九尾のキツネとキケンな同居 都心のバークラブは週末のせいもあってか活気づいていた。シャンデリアの下がる薄暗い店内。ベルベットのボックスソファに腰かけて、モストロコーポレーションのCEOアズール・アーシェングロットは注がれたばかりの酒のグラスをゆらゆらと揺らしながら、ホステス達の話しに耳を傾けていた。
「こわ~い! 九尾のキツネに化かされちゃう!」
「キツネ?」
アズールの隣に座っていた取引先の男がそう聞き返すと、給仕にあたっていたホステスがそのうつくしい口角をいっそうほころばせてたのしそうに笑った。
「街で出ている噂話ですよ」
「なんだ、くだらない」
文脈と関係のない単語が気になっただけなのだろう。男はすぐに興味を無くしたのか、手元のビールジョッキに視線を落とした。
「そうですか? 僕は気になりますよ」
「アーシェングロットくん、正気かね?」
「社長としたお取引はすべて暗唱できますよ」
「そつは正気だが、ある種狂気だ。耳が痛いね」
男は苦笑いをしながらビール片手にホステスの肩を抱く。スキンシップの多い男だ。こういう手合いの男が交渉相手じゃなければ、アズールはクラブになど脚を運ばなかっただろう。
「アーシェングロットさんは興味がおありです?」
「僕だって若い人の話題についていかないと」
「何言ってるんですか! アーシェングロットさんそんな歳じゃないでしょう」
グラスに入ったウイスキーを傾けながらアズールが人好きする笑みで返す。それはどんなホステスよりもずっと美しい、計算尽くされた微笑みだった。
「何年か前、夕焼けの草原で一時期連続殺人事件があったでしょう。おなかを刺して、わりとむごい感じの」
「ええ、ありましたね」
アズールはホステスの話を聞きながら、一時朝刊の一面を賑わせていた事件のことを思い出していた。
「あれが人の肝を食らうモンスターの仕業だと?」
「さすがアーシェングロットさん。察しがいいですね。美しい容姿をしてはいるけど、その正体は何百年も生きる九尾のキツネだって、ここ最近どこから火が付いたのか話題なんですよ」
「ありえんだろう!」
「その噂が本当なのだとしたら……」
豪快に笑い飛ばしている男の声を遮るように、アズールが落ち着いた声を上げた。そうして、次の言葉を発する前に勿体ぶってロックグラスを一気に煽る。お得意の人心掌握術。要はただのパフォーマンスだ。空になったグラスを見て、ホステスがおかわりのウイスキーをアズールのグラスに注いだ。
「もうここには来れませんね。これだけの美貌を持った方が居たのなら、化かされていたとしても気付けません」
「……」
「……」
誰よりも美しいかんばせでアズールが放った一言に、ボックス席の中はシンと鎮まり返った。時が止まったかのような静寂の後、ワッと場が賑わう。
「もう! アーシェングロットさんたらお上手ですね!」
「アーシェングロットさんがキツネなんじゃないかと思いましたよ」
「おいおい。見せ場を持っていくのはやめてくれよ」
「滅相もありません」
そんなに美しい存在がいるのなら、是非ともお会いしたいものだ。
盛り上がる卓を見回しながら、アズールは心の中で皮肉っぽく悪態をついた。九尾のキツネだなんて、くだらない与太話だとアズールはこの時本気で考えていたのだ。この後自らに降りかかる九尾のキツネとの縁など知る由もなく。
***
知らない番号から着信があってイデアは顔をしかめた。イデアのスマートフォンには基本、知った顔からしか連絡は来ない。イデアが所属している研究所の所員や、オタク友達のリリア。論文を寄稿した出版社などが主だった面子だった。イデアの番号は門外不出と言っていいほどのセキュリティでガードされており、今の今までセールスの電話すら来たことがない。
(どこのどいつだよ全く)
イデアは着信音を聞かなかった振りをしてパソコンに向き直った。数回コールをした後、スピーカーから留守番電話に切り替わる音がして、ほっと胸を撫でおろしたのも束の間。
『ん? シュラウド、いないのか?』
「マ、マレウス氏!?』
留守番電話に録音され始めた七百年来の知人の声を間違えるはずがなかった。それくらい、茨の谷の王 マレウス・ドラコニアは人嫌いのイデアにとっても、インパクトが強い。それこそ世界最強の名前にふさわしい男だったからだ。
「七十年ぶりに会って初っ端から奢らされると思わなかったっすわ」
「悪いな、シュラウド。どうもまだ人間の紙幣文化に慣れていないんだ」
コーヒーショップからフラペチーノを片手に満足そうに出て来た世界最強は財布を持っていなかった。突然電話をかけてきて何事かと思って駆けつけてみれば、『財布を忘れたから無銭飲食の疑いをかけられている。後で返すから払って欲しい』と言うなんとも世界最強らしからぬお願い事だった。
「僕だって今の小銭なんて持ってるか怪しいんだからほんとにやめてよ。第一なんで僕なんか呼び出した訳? リリア氏でも、セベク氏でもお供の人呼べばいいじゃん」
「こうでもしないとシュラウドと会う理由ができないだろう。口実だ、口実」
「そんなん、七十年会ってなかったんだし今更。いつだって会えるから会わなかったんじゃん」
「それがそうも行かなくなったんだ」
「は?」
マレウスは手に持ったフラペチーノのストローをずず、と音を立てて吸うと『うまいな』と様相を崩した。昔から氷菓が好きだったし、フラペチーノもその一族みたいなものなのだろう。子供っぽくフラペチーノに勤しむ男が齢千歳弱の妖精族とは、往来を行きかう人々は誰も思わないだろう。
「シュラウド、気付かなかったか? 僕は人間になったんだ」
マレウスは額のあたりをとんとん、とグローブに覆われた指先で示した。どうして気付かなかったのか、マレウスにそう言われて初めてイデアは彼の頭上の大きなツノが無くなっていることに気付いた。人間の住む街でもツノを隠すなんてほとんどしていなかった彼がのツノがないということは、つまりそういうことだった。
「なんで……」
「……そこのベンチにでも座るか」
マレウスが指したベンチは玉座には程遠い古ぼけたベンチだった。イデアも言われるがまま、二人で腰かける。季節は秋。陽光は温かく、涼しい風が心地いい。イデアがひっつかんできたぺらぺらのモッズコートでも寒さは感じなかった。
「わかっていて言わないのかと思ったぞ。そういう『いじわる』なのかと」
「いや、流石にそんなことしませんわ。え、ていうか本当にないじゃん、ツノ……」
妖精族は何百年にも渡り生きている長命種としても有名だったが、その最期は故郷である茨の谷で迎える者がほとんどであり多くは外部に語られていなかった。妖精たちはその生涯をまっとうする前に一度死ぬと言うのだ。妖精としての死だ。妖精の見た目は己が妖精として成熟した時のまま止まると言われているが、妖精としての死を迎えた後、見た目も徐々に老いていく。マレウスにもその妖精としての死が訪れたと言うのだ。
「ようやく僕にも妖精としての寿命が来たようでな。これからはきっと見た目も老いていくだろうし、魔法も使えなくなる。今までのように悠久の時間を遣える訳ではない。七十年なぞあっという間だと思っていたが、次の七十年後にはきっと僕もいないだろう。その前に旧友には会っておかないとと思ったんだ」
平均して五百年といも言われる妖精だが、マレウスの年齢はゆうに九百歳を超えていた。妖精としての死が訪れることは不思議ではなかった。
「過去を偲ぶのなんてお前くらいしか付き合ってはくれないからな」
「……それは、そうかもね」
イデアがそう漏らすと、マレウスは驚いた顔をしたがすぐに『ああ』と満ち足りた顔で頷いた。数少ない同年代の友達と違う輪廻に身を置くことををマレウスは惜しいと思っていたし、イデアもまた少しだけ寂しいと思っていた。
イデアは九尾のキツネだった。
齢はマレウスと同じく九百歳を超え、今年で九九九歳。千歳を目前とした大妖怪だった。国が戦争をしていた時も、鎖国をして国交を閉ざしていた時も、近代技術が発達した時も、イデアはずっと山奥に住んでいた頃から都心に降りて来た今の今まで時代の流れを見て来た。昔は家族もいたが、今は一人。ずっとある願いを叶える為に、百年毎一本ずつ増えていく自分のしっぽと共に生きて来た。
「人間になるってどんな感じ?」
「まだ、諦めていなかったのか?」
マレウスの質問にイデアは首だけを動かして返答した。
──イデアの願いは人間になることだった。
まだ齢が百にも満たない幼いキツネだったころからイデアは人間になりたかった。毎夜、毎夜、水に浮かぶ月に人間になりたいとお願いをし続けた。その願いが百晩続いたある日、イデアの願いは聞き入れられた。イデアを憐れんだ神の遣いはイデアに宝玉を授けた。宝玉の中は赤い炎に満たされていて、人間の精気を吸えばこの宝玉はいずれ青い炎に満たされると言う。そうすればイデアは人間になれるというのだ。
以来、イデアは人間の精気を求めて生きるようになった。
最初は人間に紛れて戦争に参加した。戦争なら、闘いに乗じて人間を襲ってもばれないと思ったのだ。狙い通り、兵士たちから精気を吸うと宝玉に精気が溜まるのがわかった。だが、それは非効率的だった。死にかけの男の精気は質が悪く、大した量を得ることが出来なかった。
次にイデアは娼館に通うようになった。セックスは考えうる限り最高の精気の調達方法だった。若い女の情事の際に溢れる瑞々しい精気は兵士たちのものとくらべものにならないほど質が良かった。
だが、時代は変わっていく。
女を商品として扱う娼館は徐々に姿を消していった。近代化はイデアのパワーだけでは止めることができない。人嫌いのイデアには最悪の時代の幕開けだった。行きずりの女を引っかけるだけの度量などイデアにはなかったが、死活問題な以上やらぬわけにもいかなかった。誰かひとりと真剣に恋愛などをしているほどのリソースを割く時間の方がイデアには惜しかったからだ。
だが、いいこともあった。
近代化によってもたらされたデジタル技術はイデアの興味を引いた。魔術や占いに頼りきっていた時代は終わりをつげ、どんどん科学や電子工学の分野が発達していきやがて魔術のような不確かな存在は鳴りを潜めた。イデアはかねてから才能のあった魔術と電子工学の分野を研究すると、すぐさま頭角を表した。発表する研究は長命を悟られないよう、様々な名義で発表した。所属する研究所も何年かごとに身元を変えて転々とする。人間の真似事なんてまどろっこしいだけだが、こういう場で会った手頃な女を餌にするのが楽だったからという理由も含まれていたのが実際だった。
でも、それもすべてイデアの暇つぶしだった。
何年生きても、生きても、つまらないばっかり。早く人間になって死を感じたい、寿命を感じたいと、不老不死の身を持て余し続けていた。
「……魔力が落ちるのは不便だが、悪くはない。儚いものの尊さを実感できるな」
「はー、人間になっても偉そうで草」
「お前が何百年もかけてなりたがっているものに先になったんだから、僕の方が偉いのは当然だろう」
「うるさい」
イデアがマレウスの腹のあたりを小突く。『痛いな』とマレウスが零すのを見て、本当に妖精じゃなくなったんだなとイデアは実感した。
「ね、楽しい?」
自分がなりたいものになれた友人の顔色を窺いながらイデアがそう聞くと、マレウスはこのうえなく楽しそうに笑った。
「早くこっちに来い」
***
アズールが店を出たのは日付が変わって少し経った頃合いだった。
「ほら、タクシー呼びましたからもうちょっと頑張ってくださいね」
一緒に飲んでいた取引先の男はすっかりい酔いつぶれていた。肩を貸し、腰を支えるが、ほとんど意識のないその身体はアズールにずっしりとのしかかって来る。むにゃむにゃと寝言のようなうわごとさえ言い出すものだから、アズールは男の意識が無いのをいいことにあからさまに眉を顰めた。
(最悪ですね)
アズールが溜め息をつくと、クラクションが鳴ってタクシーが通りかかった。ようやく解放される。アズールがほっと息を吐き出したと同時に目の前に滑り込んできたタクシーのドアが開いた。
「ここまでお願いします」
アズールはタクシーの運転手に男の自宅を書いた紙を渡して、男をひとり後部座席に突っ込んだ。アズールの倍はあろうその巨体を離した瞬間。
「んあ~! 俺の勝手だろぉ!」
男は寝ぼけたのか、アズールの身体を勢いよく振り払った。アズールは反動で道端に倒れ込んでしまう……かと思われた。
「ウワッ!」
「……っっ!」
待ち構える衝撃に備えて受け身を取ろうとしたが、一向に石畳の冷たい感触は来なかった。代わりに身体を何かに支えられて、唇にやわらかい感触がした。ぎゅ、っとつぶった目を開くとそこには……。
「ヒッ」
息を飲む音がして、唇が離れた。アズールの目の前にいたのは、見ず知らずの男で。
(本当に、いるのかこんな……)
美しい男だった。
「す、すいません。助けて頂いたようで……っ」
アズールは男を下敷きにして倒れ込んでいたようだった。すぐにどかなくてはと思うが身体が思うように動かない。何故かと言えば胃のあたりがぎゅうと絞られるようなそんな感覚がして、身体に力が入らなかったのだ。しかもその痛みは時間を追うごとにだんだんひどくなっていく。
「ね、ねえ君、ちょっと!」
「ご、ごめんなさい……ちょっと具合が……」
実際声を絞り出すのもやっとだった。そんなに酒を飲んだだろうか。いや、腐っても接待だ。いつも家で飲む半分も飲んでいない。ああ、だめだ意識が遠くなる。こんな初対面の男の前で、往来で。しかしアズールの気持ちとは裏腹に意識はどんどん遠くなる。
(きっと九尾のキツネなんてものがいるとしたら、こういう顔立ちなんだろうな……)
最期に見えたのは男の金の瞳と青い燃えるような髪だった。
***
「ん……」
アズールはいつも決まった時間に起床している。それは休日でも関係ない。朝五時五十分のアラームで目覚めて活動を開始する。電子音を立てて起床を促すスマートフォンを手探りで探すが見つからない。
(あれ……そういえば、僕、一体いつ帰ったんだっけ……)
昨日は取引先の社長とバークラブで接待だった。男をタクシーに突っ込んだあたりまでの記憶はあるのだが、以降の記憶がぼんやりと霞みがかっている。確か……。
「起きた?」
突然降って来た自分以外の声にアズールは身を起こした。目を開くとそこはいつも自分が寝ているダブルサイズのベッドではなく、黒い革張りのソファの上だった。スマートフォンは変わらずローテーブルの上でアズールの起床を知らずに電子音を流し続けている。視界に入って来た男はそれを手に取ってアラームの停止ボタンを押した。
(そうだ! 僕はこの人の前で倒れて……!)
「アラームうっさ。何いつもこんな時間に起きてるの? 起きてたからいいけどさあ……」
男はくあ、と欠伸を噛み殺しながら地面に胡坐を書いてソファの上のアズールを見上げた。昨日美しいと思った男の美貌は健在で、アズールは柄にもなく緊張してしまっていた。
「す、すいません……! 昨日助けて頂いた方ですよね……?」
「あー、うん……。助けたって言うか……」
男は青い髪を掻き上げながらじとりと金の瞳でアズールを睨んだ。
「返して」
「ハイ?」
男は左手をアズールに突き出して何かを返せと要求してきた。
「君、僕の宝玉食べちゃったでしょ。返してよ」
男はアズールの腹の辺りを確認するように撫でる。途端、アズールの腹がきゅうと締められて昨日感じたような痛みが再びアズールを一瞬襲った。
「っっあ……!」
「やっぱり、食べてるんだよな……」
男が手を離すと痛みは引いた。アズールは額に汗を滲ませながらなんとか体勢を崩すまいと、息を整えながら男に居直る。つまらなさそうに舌打ちをして男は再びアズールの腹を指さした。
「人間になるためにアレが必要なんだよ。千年近く大事にしてきた大事なものなの。だから早く返して」
苛立つのを隠しもせず、アズールの腹の中から何かを出せとせがむ男。アズールは全くもって身に覚えが無く、そもそも腹に入ったものを取り出せなどど無茶な要求をしてくる男に不信感を抱いていた。そもそも、男の話の中には意味がよく理解できない単語があり、アズールにはそれを確認するほうが先決だと感じた。
「人間になる為……?」
「あ、そうか。言ってなかったね……」
『説明するより見せた方が早いか』
男はそう言いや否や辺りは青い炎に包まれた。それは男の髪から燃え広がって、男の身体をドンドン包んで大きくなる。アズールを巻き込まないよう配慮されているのか、ソファには火の粉ひとつ落ちてこない。炎がごうごうと音を立てて天井まで燃え上がりきると、一気に火の手は止んで代わりに炎の中から真っ青なしっぽを九本持つ、巨大なキツネが姿を現したのだった。
「僕は、九尾のキツネなんだ」
──きっと九尾のキツネなんてものがいるとしたら、こういう顔立ちなんだろうな……。
(誰がフラグを立てろと言った!)
アズールは自分で自分の考えに憤慨しながら再びソファにふらりと倒れ込むのだった。