って言うより、恋人の方がロマンチックで良くないか?」
その言葉に私は動揺し、箸を思わず落っことしそうになった。
「恋人?あなたと私が!?」
十二は私の反応を見て笑い、私の手を握った。その温かさにドキリとする。彼は真っ直ぐ私を見つめて続けた。
「オレとしては別にそういう意味でのオトモダチでも構わねぇよ。でもどうせなら愛情も込めた方がいいだろ? お前とこうやって朝メシ食ってるの、なんかいい感じだし」
私は顔が熱くなり、彼の手を振りほどこうとしたが、力が抜けて動けなかった。十二は人懐っこく笑いながら、私の手を握ったまま飴をガリガリと音を立てて噛み砕いている。その時、けたたましいビープ音が部屋に響いた。彼がポケットから無線呼び出しを取り出し、点滅する赤いランプを見て目を丸くした。
「やべ! 兄貴が呼んでる」
彼は慌てて立ち上がり、靴を履き始めた。私は呆気にとられつつ、「あ、うん、気をつけて」と呟くことしかできない。
「朝メシありがとな! 次は俺がご馳走するから廟街でデートしよう」
十二はドアに向かいながら振り返り、ニヤリと笑って再び額に軽くキスを落とした。
「何すんの!?」
「だって、オレたちさっき恋人になったじゃん?」
私は驚いて声を上げ、彼を睨むが十二はケラケラと笑うだけだ。
「行ってらっしゃいのキスしてくれてもいいんだぜ?」
「ば、バカ!なってない!とっとと出ていって!」
「また来る」
ふざけて唇を突き出してきた十二のことを私は顔を真っ赤にして押し出した。彼は笑いながら嵐のように部屋を出て行き、階段をリズミカルに駆け下りる音が遠ざかっていった。私はドアを閉め、胸を押さえてその場に座り込んだ。頭が混乱する中、彼の甘い言葉と強引なキスやデートの約束が頭から離れなかった。
「一体なんなのあの人訳わかんない⋯」
すると、再びドアがノックされた。私はまさかもう戻ってきたのかと急いで立ち上がり、警戒しながらドアを開けた。だが、そこには十二ではなく四仔が立っていた。往診用の鞄を肩にかけ、怪訝そうな瞳を覆面の隙間から覗かせて私を見下ろしている。
「いま、お前の部屋から出ていったのって十二だったよな?」
四仔は目を細めて言った。私は一瞬言葉に詰まり、誤魔化すように手を引いて彼を招き入れた。
「え、えっと⋯ちょっと上がってよ。お茶入れるから」
怪訝そうな顔のまま四仔は部屋に入ってきた。私は急いでやかんを火にかけ、茶碗に茶葉を入れながら、彼の視線を感じていた。彼はテーブルに座り、空になった二つの丼を見つめながら腕を組んだまま言った。
「男を易々と家にあげるな。危ないだろ」
私はお茶を淹れながら、肩をすくめた。
「先生はいいでしょ。一途だし」
「そういう問題じゃない」
「怒らないで聞いて欲しいんだけど⋯実は私あの人がなんでうちにいたのか、覚えてなくて⋯」
「覚えてないだと?」
四仔の目が一瞬鋭くなり、私は慌てて状況を説明し始めた。朝目覚めると十二がベッドにいたこと、帰り道で酒を飲んでて十二と一緒に過ごしたが記憶がないことを。
「それは変だな」
「え?」
「十二は酒を飲まないしタバコも吸わない。あいつ、そういう依存するものには一切手をつけない。いつだって素面だ」
私は目を丸くした。四仔はお茶を一口飲み、静かに続けた。
「あいつはかつて薬物中毒で廃人寸前まで落ちて、そこから這い上がった芯のある強い奴だ。俺はヤツとは腐れ縁みたいなもんで、友人じゃないとは言わないが⋯それでも黒社会の奴らにはいい印象はない」
その言葉に、私は昨夜のことを頑張って思い出そうとする。確かに私は一杯飲んで、誰に声をかけられたところまでは覚えている。でも、十二は酒を飲まない。なぜ私がこんな状況に?てっきり酒の勢いで⋯とばかり思い込んでいた。ならばどうしてあのような思わせぶりな態度を十二は取っていたのだろう。
「お前、十二に何か仕掛けられてるんじゃないか?」
それからしばらく経ったある日の夕方、再びドアがノックされた。毎月の集金日はまだだし、私は誰だろうと訝しみながらドアを開けると、そこには十二が立っていた。「よっ!」と軽く手を挙げ、彼はまるでそこが自分の家であるかのように自然に中に入ってきた。
「今日は晩メシ食いにきたぜ」と言いながら、十二は私の小さなテーブルにドカッと座り込んだ。まるで昔からそこにいるのが当たり前かのような態度に、私は一瞬呆気に取られた。だが、彼の手には紙袋が提げられていて、中から廟街の屋台で買ってきたらしい魚蛋の串焼きと雞蛋仔の香ばしい匂いが漂ってきた。
「ほら、手土産な。ウチの一番人気の店で買ってきたんだ。腹減ってるだろ?」
彼はニヤリと笑い、私に紙袋を手渡してきた。私はそれを手に持ったまま、少し戸惑いながらも「ありがとう」と呟く。実は私も、夕飯にと雲吞湯を用意していたところだった。鍋には澄んだスープが静かに温まり、小さなワンタンがぷかぷかと浮かんでいる。軽く済ませようと作っていたもので、ほのかに葱の香りが部屋に広がっていた。十二が来たことで少し慌てたが、彼がテーブルに座るのを見て、「じゃあ、それも一緒に食べようか」と提案した。
こうして、十二と私は小さなテーブルを囲んで晩飯を食べ始めた。魚蛋の串焼きを箸でつまみ、雞蛋仔を半分にちぎって分け合った。私が鍋から温め直した雲吞湯を丼に取り分けてやると十二は興味深そうに覗き込み、スプーンを手に持った。
「仕事で疲れてるときは、これくらいがちょうどいいんだよ。軽いし、手間もかからないし」
「ちっちゃいワンタンがなんか可愛いな。オレ、こういうの食うの久しぶりかも」
彼は一口啜って目を丸くし、「うまいじゃん! スープがあっさりしててさ」と笑った。私はその反応に少し照れつつ、彼の自然な態度に引き込まれていくのを感じた。彼がスプーンを口に運ぶたび、ワンタンを楽しそうに眺める様子が妙に印象に残った。
十二は自身の尊敬するタイガーと呼ばれるボスの話、街の噂話や屋台のおじさんとのやりとりを楽しそうに語った。私は相槌を打ちつつ、彼の飾り気のない姿に少しずつ引き込まれていく。
「あの⋯わざわざうちまでやってきたってことは、今日も泊まっていくつもりなの?」
十二は魚蛋を口に放り込んだまま、目を丸くして私を見た。「晩メシ食いに来たって言ったろ? 何だよ、お前、もしかしてオレに泊まっていってほしいわけ?」と、まるで当たり前のことを聞かれたような反応を返してきた。
「まさかオレが添い寝してやらないと寂しくて寝られなくなっちまったのか?」
その言葉に私は一瞬固まり、顔が熱くなってきて、「いや、そういうわけじゃなくて!」と慌てて否定したが、彼はまた笑って話を流した。
結局、その夜は普通にご飯を一緒に食べて、他愛のない話をして過ごした。十二は食後に口直しだと飴玉を口に放り込み、立ち上がって靴を履きながら「じゃあな、戸締りちゃんとしろよ」と軽く言ってドアを出た。私は彼を見送り、ドアを閉めた。
ぱたん。
ドアが閉まる音が部屋に響き、私は一人残された空間で小さく息をついた。心のどこかで四仔の『十二に何か仕掛けられたんじゃないか?』という言葉が引っかかり、彼に完全に気を許せないままだった。
その週末の夜だった。仕事が立て込んでしまい、帰りが遅くなった私は、九龍城砦の薄暗い路地を早足で歩いていた。湿った空気が肌にまとわりつき、遠くで聞こえる住人たちの喧騒が夜の静寂を切り裂いている。そんな中、背後からざわめくような声が近づいてきた。
「やっと見つけたぜ」
低い声に振り返ると、見知らぬ男が二人、私を挟むように立っていた。薄光の中で見える顔に、見覚えはない。私はギョッとして足を止めた。
「おまえのせいでメンツ潰されたんだよ」
一人がニヤニヤしながら私の肩に腕を回してきた。私は困惑し、心臓が跳ね上がるのを感じた。
「な、何するつもり!?」
声を上げたが、彼らは意に介さず近づいてくる。
「やだ、やめて!」
私は激しく抵抗した。だが、もう一人が私の腕を掴み、「うるせぇな」と手を上げそうになった。恐怖で足がすくみ、口を塞がれて声も出せなくなる。絶体絶命だと思ったその瞬間、ドンッという鈍い音が響き口を塞いでいた男が後ろに吹き飛んだ。私は目を丸くした。何かと思えば、そこには十二が立っていた。彼の手には、先ほどまで持っていた紙袋が握り潰され、中から燒賣が地面に散乱していた。蒸した焼賣の香ばしさが一瞬漂ったが、すぐに路地の湿気に飲み込まれた。
「オレの女に何してんだ?」
低い声で言い放つと、十二は私の腕を掴んでいた男の襟首をつかみ、軽く振り回すように地面に叩きつけた。私が呆然と立ち尽くす中、彼は二人をあっという間にのしてしまった。倒れ込んだ二人を前に、十二は私を振り返った。
「耳塞いで後ろ向いてろ」
その声は短く、鋭かった。私は混乱しながらも言われた通りに両手で耳を塞ぎ、路地の壁の方を向いた。背後で何かがぶつかる音や低い呻き声が聞こえたが、じっと我慢していると、少し時間が経ってから声がした。
「もういいよ」
振り返ると、十二が近づいてきて、いきなりぎゅっと抱きついてきた。私はまだ震えが止まらず、彼の温かさにすがるように身を預けた。
「大丈夫か?何かされてないか?」
「う、うん⋯」
彼は私の顔を覗き込み、心配そうに尋ねてきた。私は小さく頷くのが精一杯だった。
「念のため四仔のところで診てもらおう。怪我がなくても安心した方がいいだろ」
十二は私の肩を抱きながら、優しく促してきた。私は少しずつ落ち着きを取り戻しつつ、散乱した食べ物と倒れた男たちに目をやろうとした。
「だーめ。見なくていいよ。あんな奴ら」
十二が私の顔を両手で挟んで引き戻し、笑いながら遮った。彼の真剣な瞳にドキリとしつつ、私はただ頷いた。
「怪我はない。大丈夫だ」
四仔の診療所に着くと、彼は私を一瞥して冷静に告げた。だが、十二は納得いかないようで横から割り込んだ。
「なんか嫌だから消毒だけしといてくれ!ほら、ここんとこ、肩んとこ!あと腕もだ!あいつらに触られたとこ全部綺麗にしてやってくれよ」
私の肩や腕を指さしながら大げさに騒ぎ立てる十二に、四仔は呆れた顔を向けた。
「そんなに騒ぐならお前がやれ。慈善事業じゃないんだ」
そう言いながらも、四仔はたっぷり消毒液を染み込ませた布を十二に放り投げた。私はぼんやりとそのやりとりを見ていたが、四仔がふと十二に尋ねた。
「それより、お前が紙切れにしたというそいつらは大丈夫なのか?またやりすぎたんじゃないだろうな」
「知らねぇよ」
十二はいつもの飴玉を口に放り込み、とぼけた顔で肩をすくめた。
「まぁ、信一が適当に落とし前つけてくれるだろ。アイツ、そういうの得意だし」
「クソ黒社会め⋯」
呑気に笑う十二に、四仔はため息をついた。私は二人のやりとりに目を奪われつつ、心のどこかで安堵していた。
四仔の診療所を出て、私の部屋までの帰り道を十二と並んで歩く。夜の路地は静まり返り、遠くの喧騒が微かに聞こえるだけだ。
「お前が最初にオレと朝一緒に目覚めたあの夜——お前、オレじゃなくてあいつらに絡まれてたんだよ。路地裏でフラフラしてて、変な薬飲まされたみたいで危ないところだった。そこに運良くオレが通りかかってぶっ飛ばして、お前を部屋まで運んでやったわけ」
私は目を丸くして立ち止まった。路地の壁に手をつき、彼の言葉を反芻する。
「じゃあ、私に声をかけてきたのって⋯あなたじゃなくて、あの男たちだったの?」
「うん。先越されちゃったな」
十二は少し拗ねたように唇を尖らせた。
「オレがお前と仲良くなりたかったのにあいつら余計な真似しやがって。コテンパンにしてやったけどな。今日だって、お前と一緒に食おうと思ってた燒賣ぐちゃぐちゃにしやがったから、台無しになった分もきっちり仕返ししてやった」
「⋯あなた、私のこと助けてくれたの?」
私が尋ねると、彼は真剣な目で私を見た。
「そう。殺されててもおかしくなかったんだぞ。意識が朦朧としてて、何も覚えてねぇみたいだったけど、ほんとギリギリだったんだから。見つけたのがオレでよかった」
私は彼の言葉を頭の中で整理した。胸の奥に温かいものが広がるのを感じながら、疑問が一つ浮かんだ。
「ちょっと待って。じゃあ、私たち⋯なんともなかったってこと?」
「まぁ、そういうこった。オレとお前が一緒に朝を迎えたのは、ただのお節介だったわけ」
私は顔が熱くなり、思わず声を上げた。
「じゃあなんで服着てなかったの!?」
十二はケラケラと笑いながら私の肩を抱いた。
「オレ、寝る時裸派だからさ!」
「紛らわしいことしないでよ⋯って、私の服は脱がせなくていいでしょ!」
私は抗議したが、彼は誤魔化すように笑った。
「だから、お前薬盛られて大変だったって言ったじゃん」
「ほんとに何もなかったの?」
私が念を押すと、十二は私の目を覗き込んで、「お前はどっちだと都合がいいんだ?」と、意地悪な笑みを浮かべている。私は言葉に詰まり、顔を赤らめたまま黙ってしまった。彼は私の頭を軽く叩いて歩き出した。私はまだ混乱しつつも、彼の温かさに安心感を覚えながら後を追った。二度も助けてくれたことへの感謝が、胸の中で静かに膨らんでいた。
部屋に着くと、私はドアの前で立ち止まり、彼を見上げた。夜風が冷たく頬を撫で、路地の暗がりに二人の影が長く伸びる。私は少し迷いながら、ぽつりと呟いた。
「あがらないの?」
「だって手ぶらだし、もう理由がなくなったしな」
十二は肩をすくめて笑った。私は彼の顔を見つめ、胸の鼓動が少し速くなるのを感じた。そして、意を決して言葉を紡いだ。
「恋人⋯ならいいんじゃないの。私は、十二のこともっと知りたいって思ってる」
次の瞬間、十二が力強く私の肩を抱き寄せ、その手が私の顎をそっと持ち上げる。彼の顔が近づき、吐息が唇に触れるほどの距離になった。私は自然に目を閉じ、心臓が跳ねるのを抑えきれなかった。そして、十二の唇が私の唇に重なった。柔らかく、温かい感触が全身に広がり、時間が止まったような感覚に包まれる。彼は少し離れ、私の目を見つめて囁いた。
「それなら、また来る理由ができたな」
私は顔に熱が集まるのを感じながら小さく頷いた。彼の温もりに、甘い感情が混じり合う。そして、私は静かにドアを開け、彼を部屋に招き入れた。