Hold on me!(仮)尻ポケットに突っ込んでいたホールハンズから鈍いバイブ音が鳴り響く。茨は耳障りなその音に小さく舌打ちをして、無理やりスマホを引っ張り出した。
こっちはコズプロ社内で起きたトラブルの尻拭いに駆けずり回ってるってのに、一体どこのどいつだ。緊急じゃないなら後にしていただけませんかねぇと毒づきながらも、茨の二枚舌はあまりにも簡単に美辞麗句を紡いでいく。
「これはこれは! ご無沙汰しております。ええ、ええ。その件でしたら、先日連絡いただいた通り──」
茨は電話口に向かって軽く頭を縦に振りながら、しかし視界の隅では念入りに周囲の様子を確認していた。幸いなことにホールハンズを耳に当てて会話している茨に注目する人間はいない。茨は電話口の向こう側に相槌を打ちながら、ソファへと身体を預けた。こんな姿、たとえ誰にだろうと見られる訳にはいかない。弱みを見せることは死ぬことと同義だ。
「──はい。ええ、では明日の午前十一時に」
そう言って茨は通話を終える。ようやく迎えたわずかな休息の時間に、茨はスマホを適当に放って天井を見上げた。ここ数日、仕事に追われて柄にもなく疲労が溜まっている。
天井の白は蛍光灯の無機質な光を受けて、茨にはなんだか眩しすぎるように感じられた。それでも、やらなければいけないことは山積みだ。茨はソファに身体を沈めたまま、ぼんやりと天井を見つめる。天井のシミの数でも数えれば、少しは気が紛れるだろうか。
「なにをしているの?」
突然頭上から声が降ってきて、茨はハッと肩を揺らした。いつの間にか現れた凪砂が、ソファの背もたれに手を突いて茨をのぞき込んでいる。いつの間に距離を詰められたんだと気が緩んでいた自分に驚きながら、茨は動揺を悟られまいと無表情を貫いた。
「閣下!本日は午後からオフにしていたはずですが、何かご用事でも?」
「いいや。何も。」
凪砂はそう答えながら、茨の隣に腰掛けた。凪砂の白い指がするりと茨の頬へ伸びる。
「疲れた顔をしているね」
凪砂の指の先には、茨の目の下を覆う濃い隈があった。心当たりがある茨はばつが悪くなって、それを隠そうと顔を背ける。凪砂はそれを追うようにして身を乗り出すと、その指でそっと茨の目の下を撫ぜた。まるで子どもに言い聞かせるような声色で、凪砂が問う。
「何かあった?」
「……まさか! 閣下からそのようなお言葉がいただけるなんて自分は果報者ですな! いやはや、この七種茨、まだまだ精進が足りないようです!」
まるで機関銃のようにまくし立てる茨をじっと見つめる凪砂の視線はやはり何を考えているのか分かるはずもない。
凪砂はしばらく考え込んだあと、スっと両腕を広げて見せた。ふたりの間に妙な沈黙だけが流れる。我慢比べのようにお互いに見つめ合うこと数秒、先に口火を切ったのは茨の方だった。
「閣下、これは一体……?」
「ストレス軽減、かな」
相も変わらず意図の読めない顔をして両手を広げている。
「人間はハグをするとオキシトシンが分泌されてストレス軽減になると聞いたことがある。茨は最近ストレスが溜まっているようだから。」
さあ、と言わんばかりに凪砂はさらに手を広げる。
「しかし……」と口ごもる茨に凪砂の眉がわずかに下がった。
「私では不足かな?」
凪砂の瞳がわずかに揺れる。普段はおくびにも出さない閣下の感情の揺らぎがどうしてか目につく。わざとだろうか。心理戦には慣れているはずなのに、この目には逆らえないと本能が悟っていた。
「……失礼します」
おずおずとその胸に頭を預けると、ふわりと凪砂の体温を感じた。まるで子どもをあやすように背中を優しく叩かれる。人との触れ合いを極力避けて生きてきた茨にとって、凪砂のこの行動は予想外だった。
しかし不思議と不快な感じはしない。
むしろその体温にひどく安心した。
今だけは何も考えなくていいのだという錯覚すら覚える。
目を閉じれば、とくりとくりと少し早い鼓動が聞こえた。一定のリズムで刻まれるその音は子守唄のように心地よく響いていた。