君と僕 布団の温かさが寂しさを助長させる、独りきりの朝。窓から差し込む光が、俺の目覚めを歓迎する。意味もなくシーツをぎゅっと握りしめ、苦しみに耐えるように体を丸めた。
今日も、いつも通りの一日が始まる。少し違うのは、隣にあいつが居ないことくらいで。
深く息を吸って、大きく吐く。
「大丈夫。俺は、優秀だから。」
布団から起き上がり、ゆったりとした動きで洗面台へ向かう。
鏡に映る自分は、それはもう酷く醜いものだった。瞼は腫れ、目は充血し、隈は濃く、唇は乾燥していた。肌や髪の調子も悪い。
家を出るまで、あと二時間とちょっと。その間に、どうにかまともな状態にしておかなくては。
歯を磨き、顔を洗い、保湿する。コーヒーを淹れるのにお湯が沸くのを待ちながら、保冷剤で瞼を冷やす。目薬どこにあったかな。
作り置きしておいた朝食を温め、さっさと腹を満たしてしまう。コーヒーの苦味が鼻腔を通り抜け、傷んだ心を締め付ける。目頭がツンと痛んだから、紛らわすようにテレビの電源を付けた。
そこには、見知った顔の男が映っていた。その隣にいるのは俺ではなく、可愛らしい小柄な女性。
『日本をワールドカップ優勝へと導いたサッカー日本代表、凪誠士郎選手の――』
淡々と紡がれる言葉が、ゆっくりと喉を締め付ける。息が細くなり、短い間隔で吸って吐いてを繰り返す。
ああ、何故こんなにも自分は弱っているのか。全部、全部あいつの所為だ。あいつがあんなこと、しなければ。あいつとこんな関係に、なっていなければ。全部全部全部、あいつの所為だ。
……やめよう。感情的になりすぎた。もういい大人だ。子供のように癇癪を起こすなんて、ダサいにも程がある。
狭くなった喉奥を無理矢理こじ開けるようにコーヒーを流し込む。焦って飲んだからか、入ってはいけないところに流れ込み、大きく咳き込んでしまう。
いくつもの水滴が瞳から机へと落ちる。この涙は生理的なものであって、悲しいとか辛いとか、決してそんな情緒的なものでは無い。
「……クソが。」
握り込んだ手のひらに爪が食い込み、噛み締めた唇からは鉄の味が染み出した。
耐えなければ。きっと少ししたら、この生活にも慣れるだろう。
今だけ。きっと、今だけ。
***
「はよー」
更衣室に気の抜けた声が響く。千切はその赤髪を一つに結いながらこちらへ歩み寄る。
「はよ」
顔を見られないよう、咄嗟に顔を下に向ける。千切の洞察力は侮れない。今の顔を見られてしまえば、調子が良くないのがバレてしまう。
そんな俺の抵抗など露知らず、千切は下から覗き込むようにして俺を見上げた。
目が合う。
「なんか顔色悪くね?」
やはり、コンシーラーもヘアオイルも何もかも、千切の目を誤魔化すには足りないらしい。
「昨日夜更かししたんだよ」
「今日練習試合あんのに?あのお前が?」
方便も効かないらしい。どうしたものか。
「ま、俺に迷惑かかんなければ別にいいけどさ。無理はすんなよ」
片手を振りながら去っていく後ろ姿を見つめた。赤髪がゆらゆらと揺れ、開いた扉の隙間をするりと抜けていった。
ぱたり。扉が閉まる。
室内を見渡せば、今ここには俺しかいない。無意識に呼吸を止めていたようで、千切の姿が見えなくなってどっと力が抜けた。
早くコートへ向かわなければならないのに、足が縫い付けられたかのようにその場から動けなくなった。
自分が壊れていくようで、何かが崩れてしまいそうで、どうしようもない焦燥感に冷たい汗がぶわりと体から湧き出る。
悟られてはいけない。隠さなければいけない。しかし、いつも通りの自分を保てる自信が無い。聡い人間は直ぐに俺の不調を察してしまうだろう。
努めて口角をあげ笑顔を貼り付ける。プランは無いが、どうにか乗り切るしかない。
足先を扉の方へ向け、磁石のように床から離れないのをどうにか動かした。一度動いてしまえば抵抗は無い。
人工芝のボールを転がす。足を動かして分かるが、やはり今日はコンディションが悪い。体調管理すら出来ないなんて、情けない。
アップを初めて数分経った頃だった。クリスに手招かれ、ロッカールームへ足を運ぶ。
何となく、今から彼が放つ言葉がどんなものか分かる気がする。いや、十中八九予想している内容で合っているだろう。
「体の調子はどうだい?」
「……いつも通りですよ」
強がれば強がるほど、己の脆弱さが顔を出す。
「今の君は、客観的に見て試合に出るべきだろうか。優秀な君なら、自分でも分かっている筈だよ」
「でも、」
「今回の試合はセイシローも出場する。その状態では彼との連携は愚か、他の選手とも噛み合わないだろう」
つまりは、今日の俺は役立たずで、使い物にならないということ。足手纏い。この俺が。
申し訳なさそうな顔をした目の前の男に赤子の手を捻るよりも容易く、この高くそそり立った御影玲王のプライドは踏み躙られる。そんな哀れんだ目で、俺を見るな。
「フィールドに私情を持ち込むつもりはありません」
「冷静になって考えれば分かるだろう」
「俺はいたって冷静です」
認めたくない。認められない。
本当は分かっている。この状態で試合に出ても、何もできず終わるのだということは。きっと、余計自分の首を絞めることになるだろう。それでも、試合に出たい。こんな評価をされたまま指咥えてベンチで見てろってか?無理な話だ。見返さなければ。俺はたった一人の所為でダメになるような人間じゃない。そんなこと、あってはならない。
「君がダメなんじゃない。人間ならば誰でも経験することだ。自分を追い詰めて、心を壊さないように。」
優しい声音が傷口に染み込んで痛い。俺は情緒的サポートなんか求めてない。試合に出ろ。その一言が欲しいのに。
「今回は休みなさい。ベンチに座ることも許さないよ。これは決定事項だ。」
有無を言わせない言葉に、頷く他なかった。クリスは満足げに大きく頷けば、俺の肩をポンと叩いてロッカールームを後にする。
無力感が俺を襲う。事実、俺は無力だった。
ユニホームから私服に着替え、必要最低限の荷物だけ持って部屋を出る。
それからは、意味もなく街を彷徨っていた。家には帰りたくない。
今日は風が強い。少し伸びた髪が空に踊る。
今頃あいつは、俺以外の誰かからパスを受け取り、トラップし、華麗にゴールネットを射抜いているのだろう。なんと腹立たしいことか。
道端に転がっている小石を蹴り飛ばす。思っていた通りの方向に飛ばず、嫌なくらい自分の不調を感じ取ってしまう。
「どうすれば、いいんだろうな」
ただ耐えるだけじゃ、何も変わらない。俺は進まなきゃいけない。こんなところで、後退してはいけない。
ふと、自分のスパイクが古くなっていたことを思い出す。気晴らしに、ショッピングでもしよう。こんな状態で練習をしてもどんどん体が疲弊するだけだ。
……今日くらい、何にも囚われず自分を甘やかしてみようか。
見上げた空は、気持ちのいい快晴だった。
***
「ねえ、レオどこ」
珍しく遅刻してきたその男は、焦ることもせずゆっくりと此方へ歩いてきた。足元の緑を踏むスパイクは、普段のものとは違う、見慣れないものだった。
「さっきクリスに呼び出されてたけど」
そう答えれば、男はロッカールームへ足先を向けた。
ふと、今朝の彼奴の様子を思い出す。いつもならぴんと伸びた背筋は少し脱力し、表情はどこか暗く、総じて覇気がなかった。
「なあ、何かあったの?」
問えば数歩先の男は動きを止め、こちらを振り返る。
「レオに追い出された」
「……は?」
その言葉を理解するのに数刻の時間を要した。果てに俺は、腹を抱える程に笑った。
「遂に家を追い出されるとはな!」
「笑い事じゃないんだけど」
あいつの様子が変だったのも、こいつが遅刻してきたのも、全部その所為か。傍から見ている分には中々に愉快な状況だ。
「原因はアレか?」
「……アレって何」
分かりきっているだろうに、とぼけた言い方をする。
「アレっつったらアレだよ。お前の熱愛報道」
表情はそのままに睨まれる。
「お嬢には関係ないでしょ」
「関係ねえよ?お前がどこの女優と付き合おうが知ったことじゃねえ」
ま、可哀想だとは思うけどな。
――プロポーズ前日に、自分のスキャンダルが出るなんて。
***
ロッカールームに向かう最中、監督と擦れ違った。
「レオを探しているのかい?」
「そうだけど」
「なら、レオは帰ったからもう居ないよ」
レオが帰った。あのレオが練習試合を放って帰ることがあるのだろうか。この監督が嘘をついているか、はたまたレオが余程不調なのか。恐らく後者だろう。監督がこんなくだらないジョークを言う理由がない。
やはり、昨夜の一件が関係しているのだろうか。
「……レオの馬鹿」
頭は良い癖にほんとバカ。俺がレオにしか興味をもたないなんてことは散々伝えてきたのに、ちっとも理解してない。すぐ疑って、すぐ落ち込んで、バカみたい。
でも、そんなレオのことを嫌いにはなれないし、むしろ好きなんだけどさ。
この試合が終わったら、レオにちゃんと伝えなくちゃ。もう一度。愛してるって分かって貰えるように。
***
普段から自分に厳しくしていた反動か、今日は目一杯自分を甘やかした。
人が疎らな平日の昼の街をあてもなく彷徨い、レストランの美味い料理で腹を満たしたり、昼間からパブで酒を飲んだりもした。その後、ふらりと立ち寄ったショッピングモールではスパイクや服など目に止まった物を皆買ってしまった。
両手に紙袋やショッパーを抱えながら再び街をぶらつく。まだ家に帰りたくなくて、意味もなく歩みを進める。
気が付けば、辺りには見慣れない風景が広がっていた。
ふと、小さな花屋とその店員が視界に入る。そろそろ日も沈む頃だ。閉店の支度をしているのだろう。
西日の中に咲く花々の美しさに見蕩れる。自然と足はそちらへ向いていた。
店に近寄れば、瑞々しい香りが鼻先を擽った。
暫くその場に立って惚けていると、振り返った店員と目が合った。
「あら、こんな時間にお客様。間に合って良かった。丁度看板を裏返そうとしていたところなんです。」
中年女性と思われる彼女は、気さくな物言いで歓迎してくれた。
店の片付けをする彼女を横目に、狭い店内をうろつく。華々しく咲き誇るものや、侘しく儚く咲くものもある。花によって表情も個性も違うのは、やはり見ていて飽きない。
時間もないので流し見していると、とある花に視線が止まった。深く濃い赤をドレスのように纏ったその花は、やはり印象的なものだった。
俺は幾つもの花の中からそれだけを抜き取った。
「薔薇を一輪、頂けますか?」
問えば店員は顔を綻ばせ、「勿論」と言った。
「赤い薔薇の花言葉はとても有名で、皆さん記念日に沢山買われていくんです。今日も、薔薇を九本買われていったお客様がいましたよ」
お喋りな店員は慣れた手つきで薔薇を紙にくるんだ。
ふと、店員の目線が手元からこちらへ移った。
「これは誰に向けたものですか?」
野暮なことを聞くものだ。プロポーズでもする人間なら、少し頬を染めて「最愛の人へ」なんて答えるのかもしれないが、生憎俺にはこの花を捧げる相手はいない。
強いて言うなら、そうだな。
「自分に愛を……なんて。馬鹿げてますかね」
淡色の紙に包まれた一輪の薔薇を手渡される。
「とっても素敵だと思います」
店員はにこやかに笑う。
胸の内に大輪の薔薇が咲いたように思えた。
***
花屋の看板は完全に裏返され、辺りはすっかり闇夜に染っていた。
そういえば、家に使っていない花瓶があったな。デザインが気に入って買ったのだが、如何せん忙しく花の世話が出来ないので棚の奥に仕舞ってしまったのだ。久しぶりに出してみよう。
憂鬱な気持ちは晴れ、帰路に着く足取りは軽い。
家の目と鼻の先にある橋に足を踏み入れた、そのときだった。
「レオ!」
背後から、聞き慣れた声がする。何故ここにいるんだ。そんな疑問が湧くより先に、緩やかな歩みを段々と速度を上げ、橋を渡りきった。夜の街を電灯を頼りに走り抜ける。
嫌だ。戻りたくない。俺は一人でも生きていける。お前なんか、要らない。
大荷物を抱えながら、一心不乱に走った。振り返るのは躊躇われたが、背後から足音がする。
橋から四本目の街灯の下を潜ったとき、遂に俺は腕を掴まれた。
「逃げないでよ」
「……今更なんの用だよ」
目を背けていてはいけない気がして、拳を握って振り返る。
そこには、焦燥を顔に滲ませた凪がいた。
「レオ、本当は俺が浮気してないって分かってるんじゃないの」
感情と理解が追いつかない。突然現れた元恋人に追われ、突然こんなことを言われても頭が働く訳がなかった。
「てか、俺は別れたつもりないからね」
俺の腕を掴む凪の手に、じわりと力が篭もる。
「レオに出て行けって言われて、もしかしたら俺はレオにとって邪魔な存在なのかもとか考えたりしたんだけど。それでもやっぱり一緒に居たい。」
「んだよそれ。お前の自己中心的な考えに俺を巻き込むな。」
「最後まで聞いて。」
いつもの眠たげな目が、どこか真剣味を帯びていた。目が逸らせなかったのはその所為だ。
「……嫌だ」
「レオ」
「嫌だ!」
先の言葉を聞きたくなくて拒絶する。聞いてしまえば、また元に戻ってしまう気がしたから。
「俺だって嫌だ」
「……はあ?」
急に駄々を捏ねるような物言いをした凪に、更に理解が追いつかなくなる。いつもの面倒臭がりはどこへやら、今のこいつはとても執拗い。
「こんなことでレオを失いたくない」
「こんなことって、お前……どんだけ俺が苦しんだか分かってて言ってんのか!?」
執拗いだけで共感性が低いのは変わっていないようだ。
「じゃあ俺に分かるように言ってよ。レオの気持ち、全然分かんないよ」
「俺の気持ち理解しねえで復縁持ち込もうってか?舐めんな。俺はお前の思い通りになるような従順な人間じゃねえ」
反射で言い返す。自分でも頭に血が上っているのが分かった。
「どんなレオでもいいよ。レオがいいんだ」
「訳わかんねえこと言うなよ。結局俺の気持ち考えてねえじゃん」
そんなに言うなら、最初から疑われるようなことすんなよ。
「この先どれだけ喧嘩しても、別れても、最後はレオと一緒がいい。レオも同じでしょ?」
「……勝手に、決めつけんなよ」
「嘘。図星の癖に」
分かったように言うな。俺の感情は俺だけのものだ。踏み込んで来るんじゃない。
「黙れ」
「俺と離れて辛くなったってことはさ、俺と居たいってことでしょ」
「違う。俺は一人で生きていける」
「ねえ、レオが本音を隠したらさ、俺に見える訳なくない?ちゃんと見せてよ。全部」
「うるさい!」
キリと痛む腕で凪の手を払う。すれば、すかさずまた捕らえられた。今度は振り払えそうにない程力強い。
「何言われても俺は絶対離れないし離さないよ」
刺すように真っ直ぐな瞳に気付かされる。凪の執着に、どこか安心している自分がいたことを。束縛されるのなんて大嫌いだったのに、今はそれが心地良いのだ。
「……だってお前、絶対めんどくさいって言うじゃん」
「そりゃ、レオってめんどくさいし」
「お前……!」
「だから、めんどくさくてもレオが良いって言ってんの。ほら、早く言いなよ」
促されるまま口にする。
「……テレビに映る二人がやけにお似合いで、嫌になった。俺ばっか余裕なくて、惨めになった。お前の幸せを奪ってる気がして、お前の人生の汚点になっている気がして、自分が嫌になった。どんどん悪い方に思考が落ちていって、それで……」
あのときのことは、思い出すだけでも胸が苦しくなる。ぎゅっと唇を噛み締めた。
すると、凪の指が咎めるように顎を掬い、唇を撫でた。俺はその手が離れていくのをただ眺めている。
「だからさあ、お前じゃなきゃダメだって言ってるじゃん。なんで分かんないかな」
「お前だって俺のこと理解出来てねえだろ」
「お互いのこと理解できなくても、結局俺とお前じゃないといけないんだよってこと」
凪は俺の左手を優しく取ると、片膝を地面についてこちらを見上げた。
「ねえ玲王。絶対にお前を退屈させないって誓うから」
視界が色彩に滲む。
「どうか、最期まで隣で笑っていてくれませんか。」
凪の手には、九本の美しい薔薇の花束が握られていた。思わず手に持った物を全て放り投げて凪の首に抱きつく。横目に、薔薇の花弁が散ったのが見えた。
つくづく俺はこのエゴイストに弱いのだ。
「絶対幸せにしろよ!」
「イエス、ボス」
***
布団の温かさに思わず笑みの零れる、二人きりの朝。窓から差し込む光が、俺の目覚めを歓迎する。隣に並ぶ愛おしい寝顔にキスをひとつ落とす。
今日も、いつも通りの一日が始まる。少し違うのは、互いの左の薬指が銀色に光ることくらいで。
深く息を吸って、大きく吐く。
「これからよろしくな、マイダーリン」
どれだけ離れても、最後は二人で。