手練の唇、手管の腕。手練の唇、手管の腕。
それは単なる偶然だった。
あ、とかすかな声が聞こえた気がして、ルー・シモンズはペンを走らせていた手を止めた。
「どうした」
視線の先には、ちらりと覗く緑の長衣。
「……いや」
なんでもないよ、と事務所奥にある簡易キッチンからいらえが返る。後を追うように、水の流れる音がした。
実務が忙しいからと事務仕事に目を背けていた結果、溜まりに溜まった書類の山。ひとりでは到底無理だと泣きつかれ、仕方なく残業代の上乗せという形で手伝いを引き受けることになったのだが、そろそろ日付が変わろうという時刻。
流石に腹が減ったなということで、夜食代わりに依頼人から貰った果物でも食うかという話になった。
「俺が剝いてくるから、ルーは続きを頼むよ」
詫びのつもりなのか、そう言って簡易キッチンに向かった第三部隊の隊長様が、しゃりしゃりと小気味よい音をたてながら林檎の皮を剝き始めたのが先程のこと。
ルーが声らしきものを耳にしたのは、それより少し後のことだった。
「……シオン?」
皮を剝くだけにしては遅過ぎる。なにやら違和感を覚えて、ルーは椅子から立ち上がると、キッチンへ足を向けた。
覗き込むとそこには、見慣れた緑の長衣を纏った色素の薄い青年が佇んでいた。傍らに置かれた皿には、半端に切られた林檎がのっている。
「どうした」
先程と同じ、しかし少し意味合いの違う言葉を放ってみたが、青年──シオン・N・エルフィールドは手元をじっと見つめたまま微動だにしない。返らないいらえに少し焦れて、ルーはずいと距離を詰めた。
「おい」
視線の先。シオンの左手が紅く染まっている。包丁で切ってしまったのだろうその指先の傷は案外深いようで、ぱたぱたと血の珠がシンクに零れた。
「何処が大丈夫なんだ」
お前は馬鹿か、と詰れば、シオンは意外そうに薄い鳶色の目をしばたたかせた。まるで、叱られた意味を理解できないこどものようなまなざし。
しかしそれも一瞬のこと。シオンは正気を取り戻したようにふわりと笑った。
「ルーは大袈裟だな」
「客観的事実に基づいた判断だ。大袈裟でもなんでもない」
先程聞こえた声は、恐らくシオンのものだろう。それなりに時間が経っているにもかかわらず、未だに血が出ているということは、かなり深いものに違いない。
「……取り敢えず止血をする。こっちへ来い」
傷のない右手を引いて事務所へ戻ると、自分が座っていたところへシオンを座らせた。棚から救急箱を持ってくると、中から治療に必要なものだけを取り出した。隣の椅子を引き、向かい合うように腰掛ける。
「そら、手を出せ」
「痛くないのに」
「そんな血塗れの手で剥いたもんなんか食いたくねえよ」
大人しく治療されとけ。
言外にそう言われ、流石のシオンも口を噤んだ。
水音がしていたということは、一応流水で傷口を洗ったのだろう。ならばそこまで神経質にならなくてもいいだろうと判断し、溢れてくる血はガーゼに含ませて拭き取った。
何度か繰り返すと血も止まってきたようで、改めて傷口を観察すると、切創特有の切り口が大きく開いているのがわかる。何かが触れるだけで痛みが走り、日常生活にも支障が出るレベルだろう。こんなに深い傷なのに。
「痛くないわけないだろうが」
馬鹿が、と溜息交じりに言えば、ほんとだよ、と小さな声がした。
「平気だよ、これくらい。だって」
生きてるもの。
ぽろりと零れたその言葉に、ルーが怪訝そうな眼差しを向ける。
「本当なんだ。これくらいなら、大丈夫なんだ」
「……シオン?」
「だって、別に手足を斬り飛ばされたわけでも、全身の骨を砕かれたわけでもないだろう?からだを無理にひらかされるわけでもないし、生きたまま焼かれたわけでもないからね」
自嘲気味に笑って、シオンはそっと目を伏せた。存外に長い、髪と同じ淡い亜麻色の睫毛がふるり、と震える。
「……こんな傷より、二度と会えなくなることの方が、ずっと」
──いたいし、つらい。
シオンはあまり自分のことを語らない。彼を知るものたちの中で唯一の共通認識といえば、彼がかつて孤児だったことだけだ。身を寄せていた孤児院を戦禍で失い、共に暮らしていた者たちと離れ離れになったともきいている。これは、その時のことを言っているのだろうか。
「……忘れられると、思ってたんだけどな」
まだ、だめだった。
そのあとに、唇が三回動く。音にすらならなかった、そのことばが示すものの正体を、ルーは良く知っている。
ああ、そういうことか。
自分たちは予め聞いていたことだったが、共に過ごした相棒へは何も話さず封印されることになったあの小さな使い魔との別れを、シオンは未だ受け止めきれないでいるのだろう。
折に触れて思い出される『あいつ』との日々の記憶が、過去の傷と重なってしまったのかもしれない。
仲間の痛みにはいち早く反応して、どんな小さな傷でも疎かにしないくせに、何故こいつは自分のこととなるとこう鈍くなるのか。
それは単に物理的な意味というだけではないことは、彼と番うと決める前から薄々判っていたことだったけれども。
いずれにせよ今言えることは、彼はひどく傷ついている、ということである。肉体的にも、精神的にも。
「……仕方ねーな」
はあ、と溜息をこぼしてから、ルーはほらよ、と両腕を広げた。
「……なに?」
「甘やかしてやろうと思ってな」
薄い鳶色の瞳が見開かれる。来ねえのか、と首をこてりと傾がせれば、ふは、と笑う声がした。
「いいの?」
「今日だけな」
「そっか」
じゃあ、甘やかしてもらおうかなと呟いて、いつもの笑みを浮かべたシオンが近づいてくる。ルーはそっと目を閉じた。
触れるだけの唇が離れると、どちらからともなく抱きあう。ぽんぽんと頭を撫でられて、シオンが艶っぽく笑った。
「もっと、甘やかしてくれるかい?」
欲を含んだ指がつつ、と背を滑っていくのを知覚しながら、ルーはそうだな、と呟いた。
「もうひと仕事してからなら、な」
書類の山を指せば、シオンがうえ、と項垂れる。
「ひと仕事って量じゃないだろ、これ」
「溜め込んだお前が悪い」
「甘やかしてくれるんじゃなかったのかよ」
ひどいな、と口だけで言えば、海の色をした瞳が弧を描く。
「今日だけ、と言っただろう」
もしや、と時計を見ると、既に針は日付を跨いでいた。
「そういうことかよ」
「そういうことだ」
はあ、と溜息を吐いて、シオンは名残惜しげに腕を解いた。
「……それじゃ、もうひと頑張りしますかね」
「賢明だな」
労うように肩を叩かれ、シオンは深い溜息をひとつ、吐いた。