幕間 木々の隙間から落ちてきた雨粒が、ふたりを叩いている。冷え切った肩を抱く手もまた冷たく、手のひらに僅かな温もりが残るのみだ。泥濘んでぐちゃぐちゃになった地面を見つめながら、ゼルダは考えるのをやめてしまった。身体が疲労に抗うことを拒否し始め、段々と重たくなっていく。
不意に、肩を抱く手に力がこもった。俯いて泥を見つめていたゼルダは、不思議な引力によって顔を上げた。時雨によって烟り、色彩を落とした森の中で、いっとう明るく、青く、美しい瞳。真昼の海のような色をしながら、その瞳は炎のように燃えていた。
「――お慕いしております」
そう言って、リンクは今一度、ゼルダを抱き寄せた。――今、彼は何と言ったのだろう。理解が追いつかず、ただされるがままになっている彼女に、彼はゆっくりと言い聞かせるように、話し続けた。
「許し難いことばかり起きます。決起奮戦した同胞のほとんどは城で死に、俺は貴方の大切な方も守れず、貴方は御自分を責めて泣いておられる。ままなりません。ひとつも良いことがない。最低な日です。……ですから、もういいかと思いました」
リンクの身体をそっと押して、離れて彼の顔を見上げる。彼は泣き出しそうな、それでいて笑ってしまいそうな、ひどく奇妙な顔をして、ゼルダを見つめている。
「貴方をお慕いしております。これほど許されないことばかり起きるのだから、もう俺が許されなくたって構わないと思いました。貴方が好きです。だから、貴方を御守りします。命に換えても。貴方を、死なせはしません。俺を信じてください」
場違いなほど明るい青い瞳が、じっとゼルダを見つめている。彼女は射抜かれたように、身動きすることができない。
――このひとは、
なんということを言うのだろう。こんな状況で、暴走したガーディアンに追われていて、この先例え逃げ通したとしても、もはや攻勢に出るだけの兵力などなく、しかしただ彼女が生きていれば良いと言い、そのために彼は命を投げ出しても構わないという。その理由は、彼が騎士だからではなく、ゼルダのことが好きだから。護衛騎士としての職務など忘れてしまったかのように、リンクは自分が仕える主に、本来ではあり得ない口調で口を利いて、あり得ないことを伝えた。
リンクは、知っていたんだろうか。ゼルダの気持ちを。カラカラバザールの一件で命を救われて以来、懸命に彼を理解しようと努めるうちに、ただの側近に抱くべきではない気持ちを抱いていたことを。冷たい石壁の城の中で、出来損ないの姫と謗られ、父王にすら厳しい顔をされた日々の中で、それでもリンクが常に傍にいることが、何よりも彼女の支えだった。許されないことばかり起きたからと彼は言う。今なら口にしてもいいのだろうか? この最低なことばかり起きるこの日に、たくさんの人が彼らを守るために死んでいったこの許し難い日に、許されないことをもうひとつだけ、願ってもいいのだろうか?
ゼルダが口を開きかけたとき、リンクが鋭い目で森の奥へ目をやった。追手が近づいてきているのだろう。立てますか、走れますか、と言って彼が手を差し出す。泥だらけの手だ。ゼルダは迷わなかった。立ち上がり、その手を取る。雨に濡れて滑りかけた手を、離すものかとリンクが力強く握り直した。彼女は、もう一度泣きたくなった。
ノッケ川のほとりを双子山に向かってふたりは駆けた。足元の状況は悪く、幾度かゼルダは転びかけた。ただ、その握った手だけは離さなかった。転倒すればリンクも一緒に倒れてしまうのに、離すことができなかった。
山の間の切り通しまでくると、明らかに背後に迫るガーディアンの気配が近くなった。湾曲したところのほとんどない川面を通じて開いた視界には、こちら側に向かうガーディアンの個体と、バウメル高地を乗り越えていく個体のそれぞれが見えた。どちらも夥しい数だ。ゼルダは前を見た。いや、顔を背けた。高地の向こうには村があった。これからまた、たくさんの人が死ぬ。ゼルダには何もできない。
ひた走る。彼に手を引かれて。村にはガーディアンが侵入し、全てを焼き尽くしていくだろう。ゼルダは走りながら泣いた。嗚咽すると呼吸が苦しくなり、窒息するような気持ちで走った。リンクはこちらを振り返らない。ただしっかりと手を握って、彼女を離さなかった。
心臓へ流れ込む血液が熱い、握られた手のひらが熱い。ゼルダは恐ろしい思いに駆られていた。ずっと、逃げ続けられたらいいのに。そうしたら、ずっとリンクと一緒にいられるのに。何もかもが許し難い世界で、今この瞬間ふたりが許されなくたって、誰にもわからないのに。こんな状況でそう思ってしまう自分が怖い。たくさんの人が今も死んでいるのに、この手をずっと握っていたいと思ってしまう自分が恐ろしい。
――ああ、女神様! だからなのですか! こんなにも私が愚かだから、貴女は私を訪ってはくれないのですか! こんなにたくさんの命が奪われても、この気持ちを捨てられない私が、愚かで、卑しい存在だから!
心を掻き乱されながら、胸をぎゅっと押さえつけた。ふたりは走る。尖った小石を踏みつけ、足の裏に痛みが走っても、ゼルダは止まらない。走ることしかできない。止まればリンクの信を裏切ることになる。彼を信じる気持ちを捨てたくない。頬が燃えるように熱い。流れる涙が風に紛れて千切れていく。膝がじくじく痛む。喉が狭まって呼吸が苦しい。全身がバラバラになってしまいそうだった。――でもこの人が好きだ。リンクが好きだ。どうしようもなく。
力を振り絞って、握られた手に力を込めた。それに応えるように、リンクは痛いぐらいに握り返してくれた。こんなに悲しくて辛いのに、ゼルダは死んでしまいたいほど嬉しかった。
ふたりは双子山を抜けて、クロチェリー平原を駆けていく。すぐ背後からは、ガーディアンが迫っていた。