これは最初から予想できたことだ。
だからこうなることは、とっくに決まっていたのだろう。
きっと。上条当麻が思うよりも、ずっと前から。
午後十一時。とある学生寮の一室。
上条当麻はスマホ片手にベッドに寝転がっていた。まだ髪は湿り気を帯びているが気にする様子はない。仰向けに転がっていた体を横に向けると、気の抜けた声で呟いた。
「ねみぃ……」
茹だるような暑さの中、下校途中スーパーに寄ったところで一人の少女に遭遇したのが三日前のこと。それから気が付けばイギリスで走り回っており、目が覚めたら見慣れた病室で寝かされていたのが昨晩のことだ。病院を出たのは確かに今朝だったはずなのだが、帰宅したのはつい数十分前。……とまあいつも通りの日常に、上条はえらく疲れ切った様子だった。
すると、脱力したように息を吐く上条の横から「寝ろ」と声があった。
いかにもくだらなそうなその声に、上条は不満そうな表情を浮かべながら。
「ちょっとは優しくしてくれても良いじゃんかよお。今日も大変だったんだぞおっ」
「さっきも聞いたっつの」
「何度だって言うからな。お前が優しい言葉をかけてくれるまで……っと、」
ベッドの上で寝転んでいるのは、上条だけではなかった。珍しく甘えたように擦り寄って来る鼻先に思わず目を細めながら、上条は右手でそっと白い毛を撫でた。するとどうやらお気に召したらしく、あちらも心地良さそうに目を細めている。
「……なあ、お前ちゃんと飯食ってる?」
「オマエに心配される覚えはねェよ」
ごろん、と寝返り背中を向けられる。指先から離れてしまった体温に僅かな寂しさを感じながら、上条は左手に持っていたスマホを右手に持ち変えた。
「そりゃ心配に決まってんだろ。なんかお前、ちょっと痩せた気するし」
空いた左手が白い背中に触れる。撫でるように手を滑らせると、くすぐったそうに体をよじらせながら振り返ってこちらを睨み上げてきた。
「人の心配してる暇で、自分の心配したらどォだ」
「俺のことは良いんだよ。そんなことより――
と、言いかけたところで。上条は思わず、バッ‼︎ と体を起こした。
「あン?」
訝しむ声をよそに、上条はぶるぶると震えながら記憶を辿り、
「……三日前の特売で買った素麺、どこやったっけ……?」
部屋の中をぐるりと見回し、パタパタとキッチンに駆け込む。しかし目当ての物は一向に見つかる気配はない。藁にもすがる思いで冷蔵庫を開くと、そこで上条は膝から崩れ落ちた。
「なあ、もしかして……、俺がイギリス行ってる間に……て、停電、とか……?」
「……」
返事はない。しかし事実は明白であった。
素麺はこの街のどこか、あるいはイギリスあたりに放り投げてしまったのだろう。それどころか見事に全滅してしまった生鮮食品を目の当たりにし、上条は一際大きなため息を吐いた。
「……考えるのは明日にしよう」
何しろ疲れ切っていた。くるりと踵を返すと、上条は再びベッドの上に勢いよく倒れ込んだ。
驚いたように固まる体を引き寄せる。少しばかり目を丸くしていたものの、白い毛を撫でてから顎の下をくすぐると、まんざらでもなさそうな表情に切り替わった。
「なンだよ?」
「んー、なんつーか。お前ってちょっと猫っぽいよな」
「……あ?」
「いや、だってさ、なんかこう、ちょっかい出したくなるっつーか」
「余程ぶち殺されてェよォだな?」
「ほら、そうやって威嚇してくるとことか」
「………………喧嘩売ってンのか」
「まさか。そういうところも好きだって話だよ」
「…………」
そこで黙りこくってしまったその人に、上条が冗談っぽく「照れてる?」と訊くと、その人は少し拗ねたような声で「ンな訳ねェだろ」と呟いた。その声は低めで、けれどどこか甘さを含んでいて、まるで気まぐれな猫が喉を鳴らしているようだった。
普段は素っ気なくて口も悪い恋人だけど、意外と素直なことを上条は知っている。その不貞腐れたような声は決して機嫌を損ねたわけではなく、ただの照れ隠しだということも。
だからこそ、上条は優しい笑みを浮かべる。その小さな秘密が愛おしくてたまらない。この瞬間を独り占めしていることが嬉しくて。鎧の奥に隠れた優しさを、他の誰にも知られたくないと思った。
そして、ポツリ、と。
「……会いたいな」
雫のようにこぼれ落ちた呟きの返答は、受話器越しに響くため息だけ。
部屋で独り三毛猫の頭を撫でる上条の表情は、誰も窺い知ることは出来ない。
「今日も来てただろォが」
「……明日も行くよ」
「そォかよ」
特殊犯罪者社会人矯正刑務所。その固く閉ざされた扉の向こうに収監された、上条の恋人。
どこにでもいる平凡なカップルとは程遠い。それでも、受話器越しに聞こえてくる掠れた声は、上条の心を掴んで離そうとしない。
「差し入れならいらねェぞ」
「遠慮しなくて良いっつの。缶コーヒーくらい買って行くよ」
「素麺ごときで喚いてた奴がナニ言ってンだ」
「ぐっ、……そ、それはそれ、これはこれだよ。デートくらい俺にカッコつけさせてくれたって良いだろ。ほら、そういうのは男が出すもんらしいし」
いかにも不満そうに「なンだそりゃ」と漏らすその様子に、上条は薄く笑みをこぼした。
上条は今、幸せなんだと思う。
大好きだと思える人がいて、その人も同じ気持ちでいてくれる。
どれほど手を伸ばしても、触れることはできないけれど。
会いに行けば顔を見せてくれるし、しばらく渋っていたもののこうして電話番号を聞き出すこともできている。眠る前に「おやすみ」と伝えると、つまらなそうに相槌を返してくれる。
そのどれもが、その人なりの精一杯の応えなのだろう。
分厚い壁の中から出て来ることは出来ないから、せめて、と。
「……あのさ、」
だからこそ。
言える訳がないのだ。
「なンだ?」
「……」
あんな壁をぶち破る方法など、いくらでも思い付いているだなんて。
ガラス越しに顔を見れるだけで満足していた上条は、もうどこにも存在しないなんて。
そんなこと、言える訳がない。
「……、不満か?」
「いや、……そんなこと、ないよ」
だって。その人の決意を尊重したい気持ちに嘘はない。
だからこそ。
その人の覚悟を守るため。上条は今日も、笑顔の裏で本心を押し殺す。
「また明日な」
「あァ」
「おやすみ」
「……あァ」
「今日も好きだぞ」
「…………そォかよ」
「明日も好きだけどな」
「寝ろ」
その言葉を最後にプツンと途切れてしまった通話が、妙に名残惜しかった。
この気持ちは。
この寂しさは。
銀髪の少女が身長十五センチの神と共に外泊しているから、だけではない。
分かった上で。
ぼんやりと。上条は天井を見つめたまま、虚空へと手を伸ばした。
「……」
その人が望んだ形で自由を手にしているのなら、上条は守るべきなんだと思う。
それが例え、上条の望みとは相容れなかったとしても。
でも。
だけど。
「……お前がここに居た方が、絶対楽しいよ」
そう。
これは最初から予想できたことだ。
だからこうなることはとっくに決まっていたのだろう。
きっと。上条当麻が思うよりも、ずっと前から。