呆れるほどの晴天に、いっそ暴力的な日差しが上から降ってくる。
まだ少し距離がある海の向こうを見る。青く霞む島の影が徐々に濃い緑へと変わっていく。馬鹿みたいに青い空へ、水彩絵の具を何度も重ねていくように、島が迫ってくる。フェリーは舳先で青い海を白く割りながら、滑るように沖を進む。船体はほとんど上下せず、冬の荒れた日と比べれば天国みたいな船旅だった。
サイドデッキの上へ張り出したオーニングの下には都合よくベンチがある。そこへ腰掛けて、紫外線の無差別攻撃から難を逃れる。どうせ帰省中は何をしても焼けるだろうけど、可能ならこれ以上は御免被りたいところだ。首の後ろを撫でる。衝動的にバッサリ切ってしまった髪は、ヘルメットを被ったときにむき出しになる首をカバーしてくれていたらしい。
――どうして、ずっと伸ばしていたんだろう。
最初に切らなきゃよかったな、と思ったのは、首が焼けたからではなかったと思う。それは髪を切った衝動と通じていて、伸ばしたかった理由と恐らく同じもので、しかしそれが一体何なのか、自分でもよくわからなかった。わからないけど、たぶんまた伸ばした方がいいな、と俺は思い始めていた。
船尾から船主の方へと、小さな子どもが駆け抜けていく。夏休みだからなのか、フェリーにはたくさんの親子連れが乗っていた。見るともなしにその背を見送る。背を追った視線の先へ、今度は欄干へもたれた女性が現れた。
くすんだ水色のワンピースの上へ薄手の白いカーディガンを羽織っている。つばの広い帽子を被っているせいで顔はよく見えないけれど、背格好からして成人した女性であることは確からしい。そのひとは熱心に海面を覗き込んでいる。さすがに落ちそうなほど身を乗り出しているわけではないが、それでも少し心配になって俺は立ち上がった。ちら、と首を伸ばしてへりの向こうを見ても、波の白と濃い青が船尾の方へと快調に流れていくばかりで、変わったものは見当たらない。何がそれほど彼女の興味を惹いたのか気になって、そのひとの方を見る。そのとき、熱を伴った強い潮風が彼女の帽子を巻き上げた。
「あ!」
彼女の小さな声。帽子は空中へ踊るように浮き上がった。それから誘われるように海の方へ落下し始める。まずいな、と思ったときには欄干の向こうへ手が伸びていて、そのまま運良く捕まえることができた。気まぐれに海水浴を試みようとした帽子を持ち主へ返そうと、彼女の方へ向き直る。
――金色だ。
いや、違う。肩あたりまで伸びた切髪は黒だった。大体、こんな清楚な雰囲気の美人が金髪だったら俺はちょっと怯んだと思う。だから、どうしてそんなことを思ったのかさっぱりわからなくて、しばらく呆然と彼女を見た。濃い茶色をした丸い目。まつげが長い。化粧っ気があんまりないせいか、真正面から捉えた顔は幼いような気もして、途端に年齢がわからなくなる。清楚なきれい系と思ったけど、案外可愛いタイプかもしれない。
そうやって顔を見ているうちに理解する。彼女は記憶のどこにもいないひとだった。知り合いに似ているわけでもなかった。でも、見れば見るほど、俺はこのひとを知っているという気持ちが強まった。島の遠影が青い空の底から浮き出てくるみたいに、それは確かなものに変わっていく。
――知ってる。このひとを。ずっと昔から。だから、
「あの」
目の前の人が声を出した。ずいぶん長く見惚れていたらしい。――馬鹿か俺は? 耳が熱い。すみません、と謝りながら帽子を差し出す。彼女はそれを両手でしっかり受け取った。それを被りもせず、彼女はしかし俺の方をじっと見ている。ずい、と足が一歩前へ出る。
「失礼します。あの、もう少し、いいですか」
「え?」
「いえ、貴方の瞳がとても珍しい色に見えて」
そう言って、彼女はやはり俺の顔を覗き込んでくる。先程海面へ向けられていたのと同じ熱心な視線だ。ただ、俺の瞳はこの国の人間によくありがちな、何の面白みもないただの茶色だった。彼女が言うような色をしているわけではないと思う。けれど、彼女の瞳に見つめ続けられるうちに、彼女は俺の目の色ではなくて、そのずっと奥にある、何だかよくわからないものを探っているみたいに思えてくる。それに、よく考えるまでもなくお互い赤の他人で、間違いなく初対面のはずだ。どうして彼女はこんなことをするのだろう。美人なのに羞恥とかないのか。というか俺に免疫がないのが悪いのか。頬まで熱くなってきた。
誰でもいいから助けてくれ、と願っていると、折よく船内放送がかかった。フェリーは間もなく接岸するらしい。それがきっかけになったのか、はた、と自分の行動に気がついた彼女は、大慌てで謝った。
「不躾な真似をしてごめんなさい。その、貴方の目が青く見えて。珍しいけれど、この国にもそういう方がいないわけではないから、とても興味を惹かれてしまって。ごめんなさい」
「いえ、あの、もう大丈夫ですから……」
「ああ、あと帽子も! ありがとうございました、海へ落ちたらさすがに拾えませんから、助かりました」
俺が赤くなって狼狽えている間に、彼女は丁寧にお辞儀した。さらりと揺れた髪は、やっぱり黒かった。下船の案内放送が響く中、彼女がくるりと踵を返す。
「待って!」
思わず彼女の手を掴んでしまって、慌てて離した。驚いた彼女が振り返る。何をやってるんだ、と思いながらも、口が勝手に喋りだす。
「俺、バイクで来てて、バイクって下船最後なんだ。あー、だから、その、もう少し……あなたと話したくて。もし、このあと予定が詰まってなければ、俺と……その……」
勝手に喋りだした割には下手くそ過ぎる誘い文句しか出てこなくて、海に身投げしたくなる。どうするんだよ、彼氏と一緒に来てたら。友だちと旅行だったら。俺みたいなのに慣れてて軽くあしらわれたら。
「……そうですね。私も少し、貴方とお話してみたいです」
全然想像もしてなかった色良い返事が聞こえて、俺はちょっと耳を疑った。顔を上げると彼女ははにかんだように微笑んで、俺の方を見ている。間違いないらしい。生まれて初めてしたナンパが成功した瞬間だった。
「えっ、じゃあ、あの、フェリーターミナルの待合室で待っててもらってもいいですか。下船したらその辺にバイク止めて来るので」
「わかりました」
頷いた。頷いてくれた。車両甲板へさっさと下りないといけないのに、足元がふわふわ浮き始める。彼女は微笑んだまま、海の方を見た。
「……そういえば、最初は何を見てたんですか?」
「運が良ければイルカがたまに見えるって聞いて」
イルカはいなかったけれど、と言って、彼女は視線を戻して俺の方を見た。金色の幻影がまた見える。俺がよく知っている笑い方で、でも記憶にはない知らない顔で、彼女は嬉しそうに話しかけてくる。
「とても、楽しい休暇になりそうです」