光「ご出陣なされますか?」
「もちろんだ」
白き衣をなびかせ、今日もこの人は行ってしまう。思い切り駆け、光が瞬いた瞬間、我が主はもうすでに黒き竜となっていた。国のため、民のため、父のため。彼は今日も戦場を駆ける。
「どうかご無事で…」
自分はいつも、その背を見送り、祈るしかできない。
その日は何かがおかしかった。
顕現を解いた後、帰還したディオンが天幕に入ったまま、出て来ないという。
帰ってくるなり、前線の体制を立て直すように指示し、そのまま誰にも天幕に入ってこないように言ったらしい。バハムートの活躍のお陰で戦況はザンブレクに傾いている。休戦協定が申し込まれるのも時間の問題だろう。実際ディオンの指揮なしでも問題ないが…。
「どこかお怪我でもしたのか!?」
テランスがディオンの鎧を持つ兵士に詰め寄る。
「いいえ。私が見たところお怪我はされていませんでした。治療の必要もないと、ただ…」
「ただ、なんだ!」
言い淀む兵士に食って掛かる。普段は冷静に行動しようと自制しているが、殊更、ディオンのことになるとそうはいかない。
「い、いえ!やはり顔色が優れなかったように思います…」
テランスの剣幕に押されながらも、親衛長、お願いします、と頭を下げ敬礼して去っていった。
「くそっ…」
らしくもなく、毒を吐く。何回目だった?今回の顕現は。
『終戦まであと少し、余の翼でそれが叶うなら、いくらでも顕現などして見せよう』
といって彼は今回、かなり無茶をした。長時間、多数の顕現を行えば、もちろん体の負担も大きい。そんなことはわかっていたのに。
「やはり、止めればよかった…」
ディオンの天幕に急ぎ足で歩きながら独り言ちる。いや、止められないのはわかっていた。あの人はそういう人だから。そして軍人としては正しい判断だから。
でも、ディオンの恋人としてのテランスは叫びだしたいくらいだった。やめてください。それ以上自分を傷つけるのはやめて、と。
「ディオン様、失礼いたします」
「……、……っ。テランスか…」
ディオンの天幕の前、やや一拍置いて返事があった。やはりというか、いつもの覇気がない、擦れ気味の小さい声だった。
「…テランス、余は大丈夫だと言った。下がれ」
まさか天幕の前で追い出されるとは思わず、つい声を荒げてしまう。
「できません!せめてご様子だけでも伺わせて…」
「いいと言っている!!」
ガシャン、と何かが落ちる音がした。いてもいられなくなり、天幕の中に入ってしまった。他の部下ならまだしも、側近であり、さらに自分らは恋仲なのだ。ここで踵を返すなどありえなかった。
「ディオン様!」
「……下がれと、言って…いるのに……」
そこには寝床の上に座っているディオンがいて、足元には水差しが転がっていた。先ほどの音はこれが落ちた音だろう。問題はディオンの様子だった。
明らかに様子がおかしく、顔を手で覆っていた。身体全体が震えており、只事ではないことは遠目からみてもわかるほどだった。ディオンの言葉を無視して、慌てて駆け寄る。
「ディオン様、一体……」
一見、確かに、怪我はしていないようだった。それにはホッと息を吐いたが、手から覗く顔色があまりにも悪すぎる。そして何よりも、
ディオンはボロボロと泣いていた。
「っディオン!」
思わず敬称を忘れ、思わず呼びかけてしまう。
「う…テランス、来るなと言った…」
泣きながらディオンは目を細め、睨みつけてきた。ボロッと一雫、溢れる。
「どう…なさいました…?」
ディオンは人前では滅多なことがないと泣かないのは幼い頃からずっとそばで見てきたテランスは知っていた。泣くとしても、本当に人がいないところで、静かに涙を流すのだ。それすらも許されないことかのように。
それがこんな。嗚咽を噛み締めながら涙を流す彼は本当に、本当に珍しかった。
「わからない…余にも…わからないのだ…ただ、」
涙が止まらない、と力なく頭を振ったディオンは身体の力も入らない無いのか、どんどんと前のめりになっていく。そのままでは危ないとテランスはディオンの両肩を掴んで体勢を支え、顔をしっかりと見た。
「お前には…こんな姿、見せたくなかった…」
「何を…」
だから最初、追い返そうとしたのか。ディオンらしいと言えばそうだが、テランスは納得がいかなかった。
「ディオン様ーーいや、ディオン、こういう時こそ、そういう姿こそ、俺に見せなきゃダメだ。ちゃんと見せて、教えて、ディオン」
顕現は肉体的にかなり負担が掛かる。それも今回は幾多も顕現したせいで、精神的にもかなり不安定になっているのだろう。そう判断して目を見て優しく囁く。酷く不安げな顔をして、ディオンはぽつりと、
「テランス…くるしい…」
と小さく小さく呟き、また顔を伏せてしまった。そしてうわ言のように、さみしい、むなしい、と辿々しく言い、また涙をこぼした。
「ディオン…」
こんなに弱るほど、無理をしていたのか。テランスは自分の不甲斐なさに心底腹が立った。なぜここまで、この人がここまで追い詰められなければいけないのか。なぜ、自分にはその悲しみを取り除くことが出来ない?…それでも、
「大丈夫だよ、全部聞かせて、全部見せて。俺がいるから。…俺しか今はここにいないから。ずっとそばにいるから」
それでも、とテランスはディオンを今思い切り泣かせようと安心させようと笑って見せた。
「うっ……ひ…ぐ」
ディオンの琥珀色の瞳からとめどなく雫があふれてくる。ポロポロ流れるそれを見て、テランスはああ、美しいな、とこの場にそぐわない感想を得た。そう、彼はどんな姿でも気高く、美しいのだ。
「ディオン、おいで」
それでも彼の顔をいつまでも見ている訳にもいかず、テランスはそっとディオンを抱きしめた。ディオンは涙を流しながらもおとなしくテランスに従う。
普段より少し体温が高い。熱があるのかもしれない。
「テラ…ンス…」
「ここにいるよ」
「テラ…うっ…テランス…!」
「大丈夫、ディオン」
何度も何度も名前を呼ばれる。その度にテランスは大丈夫、ここにいる、と言うことしか出来なかった。それだけしか。
ザンブレクの皇子、バハムートのドミナント。剥奪された皇太子位。どれだけ努力しても愛してくれない父親。力を行使することによって徐々に壊れていく体と精神。
彼にのし掛かり、傷つけるものが多すぎる。だが、テランスにできることはそばにいて、こうやって抱きしめることしか、出来ないのだ。それが支えとなっているのか、弱々しく縋り付いてくるディオンを見てわからなくなってしまった。本当に不甲斐ない。唯一無二の親友なのに。最愛の恋人なのに。君の感情が全てわかって、一緒に背負えればいいのに。
「…テランス、なぜ…おまえも泣いているのだ…」
「……え?」
ディオンに言われて初めて自分の頬に生暖かいものが流れているのに気付いた。
「おまえも…泣いてどうする…」
小さく笑いながらディオンはテランスの目元を舌で舐めた。しょっぱい、と言いながら、彼はまだ涙を流していた。
「…おまえがいて…よかった…」
まっすぐ目を見てディオンが呟いた。ああ、そんなに泣いたら、その金色の宝石のような目が溢れてしまうのではないだろうか。
「まちがいなく…おまえは…私の光だ…テランス…」
その言葉を聞いた瞬間、テランスの脳裏には初めて会った時のこと、一緒に過ごした幼少期、従者になり…そして恋人同士になった時のこと。ディオンと過ごした想い出が走馬灯のように駆け巡った。
そこにあったのは、間違いなく、光。ディオンという光だった。
「俺の、俺の光こそ、っ君なのに…!」
そう言ってより一層強く抱きしめた。そしてさっきまで気弱になっていた自分を情けなく思った。何が支えになっているかわからない、だ。支えになるんだ、一生この人のために、自分のできることを精一杯する。そう、決めたはずじゃないか。たとえ、彼の全てを救えなくても。
ディオンと額を合わせ、目と同じ色の髪をそっと撫でた。
それから数刻経っただろうか。
「お互い酷い顔だ」
幾分か感情の波がおさまったのか、彼はもう涙を溢していなかった。
「ふふ、明日、目が腫れたらいけないね、熱もあるかもしれない。水と布を持ってくるよ」
ややあって、立ち上がろうとすると手首を遠慮がちに握られた。
「…ディオン?」
「その…今日はずっとそばにいて欲しい……」
おろおろと視線を彷徨わせていうものだから、この恋人が愛しくて愛しくて。
「我が君の仰せのままに。今日と言わず、ずっとそばにいるよ、ディオン」
君が離れるまで、ずっと。
だから…どうか無事で。