寂しい味 診療所の冷蔵庫に、ひとつだけ赤いトマトが残っていた。
オロルンは、それを黙って見つめていた。手は伸びない。けれど目は、逸らせなかった。冷蔵庫の奥、白い棚の上にちょこんと乗ったそれは、妙に生々しく浮かんで見えた。つややかで、丸く、赤くて。ほんの少し、皮がしなびかけていた。
イファは棚の上の器具を片付けていた。硬い床に椅子が引きずられ、ギッと耳に残る音がした。器具が触れ合い微かな金属音が響く。
「イファは、トマト好き?」
その声に、イファの背中がぴくりと揺れる。
「……別に、嫌いじゃない。でも、好きでもないな」
返ってきた声は平坦だった。嘘ではないのだろう。ただ、答えそのものから何かを守るような、無関心を装った響きだった。
オロルンは微笑んだ。けれど、その笑みはどこか弱かった。
「そうなんだ。僕は……よくわからない。食べたことはあるはずなのに、味が……思い出せないんだ」
言いながら、自分の舌の記憶をたぐる。でも、何も浮かばない。口の中に残っているはずの味も、色も、匂いも、妙に曖昧だった。
イファは器具を片付け終えると、椅子を引いて立ち上がった。カーテンを軽くかき分け、窓辺へ歩いていく。外は雨が降っていた。雨が草葉に沿って流れていく。空はどこまでも低く、灰色だった。
「思い出さなくていい。思い出せないなら、それでいいんだぞ」
静かな声が、背を向けたままのイファから聞こえた。
「でも、なんでだろう。見てると、胸がぎゅってなる。……少し、寂しい気がするんだ」
「……寂しい?」
イファの声が低くなる。視線は雨に向いていたが、口にした言葉には、押し隠しきれない何かが混じっていた。
オロルンは、笑おうとしてやめた。その代わり、ぽつりと呟いた。
「君と話してると、変なことばかり浮かぶんだ。知らないはずの記憶とか、知らないままにしてた気持ちとか……そういうのが、ふっと出てきて……困る」
「思い出さなくていいって、言っただろ」
重ねるように、イファの声。今度は少しだけ強かった。けれど、それもまた焦りのように聞こえた。
「それに、もしそれが嫌なことなら、無理して受け入れなくてもいい」
窓の向こうで、雨脚が強くなった。診療所の中の空気が、じわじわと湿っぽくなっていく。
オロルンはトマトを見つめながら、ぽつりと呟いた。
「……赤いだけなのにね。不思議だよ。ただの食べ物なのに、どうしてこんなに、胸がざわざわするんだろう」
言葉は、誰に向けたわけでもなく、ただ空気の中に紛れていった。
「きっと僕、知らないことが多すぎるんだ。自分のことも、昔のことも……怖くて、ずっと遠ざけてた。でも──」
視線を上げた。イファが振り返る気配はなかった。
「でもね、不思議なんだ。イファを見てると、時々思う。自分を閉じ込めてるとこも、誰かを助けようとするとこも。……君って、少し僕に似てる気がする」
イファは何も言わなかった。けれど、手のひらがそっと握られていくのが見えた。
雨が、屋根に細かく当たっている。ぽつ、ぽつ、という音が次第に速く、激しくなっていく。けれど、室内は不思議と静かだった。
「……トマトって、昔は毒だと思われてたんだって。赤くて、どろどろしてて、気味悪がられて……でも、誰かが口にして、やっと“これは生きるためのものだ”って分かったんだ」
「へぇ、そうなんだ? 興味ないな」
口調は穏やかだったが、その言葉には明らかな拒絶が混ざっていた。イファにしては、珍しく冷たい。
──たしか、ばあちゃんが昔話してくれた。トマトみたいに真っ赤な布にくるまれて、捨てられていた赤ん坊の話。
──お願いだから、おまえがその「誰か」になろうとしないでくれ。過去に触れないでくれ。……おまえが何も知らずにいてくれるなら、それでいいんだ。
受け入れてほしくない。思い出してほしくない。忘れていてくれれば、それでいいのに。
イファの胸にひそむ声が、言葉にならないまま沈んでいく。
けれど、オロルンはやさしく続けた。
「……だから、たぶん、そういうことだと思う」
「……なにが?」
「僕、君のことが知りたい。知らないままじゃ、いられないんだ」
沈黙が、室内を包みこんだ。
イファは答えなかった。ただ、カーテンを握ったまま、雨の向こうを見ていた。
やがて、そっと窓から離れて、振り返った。
オロルンと目が合う。
どちらも逸らさず、沈黙の中で視線だけがそっと絡み続ける。
「……トマトなんか、どうでもいいだろ」
ぽつりとイファが言った。
「ただの野菜なのに、おまえはそこに何かを見てる。……俺には、それが怖い」
その声は震えていた。
オロルンは、ゆっくりと立ち上がった。冷蔵庫からトマトを取り出す。赤くて、指先にスッと冷たい感触が伝わってくる。
「切ってみる?」
差し出すと、イファはほんの少しだけ目を伏せた。
「……別に、どっちでもいい」
イファが曖昧に答えると、オロルンがそっと包丁を手に取った。包丁がまな板の上で音を立てる。切られたトマトから、果汁がこぼれた。赤い果肉と、つややかな皮と、種のまわりのぬめり。
イファが椅子に腰を下ろす。
オロルンは一切れをイファの皿にそっと乗せ、自分の分も同じように取った。
イファは、赤い果肉をじっと見ていた。オロルンには、それがただの果物には思えなかった。理由はわからない。ただ、胸の奥がかすかに疼いた。それでも、オロルンはゆっくりと手を伸ばし、自分の皿のトマトを口に運んだ。
……少し、酸っぱい。けれど、思っていたほどじゃない。
「どう?」
オロルンが問う。
イファはほんの一瞬だけ、口元をゆるめた。
「ちょい酸っぱい」
そう言って、皿を押し返す。
「でも、……たぶん、嫌いじゃない」
その言葉に、オロルンはそっと笑った。
「うん。僕も、そう思う」
ふたりの間に、静かで柔らかな沈黙が落ちた。
冷たい雨の音が、まるで遠くなったように感じられた。