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    san_ph029

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    san_ph029

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    2月新刊(予定)の進捗。たぶん全部で七章ぐらいになるお話の一章冒頭部分で、もう少し書き進んで文量がまとまったら、一章丸々をサンプルとしてどこかに公開します。

    1.“足りない”と“充分”

     あの日、私を覚えていますか、とゼルダが尋ねたとき、彼が曖昧に微笑んだのをよく覚えている。かけるべき言葉を間違えたのだという後悔と、初めて見る彼の表情にどうしようもない寂寥を覚えて、彼女もまた、曖昧に微笑みを返した。


     ****


    「結論から言うネ。リンクは単に百年前の記憶以上のものを失っているヨ」
     ハテノ古代研究所の小さな所長は、ゼルダにそう言った。
    「回生の長い眠りで記憶喪失になることは予想通りだったけど……我々は、その記憶の定義を少し甘く見ていたのかもしれない。脳が記憶しているのは単純な、いわゆる思い出だけではないはずだから。人が生活する上で必要不可欠な日常動作なんかは、身体が覚えているから問題ないケド、物事が意味するところ、いわゆる知識に相当する部分に大きな欠落が見られる。例えば、リンクが近衛騎士として侍っていたころの行儀作法とかは全然覚えてないんじゃないカナ? 一番影響が大きいのは……言葉の知識だネ。発話で使用可能なのは通常成人が知っている単語の数よりずっと少なくて、文章の読解はそれ以下。文字を書くことは極めて困難な状況」
     ゼルダは椅子に腰掛けて、膝の上に置いた手を固く握り締めている。
    「だから、姫様が『別人のよう』と言ったことは概ね正しい感想だと思うヨ。姫様が知ってる百年前のリンクは、任務に忠実な姫付きの護衛騎士だった。騎士としての知識の上にリンクの人格が形成されていたんだネ。もしその知識の一切が失われているなら、今の剣士クンは姫様が知ってるリンクではない、と表現することも間違いではないと思う」
     椅子の上でぴょこぴょこと短い手足を動かしながら説明を続けていたプルアを、ゼルダはもう見つめていない。俯けば視線は自ずと床の木目へ注がれるが、彼女の心は現在軸の視覚情報を離れて、過去を遡っている。
     厄災の討伐に成功し、ゼルダがリンクによって救出されてからひと月ばかりが経つ。療養のために日々のほとんどをカカリコ村で過ごしていた彼女が、ここハテノ村にある古代研究所を訪れたのは、自身の健康観察の他に、リンクの状態についてプルアに所見を尋ねるためだった。内容はゼルダが予想していたよりも深刻で、何を言われても動じまいと思っていた彼女の覚悟を揺らがした。
     ――覚えていなかったのなら。
     返事など、できるわけがなかったのだ。
    「みんなで決めたことだよ、姫様」
     少女の顔をしたプルアが、俯いたゼルダの視界に割り込んだ。
    「ろくに臨床試験もしてない回生の祠に突っ込んで、リンクの回復を待とうって決めたのは、姫様だけじゃないヨ。アタシやロベリーやインパ、他にも事情を知っている人たちみんなで、どうかうまくいきますようにって、そう思って決めたの。あの非常時だったし、姫様が感じている責任とやらは、現場にいた頭数で割って、うまーく分散されてもいいと思わない?」
    「プルア……」
     シモン、お茶入れてヨ、とプルアは少し大きな声で助手に声を掛けた。研究室の隅で本を読みながら空気になることを徹していたシモンが飛び上がって、はいただいまと言いながら慌ただしくしている。気が利かない、使えない、とぼやきながら、プルアはくるりと振り返った。いたずらっぽく笑いながら。
    「それに! 世界はちゃんと平和になった。それもこれも、姫様とリンクが頑張ってくれたおかげ。おまけに姫様の検診の結果はすこぶる良好! 剣士クンもいつものように元気だし、アタシたちが百年かけてやってきたことも報われて、今すごくスッキリした気持ちなの。 ……ありがとう、ゼルダ様」
     やることなすこと滅茶苦茶で、あちこち困らせて回っていたあの放埒な研究者が、年季の入った穏やかな声音でそう言うから、ゼルダはその小さな手を握って、こちらこそありがとう、と返すので精一杯だった。
     湯気の立つカップがゼルダの目の前に置かれ、その温かさに人心地を取り戻す頃、話題は再びリンクに及んだ。
    「見ていて思ったケド、別に本人は大して困っているわけではなさそうなのよネ。記憶喪失であること自体が本人に喪失の自覚をもたらさなかったのかもしれない。とにかく、さっきも言ったけど日常動作には問題がないから、全然あのままでも生きていけるヨ。それ以上は、本人次第じゃないカナ」
    「……それは、失ったものを思い出すかどうか、ということですか?」
    「うーん、頑張って思い出せるかはわかんない。リンクの状態は恐らく不可逆なものだから。知識に関して言えば、思い出すというよりは学び直す、が正解かもしれない。あ、シーカーストーンに残ってたウツシエの場所は大体行って、思い出せた記憶もあるらしいじゃん? きっかけがあれば、戻ることもあるかもネ」
    「リンクには、このことは?」
    「もちろん、伝えてあるヨ。ちょっと難しかったかもしれないけど、理解はできてると思う」
     今しがたゼルダが聞いた内容は、リンクが眠りから目覚めたあと、古代研究所を訪れてからある程度経った段階で伝えられたようだった。大した動揺も何もなかったと聞けば、長い眠りが彼の記憶を奪ったことが、喪失を感じる感情の素地すら平坦にしたのではないかと思って、胸が傷む。
     ――せめて何か、彼に報いることができれば。
     でも、何ができるのだろう。

     ゼルダは研究所の外へ出た。外は日が暮れかかっている。プルアとうっかり話し込んでしまって、カカリコ村へ戻るには少し遅い時間になってしまったから、今日はハテノ村に滞在すると伝えねばならない。風が強い。空は押し流された雲が重なったり離れたりして、その隙間から世界へ斜めに光条が差し込んでくる。建物の周りを探してみると、ハテノ湾を望む崖の縁に立つ青年の姿を見つける。くすんだ麦穂色の髪は、大雑把にまとめてあるせいか所々ほつれていて、そこだけ眩く金に光っていた。
    「リンク」
     声を掛けると、彼は振り返った。日が傾いて光量がないせいだろう、海のような色をした瞳でぱちぱちと数度瞬きをしたあと、足早にこちらへ歩み寄ってくる。
    「ゼルダ。ここ、さむいよ」
    「え?」
     こっち、と手を引かれて、出入り口近くにある青い炎が灯った炉の方へ誘導される。ハテノ村はラネール連峰の裾野に位置する村だ。山肌を撫でるように吹き下ろす風で、このあたりは通年冷涼な気候となっている。研究所はその中でも小高い場所にあることもあって、村の中よりも少し寒い。事実に気がつくと、遅れて寒さがやってきた。それにしても、普段とは違うような。リンクはためらいなくゼルダの手を取って、青い炎へと両手をあたらせた。――まだ慣れない。口調も、行動も、距離感も。それでも礼を述べると、彼は首を横に振った。
    「ネルドラが近いから、風も強い」
    「まぁ。ネルドラが」
     リンクは研究所の裏手、先程まで彼が立っていた崖の方を見ている。どうやら、すぐそこをネルドラが通っていったらしい。残念ながら、ゼルダには見えない。ネルドラは氷の精霊だというから、きっと通過したことで気温が一時的に下がったのだろう。
    「前はちがった」
    「通るルートが変わったんですか?」
     リンクは頷いた。彼が指で示した方角から察するに、いつもはラネール山の周りを飛んでいるのだろう。彼は他の二柱の精霊についても通り道を覚えているようだ。気配があるときは風が吹き、気温が変化することを知っている。表現こそ豊かではないが、訥々と語られた中に伺える経験の知識。これがハイラル中を冒険して彼が得たもの。確かに、新しく学んで記憶することに関しては、全く問題がない。
     ――新しく、学び直す、というのは。
     プルアは気を遣って明言を避けたようだが、つまり失われたその中には二度と戻らないものもあるのだろう。もちろん、失われているから本人は気にしようがない。気にしているのは、明らかにゼルダの方だ。それは単なる責任に由来する感情ではない。しかし、ただの責任感の方がまだましだった、と彼女は考えている。
     リンクが別人のようになってしまったと気がついたとき、彼女は不安よりも寂しさを覚えた。覚えていますか、と口にしてしまったのは、期待があったから。百年の間隙を越えて、その記憶がもしふたりを繋いでいてくれたなら、きっと――
     そう思ったところで、渡る風すら見通せそうな瞳で空を眺めていたリンクと、目が合う。
    「……帰る?」
    「えっ、ああ。ごめんなさい、リンク」
     物思いの内容がばれたのではないかと一瞬錯覚して、ゼルダの顔は熱くなった。頬に手をあてて固まっている彼女に、リンクは不思議そうな顔を向けつつも気遣う。
    「だいじょうぶ? ……まだ、ここにいる?」
     問われた。ゼルダは最初慌てて、しかしそれでは良くないと思い直して、丁寧に要件を説明した。姫様を寝かせるところがない、とプルアには断られたので、麓のトンプー亭に宿を借りるつもりだった。宿賃はプルアに借りている。それから、リンクにはわざわざ説明しなかったが、剣士クンはその辺で寝かせておけばいいというプルアを説き伏せたので、ちゃんと宿賃は二人分ある。リンクはよく頷いて、話をきちんと理解していることを示してくれた。余程込み入った話でもなければ、こうした日常会話は問題なく成立する。
     頬の熱さを忘れるために、坂道を下りながら考える。ほとんど別人といっても、本人には自覚がないし、ハイラルを救った功績はあっても責任なんてものがあるはずもない。未練たらしく失ったものに追いすがるのはやめて、今は自分ができることを考えなければ。このハイラルで、王家の末裔として、ゼルダがすべきことを。そして、リンクのためにできることを。
    「家、ある」
     唐突にリンクがそう言ったので、前を歩くゼルダは立ち止まって振り返った。
    「えっと……お家、ですか?」
    「うん。おれの家。買ったの、わすれてた」
    「リ、リンクの、お家なんですか!? 忘れてたって何……えっ、と、泊まる……? 私が泊まるってこと?」
     リンクは頷いた。それから、行こう、と言ってゼルダの手を引き、先行し始める。とりあえず彼が言っていることはわかるが、説明が簡潔すぎて何が起こっているのかまではよくわからない。優しく手を引かれながら、貴方はもう私の騎士ではありませんよ、といつか伝えた日のことを思い出した。知識もないのに従者然として後ろを付いてきていたはずのリンクが、こうした行動を取ることがその日以来多くなっている。戸惑わずにはいられない。途切れたはずの繋がりではない、何かがそこにありそうで。
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    1.“足りない”と“充分”

     あの日、私を覚えていますか、とゼルダが尋ねたとき、彼が曖昧に微笑んだのをよく覚えている。かけるべき言葉を間違えたのだという後悔と、初めて見る彼の表情にどうしようもない寂寥を覚えて、彼女もまた、曖昧に微笑みを返した。


     ****


    「結論から言うネ。リンクは単に百年前の記憶以上のものを失っているヨ」
     ハテノ古代研究所の小さな所長は、ゼルダにそう言った。
    「回生の長い眠りで記憶喪失になることは予想通りだったけど……我々は、その記憶の定義を少し甘く見ていたのかもしれない。脳が記憶しているのは単純な、いわゆる思い出だけではないはずだから。人が生活する上で必要不可欠な日常動作なんかは、身体が覚えているから問題ないケド、物事が意味するところ、いわゆる知識に相当する部分に大きな欠落が見られる。例えば、リンクが近衛騎士として侍っていたころの行儀作法とかは全然覚えてないんじゃないカナ? 一番影響が大きいのは……言葉の知識だネ。発話で使用可能なのは通常成人が知っている単語の数よりずっと少なくて、文章の読解はそれ以下。文字を書くことは極めて困難な状況」
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