失楽 すっかり日が暮れ、一際大きな星が空に瞬く頃。外出を終え、ふらつく足取りで家まで辿り着いた。疲れた身体でそのまま居間を抜け、寝室へ向かう。
寝室の扉を開け、まず目に入ってくるのは豪奢な天蓋付きのベッド。そして、そこで眠るロキだ。
カーペットに足跡を残し、ベッドの方へ歩み寄る。月明かりの下、白いシーツに横たわるロキは人ならざる美しさを放っていて、まるでおとぎ話か何かのワンシーンを切り取って「そこにある」ように見えた。実際、人ではない訳だが。
薄く色付いた唇に口付け、ベッドのへりに腰を落とした。
「ただいま、ロキ。今日もいい子にしてたか」
紅い髪を撫で付ける。柔らかな手触りを楽しむように摩っていると、石鹸の香りが上ってきた。
ロキは相当深く眠っているようで、俺が声をかけようと触れようと目を覚まさなかった。
これは今に始まったことではない。いつからか、ずっとこうだ。しかしどの時期に、何があってこうなったのか、の答えは俺の記憶の中にはない。
気が付いたらロキはこうなっていた、と言うしかないのだ。当時の俺は、それはもう大いに取り乱した。自分自身、あの頃は本当にどうかしていたと思う。どうにか目覚めるよう手は尽くしたが、何も得られずじまいだった。方々に協力を求めたが、力を貸してくれなかった者ばかりだった。
その後、現状できることがないのならば、と眠るロキとの生活が始まった。異世界の悪魔──メギドであるロキは、外見こそヴィータとはほとんど遜色ないが、中身は全くもって違う。元々そこまで食べる方ではなかったが、眠りについたことで「何も口にしなくなり」、それ故に排泄もしない。それでも、ついロキの分の料理を作ってしまうことが未だにある。結局、それは捨ててしまうのだが。ロキのために作った物なのだから、そのまま食べる気にも保存しておく気にもならない。
かと言って何もしていないのかと言われると、それは違う。身体を朝と夜の二回、念入りに清めている。ロキに埃が積もるなんてことは、あってはならない。石鹸は手で丁寧に泡立て、身体を刺激しないようぬるま湯で流す。それが終わったら、肌に優しい絹の寝間着を着せ、髪をしっかり乾かす。俺自身の入浴より時間をかけ、丹念に行っている。
「ちょっと待ってろ、今風呂の用意を──っとぉ……! ぁぐ……」
ベッドから立ち上がり、一歩踏み出したところでカーペットに足を取られてしまった。そのまま俺は前に倒れ、硬い床に身体を叩き付ける。要は多少の受け身を取ることすらできず、みっともなく転んだのだ。頭部からべたん、といったせいで、顎をしたたかに打ってしまった。上下の歯がえぐれる程の勢いで噛み合い、音が鳴る。
その時の慌ただしい物音よりも、木の床が軋む耳障りな音と俺の呻き声の方が、やけに響いた気がした。
「う、っこの、ん……あ……? 足が……」
身体を起こそうと足に力を入れるも、下半身から伝わるのは違和感ばかり。いくら踏ん張ろうと、何故か足は棒になったかのように動かなかった。しっかり歩けるようになったはずなんだがなぁ、なんて考えながら、俺は手と膝で這ってドアの方へ進んだ。立てないのなら立てないので仕方がない、今やるべきことをやらねば。目線が低いからか、月光に照らされて舞う埃が良く見える。
扉の前で膝立ちになり、手を伸ばしてドアノブをひねる。部屋側へドアを引く時にまた転びそうになるも、何とか扉は開いた。尚も四つん這いのままで先へ──
「(──違う。こんなの、おかしい。何かが……)」
ふと、何かどうしようもない不自然さを感じた。どこかがおかしい、と言われれば、それは今の状況全てがおかしいのではないか。
いつまでも目覚めないロキに、それを何でもないことのように受け入れている俺。眠っているとはいえ、生理的な機能が何もかも起こらないのはおかしい。そもそも、本当に眠っているだけなのだろうか。そしてそのことに、何も違和感を覚えず、ただ毎日身を捧げている俺も、どこか、変なのではないか。
今のロキは、一体どうなっているんだ。
それを確かめるべく、開けた扉はそのままに部屋を振り返った。そして絶句した。
柔らかい色の壁紙が貼られていたはずの壁は、土が剥き出しになっていた。厚いカーペットが敷かれていたはずの床にあるのは、ぺらんと薄い動物の皮一枚のみ。そして何より、ロキの寝ているベッドには、天蓋なんて付いていなかった。ボロボロの、ところどころシミの付いたシーツ。その上で、硬いブランケットにくるまりロキは眠っていた。
「嘘……だろ。何だ、これ……」
幻覚を見ている。そうとしか考えられない。
頭が真っ白になって、とにかくベッドへ急いだ。木の床のささくれが手に刺さったが、そんなもの気にしていられなかった。幾度もつんのめりそうになりながら、何とかベッドへ辿り着く。ブランケットを剥がし、汚れたシーツを引っ掴み、ロキの顔を覗き込んだ。
身動ぎ一つせず、ただ「そこにある」。その美しさも相まって、まるで人形のように見えた。
恐る恐る、ロキの身体に触れた。氷のような冷たさで、五秒と触っていられなかった。そのまま、俺の体温で溶けていってしまいそうな錯覚すら感じる程に。ロキに触れた手が、腕が震える。
身体が、恐ろしく冷たい。それが意味するところは、つまり──
「……違う!!」
おぞましいことを考えてしまった自分に嫌悪感を抱き、力いっぱい自身の腹を殴りつけた。力の逃がし所もなく、殴るまま床へ仰向けに倒れた。
──ロキが死んだ。死んでいる。そんなことは、ありえない。証拠はない。むしろ、それを証明するものばかり転がっている。けれど、それを認めてしまったら、俺は。
「はっ……う、ぶ」
一瞬のうちに吐き気が上ってくる。自分で自分を殴って、そのせいで嘔吐くなど間抜け過ぎて笑えてくる。だが口から出てくるのは空気の塊ばかりで、胃液すら吐き出せなかった。そういえば、最後にまともな食事を摂ったのはいつ頃だっただろうか。覚えていない。
凄まじい寒気を感じているはずなのに、脳味噌は熱く、ぐちゃぐちゃになっていた。どこから真実で、どこから俺の妄想なのかが分からない。
違う。これは全て俺の妄想なのだ。何もかもが夢で、目が覚めたらいつも通りに戻っているはずだ。
今この状況こそが狂気であり、早く正気に戻らなければならない。
夢ならば、早く覚めれば良い。固く目を閉じる。いや、これではきっと足りない。力の抜けた手で、それでも精一杯自分の腹に拳を叩きつけた。何度も、何度も、何度も──
☆
「──ん、あ……?」
身体が怠い。いつの間にか寝ていたようだが、ここはどうやらベッドの上ではないらしい。重い瞼を上げ、身体を起こす。ぎし、と床が耳障りな音を立てて軋んだ。何か、酷く不愉快な夢を見ていたような気がする。
寝ぼけまなこで辺りを見回すと、そこは寝室ではあった。すぐそばに、ロキの眠る大きなベッドがある。だが、どういう訳か床で眠っていたらしい。そのせいか、身体の節々が痛む。
窓からは、淡い金色の月光が差していた。そうだ、夜ならロキを風呂に入れなければ。それが、そうするのが正しいから。ずっとそうしてきたから。
「ちょ……っと待ってろよ、ロキ。今、準備してくる……」
やけにふらつく足を何とか立たせる。
ロキから離れ、寝室の出口へと向かった。