あえて言葉で表すならば、それはきっと『発症』だ。
無自覚のうちに体内で身を潜めていたものが、潜伏期間を経てじわじわと体を蝕んでいって、気付いた時には高熱にうなされている。まさしくその表現がぴたりとくる。その始まりがいつであったか、熱に冒された頭ではうまく思い返すことができなかった。
まるで危険信号を発するように全身が激しく脈打っていて、目線を戻すたびにとにかく呼吸が苦しい。自覚症状ははっきりとそれを示している。
その病の正体くらいは、考えずとも分かっていた。
誤魔化しようがない事実を突き付けられた不幸少年、上条当麻がまず思ったことが、
(――――不幸だ)
であったことは、仕方がないことだと主張したい。
だって上条当麻は至って普通の男子高校生で、好きなタイプの女性は寮の管理人のお姉さん。包容力があって甘やかしてくれる大人のお姉さまとのオツキアイを夢見る、どこにでもいる普通の男の子なのだ。
そりゃ都合良く夢が叶うなんて思っちゃいない。不幸を背負った身の上だ。仮に運良く出会えたとしても、この右手が全てを打ち消してしまうことは容易に想像ができる。
でも、だからって。
こんな展開を誰が想像できたというのだろう。少なくともつい数分前までの上条は、ちっとも予想していなかった。
なんというか、本当に、勘弁してほしい。人生で初めての感情を自覚した相手が――、
「……いつまでそォしてるつもりだ?」
――まさかあの学園都市第一位の超能力者、一方通行だなんて。
「いや、ええっとですね、その、決してわざとではな
「死にたくなけりゃあさっさと退けろ」
戦場のど真ん中。見渡す限り敵だらけ。そんな状況でうっかり足を滑らせてしまったのは不幸かも知れないがまあ日常茶飯事だ。倒れ込む際に巻き込んでしまった相手がよりにもよって敵に回したくないランキング殿堂入りの怪物であったこともまあ良しとしよう。ヒヤリとはしたものの、今こうして息をしているということは瞬殺は免れたということだ。上条にとって目下最大の問題はそこではない。
「……ええっと、」
ごくんと唾を飲み込んで、赤い瞳と視線を交わす。当然のごとく不快そうにこちらを睨み上げているが、その瞳の奥にはわずかな不安の色が見えた。
それはそうだ。今はこの場を切り抜けるのが最優先。そんなことは上条だって百も承知だ。二人揃って地面に転がっている場合ではない。今すぐ立ち上がらなければ。頭の中で何度もそう叫ぶ。それなのに。
目前に迫った敵よりも、その瞳から目が逸せない。
もう本当に、やめてほしい。
近くで見ると思っていた以上に整った顔をしているとか、慌てて掴んだ腕があまりに細いこととか、予想外にきめ細かくて綺麗な肌だとか、これだけの激闘の最中なのに汗くさいどころか少し甘くていい香りがするとか。
知らないままで居られたら、この気持ちに気付くこともなかったのに。
「……不幸だ、」
「そォか、よほど死にてェらし――――ッ⁉」
首元のチョーカーへと伸ばされた手を掴んで地面に押し付ける。驚いたように目を見開いているが構わない。口では物騒なことを言っている割に、華奢な腕には大して力がこもっていない。今の今まで破壊の暴風を吹き荒らしていた最強の超能力者のくせに、こんなにも簡単に組み敷かれるようでは危なっかしさすら覚えてしまう。
「……ほんっとさ、何なの、お前?」
「……オマエの方こそ、何のつもりだ?」
そんなのこっちが教えてもらいたいくらいだ。
上条にだって、分からない。こんな感覚は生まれて初めてなのだ。頭の中はとうに真っ白で、うまく考えがまとまらない。何がしたいかも分かっていないのに、口は勝手に動いていた。
「……なぁ、一方通行、」
無意識にその人を求めるような、やけに熱を帯びた声だった。高熱で頭は朦朧としているのに、火照った体が本能的に冷たい水を欲しがる感覚に近いかも知れない。
ああもう本当に、勘弁してほしい。
じわじわと自覚させられる。熱に冒されていることを。
どうやらこの症状は予想以上に深刻らしい。殺伐を極めた超能力者に睨まれ、無数の敵に包囲されているこの状況で、絶望ではなく高揚しているくらいなのだから。
「……? 何か考えがあンならハッキリ言え。こォしてることが、ヤツらを潰すための策だとは思えねェンだが?」
「え? あ、あぁ……、悪りぃ、それはまだ全然、思い付いてない……」
「あァ? ……だったら何だよ?」
言ってしまいたい。この胸の中に広がる感情を全て曝け出してしまいたい。
でも言葉が出ない。上条自身まだ整理がついていないのだ。どう言葉にしたら良いのか見当もつかないし、少し時間をおいてからやっぱり勘違いでした、という可能性は十分にある。かと言っていくら考えても答えは出ないし、とにかく呼吸が苦しくて仕方がない。この苦しさから一刻も早く解放されたかった。
もういっそのこと拒絶してもらえば、諦めがつくのではないだろうか。
と、上条は僅かに考えて。
一度だけ、勇気を出してみることにした。
そこで断られたら、諦めよう。それ以上は食い下がらない。そう心に決めた。
上条さえ諦めが付けば、晴れてこの苦しさから解放されることだろう。そうすれば何もかもが元通り。明日にはもう覚えてもいないはずだ。
大丈夫。今ならまだ、引き返せる。
どう見積もっても、その人が誘いに乗るはずがないのだ。
だから出来るだけ後で気まずくならないように、どうにか言葉を選んで。
こう訊いた。
「な、なぁ、一方通行、この後って暇か?」
経験値ゼロな上条がどうにか絞り出した、精一杯の誘い文句。
途端に、その人は邪気の抜けたような表情に切り替わった。まさしくポカンとした顔で、不思議そうに上条を見上げている。
あまりに場違いな誘いに驚くのも無理はない。逆の立場なら上条だって同じ反応をしただろうし、我ながら何を言っているのか意味不明だ。
でも。
もう、止められなかった。
「こっ、これが片付いたら、お前と、その……話したい、です」
ああ言ってしまった、と思った。
これで、終わりだ。すぐに苛立った様子でお断りの暴言が飛んでくるに違いない。でも後悔はない。もう心に決めたのだから。断られたら、諦めると。
そのはずだった。
その人の唇がかすかに動いたその瞬間。上条の胸を掠めるのは、どうにも形容し難い感覚だった。体の中が空っぽになってしまったような、喪失感にも似た感覚。どういうわけか解放感は少しも感じない。むしろその逆。苦しさは増す一方だった。
断ってもらえれば、この苦しさから解放される。そう思っていたのに。
それが無駄だと気付くのに、ほんの数秒もかからなかった。
せめて理由くらい聞き返してくれたなら、どうにか説得してみせるから。そう心の底から願ってしまう程度には、その人の拒絶を恐れていた。
ああもう、ちくしょう。
どうやら認めざるを得ないらしい。もう引き返すことは出来ないのだと。諦めなんてつく訳がないのだと。
つまりは。
ワタクシ上条当麻は、一方通行のことが――――
そして。
そして。
その人は僅かに視線を逸らしてこう返した。
「……チッ、面倒臭せェな」
その言葉が耳に届いた瞬間、体が浮き上がるような感覚に包まれた。
同時に、確信してしまう。
全身を冒すこの病は、もう治ることはないのだろう、と。