九尾の日和と人の子ジュン「燐音先輩。」
「きゃはは!どうしたァ?ジュンジュンちゃんよお。そんなマジな顔しちまって。遂に俺っちにホレちまった?」
「人の子って大人になっても変化していくもんですよね?」
「は?」
日和が会合とやらで出掛けていると風たちが噂しているのを聞き付けた燐音がジュンで遊んでやろうとこの家に遊びに来たのが凡そ一時間前。ところが今日のジュンはどこか浮かない顔をしていて、いつもならやれやれと言う顔をしながらも燐音の悪戯や遊びに付き合うのに今日はそれさえもなく、やっと口を開いたかと思いきや先の一言だ。
「ナニそんな当たり前のこと聞いてンだ?成長して老化して死んでいくっしょ?ニンゲンなんてモンはよォ?」
その当たり前さえコイツは知らないままここに来たんだっけかと燐音が思い直しているとジュンは「そっすよね」と知っていたような口ぶりで返して視線を完全に窓の外へとやってしまった。
ジュンの疑問と態度に思い当たる節が出てきた燐音は馬に蹴られるのはゴメンだからな・・・と早々に退散を決める。
「俺っち、そろそろ帰るわ。ジュンジュン、その話は日和ちゃんと直接すべきだと思うぜ。年上のお兄さんからのアドバイスってな。じゃあな」
礼儀の正しいジュンだ。普段なら燐音が帰るといえば玄関先まで見送りに来てお辞儀をしてから控えめに手を振って見送ってくれるのだが、今日は「うす」と小さく返事を寄越しただけで動こうとはしなかった。
———ジュンの身体の時間は止まっている。
言わずもがな、日和の仕業だが、まさか本人の了承を得ずにやっているとは思わなかった。ヒトと妖怪。違う時間を生きるアイツらが互いに愛しあう中で望んでその状態に落ち着いたのだとばかりおもっていた。
「日和ちゃんは何考えてンのかね」
考えたところで他人の愛の形なんてわかるワケがない。そんなことは解っているはずなのに、それでも燐音の気が晴れないのは、
「いつの間にかアイツらも俺っちの大事な隣人になってたってワケか。」
キャラじゃないが願わくば、大事になった隣人が人生という賭けに勝てればいいと思う。
「ま、俺っちの知ったことじゃネェな」
燐音の立っていた場所には旋風だけが残った。
日和が何も言わないまま、ジュンの成長を止めていることはなんとなくだが気づいていた。本に書いてあった二次性徴とされる時期を迎えても髭というものは生えたことがなかったし、幼い頃から世話を焼きたがる日和が楽しみにしていたジュンの爪切りもそういえば長い間その必要を感じていない。
そうだとは思っていたのだが、日和からの説明がない以上は確信を得ることができずにモヤモヤしていた。・・・燐音もあれ以上の事は教えてくれそうにないし。と、ため息をつく。
「やっぱりおひいさんに聞いてみるしかないっすかねぇ?」
今日は鳥たちと歌をうたう気分にもなれない。庭に集まってこちらの様子を伺う彼らには申し訳ないが、日和が帰ってくるまで少し眠ることにした。
「・・・くん、ジュンくん、」
優しい声に誘われて目を覚ます。
「ん、ひぃさ、」
「ふふ、ただいま。よく寝ていたね。疲れちゃってた?ご飯はどうする?」
いつの間にか帰ってきていた日和の優しい笑みが視界いっぱいに広がってジュンの頬にも自然と笑みが浮かぶ。
「おひいさん、おかえりなさい。」
まだ少し回らない頭のまま、目の前の日和に抱きつく。
「今日は随分甘えたさんだね?」
「いやです?」
「嫌なわけないよね。・・・ただいまジュンくん。」
あまいその声にとてつもなく安心する。大好きなおひいさん。大好きだから、ちゃんと教えてほしい。
「ねぇ、おひいさん。」教えてほしいことがあるんです。
帰宅して珍しくベットでお昼寝しているジュンに驚いて気持ちよさそうに眠っているところを起こしてしまった。とろっとろに溶け込んだ蜂蜜のような瞳が自分を映すだけでこんなにも幸せを感じられるのだから我ながらお安いものだ。
起きたジュンが珍しくかわいい甘え方をしながら「教えてほしい事がある」だなんてねだるものだから二つ返事で了承をしてソファに移動する。
「おひいさん。」
ここにきて急に変わったジュンが纏う雰囲気に日和の表情が凍る。あぁ。この時がきてしまったのだなと本能的に察してしまう。
「俺の成長って、「止まってるね。」
「どうして、ですか。」
まるで深い海の中に落とされたようだと思う。息がしづらいほどの重たい空気になんとか耐えながらなんとか視線だけは逸らさずに向き合う。
「おひいさん」
続きを促すジュンの声に日和は詰めていた息を細く吐き出してから小さく、懺悔するように話しだす。
「・・・そう、だね。うん。成長を止めているっていうのは正確にいうと違うんだけどね。ぼくはきみの生きる時間を止めてるの。」
———分かってきいたはずなのに、日和本人からそう言われると予想していた以上の衝撃が身を貫いた。
「きみの生きる時間を変えてしまうということはとっても残酷なことだって、頭では理解しているんだけど。それでもついこの間、言葉尻が丸くなくなったばかりだと思っていたきみがいつの間にかこんなに大きくなって、ぼくの愛を同じ気持ちで受け止めてくれて・・・どんどん素敵な青年になってきて。怖くなっちゃったの。こんなに早く成長しちゃったらすぐにジュンくんとお別れしなきゃいけなくなっちゃうって。二度と会えなくなってしまうことが怖くてたまらなくて、でもこんなことジュンくんにどう相談すればいいんだろうって、ごめんね。」
頭の中でぐるぐると日和の言葉がまわってジュンはゆるく首を振る。
違う。違うんです、おひいさん。そんな言葉が聞きたいんじゃなくて、
「あのね、ジュンくん。きみの人生を勝手に歪めてしまって、どう謝れば許してもらえるのかわからない・・・ううん。もうきみは許してくれないかもしれないね。さっきのお話なんだけど、正確にはぼくが止めているのは“きみ“の生きる時間じゃなくて“この家で過ごすきみ“の時間なの。だから、きみが望むのなら、この家を出てニンゲンの世界に身を置いていれば自然と元の速度で生きられるように「おひいさん!」
つらつらとジュンの目を見ずに話す日和を止める。違う。ジュンが聞きたかった言葉はそうではないのだ。
「・・・すみません。今日はちょっと頭を冷やさせてください。」
今、ジュンの気持ちをうまく日和に伝えられる自信がない。
このぐるぐると渦巻く怒りにも哀しみにも似た感情をぶつけてはいけないと鳴る頭の中の警報に素直に従うことにした。
外に出てふと空を見上げる。
雲一つない星空のはずなのに先ほどから頬を伝う雫はなんなんだろう。
同じ時間を生きられないことを怖がった日和が選んだのは同じ時間を生きられるように細工する道だった。それ自体はいい。ジュンだってできることならあの人を置いて死にたくはない。もとより、生きられるのなら共に生きたいと星に願った数はもう数え切れないほどなのだ。・・・だけど。日和は手段を選ばなかったけれどジュンに共に生きて欲しいとは言わなかった。そう言ってくれたら、なんだって許せたのに。1番ほしい一言の代わりに日和が発したのはジュンを手放そうとするもので。
ここで生きると決めた幼い時分からジュンの全ては日和で、今更ニンゲンの元に戻ろうだなんて考えたこともなかった。大好きな日和がいればそれだけで幸せだったから、命ある限りは何があっても日和の隣にいるとジュンなりの覚悟を持って生きてきたし、日和にもそう伝えていたつもりだった。
その覚悟が伝わっていなかったのがあまりにも哀しい。
雫と一緒にモヤモヤしとしたこの気持ちを振り払うように大きく首を振ってからジュンは鬱蒼とした森の中へと吸い込まれるように歩き出した。
バサバサとカラスの飛び立つ大きな音でふと我にかえる。
「どこだここ」
日和の家を出たあとの記憶がないまま、いつの間にか深い森の中に迷い込んでしまったようだ。辺りを見回していると森の奥から誰かが歩いてくる姿が見える。・・・妖怪。逃げるべきかと迷っている間にも相手はどんどんとこちらに近づいてきて、暗闇の中でもその姿がはっきりと見えるようになる。
「こんばんハ。・・・見ない顔ダ。こんなところで何をしているノ?」
ジュンと同じくらいの年齢に見えるその少年は少し変わった言葉でジュンに話しかけてきた。
「こんばんわ。えっと、何・・・してるんでしょうねぇ?」
「ハ?こっちがきいてるんだけド。」
ジュンの煮え切らない返事にあからさまにムッとした少年に慌ててわかる限りの状況(とは言っても何もわからないのだが)を説明する。
「ふぅん。そウ。目的があるワケじゃないのなら早くこの森を抜けたほうがイイ。狐の飼い犬にはこの森は危険だヨ。」
「え、」
「アレ、ちがっタ?まあ、どっちでもいいんだけド。キミ、あいつラの好む匂いを放ってるからネ。そっちに向かってまっすぐ進んデ。振り返ってはいけないヨ。そう。“きみは振り返らずに進む“」
少年の言葉を聞いた瞬間、身体が勝手に少年の指差す方向へと進みだす。
不思議な感覚に戸惑いながらもジュンはお礼言えなかったなと覚醒してるはずなのに靄がかかったような頭の隅でぼんやりと考えた。
「・・・ジュン?」
「え、茨?」
しばらく身体の進むままに従っていると知った声に呼び止められて嘘のように身体の制御権が自分に戻ってきた感覚に足を止める。
「あなたこんなところで何を・・・いえ。とりあえず行きますよ。ついてきてください。」
茨の焦ったような声にしたがって黙ってあとをついていく。
いつの間にか大きな月が照らしていた夜は先ほどまでとは違い、明るいものに思えた。
「で?何してたんです?あそこがどういう場所かご存知で?」
茨と凪砂の住まう社に着いてから以前も囲んだテーブルにつき、ジュンがここに来ることを知っていたかのようにジュンの分の飲み物も用意していた凪砂にチョコレートを勧められていると茨から先ほどと同じような質問が投げかけられる。
「森で迷ってて、気づいたらあそこにいたというか、連れてこられたというか・・・すんません。あそこが何なのかもオレがどうしてあそこにいたのかもよくわからないんです。」
「・・・まぁ、そんなことだろうと思いましたよ。あなたを導いたのは恐らく夏目くんでしょう。後でお礼をしておかないと。」
「なつめくん?」
「赤い髪の不思議な少年に会ったでしょう?」
「あ、会いました!茨のお友達です?茨にも友達っていたんですね?」
あ、しまったと思った時には既に茨の指が目の前にあって、次の瞬間にはおもいっきりデコピンされた。
「〜っ!いってぇ!」
「ふん。彼を友達と呼ぶかは置いておくとしても、お前が言うなって話ですよ全く。」
「・・・でも、茨とジュンは友達でしょう?」
「話が前に進みませんので閣下は口を挟まないでいただきたいですな!」
茨だって脱線してた癖にと、頬を膨らませた神様は今度はもう一つと伸ばした手を「食べ過ぎです」と払われて、完全に拗ねてしまった。・・・神様に拗ねるなんて表現つかっちまって、オレ、大丈夫ですかね?
"真宵の森"
例に漏れず茨の話は難しくて、出てくる単語にはてなを浮かべるジュンを助けようと解説を入れてくれる凪砂の話がより難しいのだから泣きたくもなる。
それでもなんとか聞き取れた単語と理解できた話をつなぎ合わせると要は、大きな迷いや負の感情を背負った者が迷い込む森で、そこにはそれを好んで食す妖怪が多く住まうらしい。夏目さんが助けてくれなかったらジュンも今頃、喰われてしまっていただろうと。
「・・・で?」
「え?」
ジュンが茨の話を自分の中に落とし込んだタイミングを見計らって茨から短い疑問の声が発せられる。
「だ〜か〜ら〜、どうしてあんなところにいたのか聞いてるんですよ。あの森にいたってことはどうせ碌でもない悩みでも抱えてるんでしょう?自分、暇じゃないので早く吐いちゃってください」
暗い、寂しい、恐い、ぼくを一人にしないで———ぼくのことなんて見捨ててしまって。
眠ってるのか起きているのかも分からない。ジュンを失って自分が自分じゃなくなっていく。暗い何かに包まれて、身動きもとれずにずぶずぶと沈んでゆく。これはきっと夢。ぼくは今、眠って夢を見てるんだ。
だってほら、ジュンくんがぼくの元を去っていくはずがないでしょう?
———本当に?
ぼくはこんなに最低なのに。ジュンくんに断りもせずに彼の人生を捻じ曲げてしまった。・・・でも、どうしたってたったの数十年でお別れがくるだなんて考えたくなくて、こわくて怖くて恐くて堪らなかったんだ。
でも、どうすればよかったのかな?きみに正直に話していたらこの選択を受け入れてくれた?毎年、柱に刻んでいく身長を見て去年より伸びたことを喜んでいたきみが、ちょっと顔つきが大人っぽくなってきたことを言うとはにかんでいたきみが、この我儘にどんなお顔をするのか考えたくもなかったんだ。
今、隣にジュンくんがいないことだけが紛れもない答え。きっと許してもらえない。これは夢なんかじゃない。起きて見る現実。
なら、こんなぼくなんていなくなっちゃえばいいね。
「———まぁ、この件に関しては殿下が悪い、というのが落とし所でしょうね」
話すことが苦手なジュンの支離滅裂な話を意外にも苛立ちもせず、時折アシストまでしながら聞いてくれた茨がため息混じりに一言。「落とし所」だなんてわざわざ言うからには、ジュンにも責任の一端があると言うことだろう。もっと話すべきだったって分かっている。何かアドバイスが貰えると期待した訳じゃないけれど、長く話してしまった自覚はあるので、凪砂にも視線を向けて「何かありますか?」と目だけで伺う。
「・・・私は神様だから。ジュン・・・人の悩みに直接の助言はできないんだ。ごめんね。・・・禁忌だから。介入してしまうと罰が下される。公平でない神と神の力を得た人間はこの世の規律から外れてしまうから」
今日はもう遅いからと、初めてこの社に訪れた時に借りた寝室に案内される。凪砂と茨におやすみの挨拶をして、ごろり、ベッドに横になる。
「うぅ〜。この部屋、こんなに広かったですかねぇ〜?」
調度品はいくつか飾られているものの、生活感がなくただ広い部屋が落ち着かず、ごろんと壁側に寝返りをうつ。いつも寝返りをうつとそこにいるはずの存在がないだけでベッドまで随分と広く寂しく感じてしまう。
「明日、ちゃんと飛び出したことを謝って、それから話をしないと・・・おひいさん、怒ってますかねぇ」
いくら寂しくとも、いつもより遅い時間に眠気が来ない訳もなく、ジュンは重くなる瞼に逆らわず、そっと目を閉じた。
「・・・ここは?」
真っ暗な空間。
社で横になっていたはずのジュンが目をあけると、そこは何もない空間だった。光も音も、ジュン以外に何にもない。状況を理解するにつれて襲って来た恐怖に蹲りかけた時、ジュンの胸のあたりに柔らかくてあたたかい灯がともった。
———あぁ、あったかい。あったかくて、心地よくて、安心する。
この優しい感覚をジュンは知っている。
「おひいさん、抱きしめてくれてるんですね」
恐怖に襲われてたことなんて忘れて、嬉しくなって自分もと、胸の辺りをそっと抱きしめる。
「だいすきですよぉ、おひいさん」
ジュンがそう囁いた時、胸に灯った灯が消えてしまう。すると、さっきまでの恐怖なんて比べ物にならないくらいの恐怖が一瞬にしてジュンの心を覆ってしまう。暗い、寂しい、こわい。ガタガタ震える身体を掻き抱くけれど、少しも安心には繋がらない。なんで、どうして、消えてしまったんだ———
「おひいさん!」
がばっと飛び起きたジュンは荒れた布団も自分の身だしなみも気にせずに凪砂と茨の元へと駆ける。なんでこんなにこの社は広いんですかねぇ?少しの距離も永遠に感じられるほどにもどかしい。そう、焦っている。もつれる足を懸命に動かして、なんとか二人のいるであろう居間に辿り着き、扉をあける。
「おひいさんが、おひいさんが、いなくなっちまいました」
「・・・はぁ?」
ただならないジュンの様相に寄ってきてくれた茨の心底分からないといった声には答えず、悲しげに俯く凪砂に縋る。
「ナギ先輩なら何かしってるんでしょう?!教えてください、なんでもします。神様が直接人間を助けて罰があるっていうんならナギ先輩の罰ごとオレが全部受けます。だから、お願い、おひいさんを...」
縋ったまま、ずるずると落ちていくジュンに凪砂は手を差し伸べない。状況が分からずに、それでもジュンに向けた手を伸ばすことも戻すこともできないまま茨がかたまる。
「・・・それはそれは重い罰だよ。つらくて、苦しい。ジュンが途中で泣き出したって絶対に投げ出せない。それでも、耐えれる?」
日和くんのために君はどこまで差し出せるの?と言外に聞かれたような気がして、ほとんど睨むみたいに落ちていた視線を凪砂にむける。
「あの人のためならなんだってできます」
舐めないでください、ナギ先輩。最初に拾われた時からオレはとっくにもうおひいさんのものなんです。あの人のためなら命だって捧げてやります。
走れ。動け身体。
酸素が足りないと喚く肺も四肢も、脈打ち主張するだけの心臓も、オレの邪魔をするのなら、いらない。あの人に愛されたオレの一部だってんなら協力してくださいよ。オレが間に合わなかったらおひいさんは———、
「・・・日和くんは今、真宵の森の中にいるよ。繭の中に閉じ籠っちゃってる。・・・早く出してあげないと、このままじゃ呑まれちゃう。場所・・・は、ううん、ジュンが本当に日和くんを救いたいと望めば自ずと分かるはずだよ。」
さぁ、行っておいで。と送り出されてから、無我夢中となって走っている。真宵の森だと昨日茨が行っていた場所に入ってからもう暫く走っているというのに未だ日和の居場所は分からない。こんなにも望んでいるのに、はやく会って抱きしめてやりたいのに。
それでも、分からないからといって止まっている時間も余裕もない。ジュンはただ我武者羅に森の中を走る。
———くらい、つらい、さみしい。ぜんぶぼくのせい。いらない。いなくなっちゃえ。みにくいすがたをさらすくらいなら、きえてなくなっちゃえ———
「、ッ」
大きく発達した木の根に足をとられて、限界を超えた身体はスライディングするように倒れ込む。木々の仄暗いざわめきの他には自分の喘ぐ息しか聞こえない。真宵の森に入った頃から薄らと感じていた、暗くて深い何かが足元から這い上がってくる感覚が全身に広がってぞわりと背が震える。
負けられない、おひいさんを助けなきゃ、おひいさん。でも・・・ほんとにオレは必要なんだろうか。
———考えちゃいけないって分かってるはずなのに、思考がどんどん溢れてくる。
本当に言いたいことも言わせてやれない、まともに話し合うこともせずに飛び出してしまって、迷惑なんじゃないか、オレがいない方がおひいさんは幸せになれる?あの人が望むなら、このまま、
思考の闇に沈みかけたジュンに寄り添うように光が届いた。
・・・あれ?あたたかい。なんだろうこれ、安心する。ついさっきまで触れてたような、もうずっと長い間触れられてなかったような、オレはこれを知ってる。・・・おひいさん
「あぁ、目を覚ましたんですね。よかった。これにはまだほんのりと日和くんの加護が残っていた気がしたんです」
「キミ、バカでしョ。折角出してあげたのニ、戻ってくるなんテ。バカは先輩だけで手一杯なんだかラやめてよネ」
ジュンが目を開けると、赤と紺が自分を覗き込んでいた。一人は心底安心したように、一人はこれでもかと表情を歪ませてこちらを見ている。
「う、わっ?!誰、えっと、夏・・・目さん?」
驚き、姿勢を変えて後ずさるジュンをそのままの体勢で目だけで追った二人のうちの一人に見覚えがあって、茨から聞いた名前を呼んでみる。
夏目にはおもいきり嫌な顔をされて、隣にいた眼鏡の男の人があはは、と乾いた笑いを浮かべてから話し出す。
「よかったです。この子にはまだ日和くんの加護とか温かい思いっていうのが残ってる気がしたんですよね」
眉尻を下げて表情を崩すその人の手元にはよく見知った犬のぬいぐるみがある。
「メアリ?」
「ああ、この子、メアリっていう名前なんですね?あっ、怒らないでくださいね?緊急事態だったんで少し二人の家を探索させてもらいました。ふふ、温かい家ってあぁいう家のことを言うんでしょうね」
そっと手渡されたぬいぐるみを抱きしめる。
「やっぱり、大切な子なんですね」
ジュンはその問いに首肯だけして腕の中のぬいぐるみに視線をやる。
メアリ———小さい頃にジュンが拾って日和が大奮闘の末、ボロボロだったその身体を綺麗に縫い合わせたぬいぐるみで、幼心に日和が懸命に綺麗にしてくれたのが嬉しくて出かける時も眠る時もずっと一緒だった。今でこそ、外出の際にわざわざ持ち出したりはしないが眠る時は必ず近くに置いている。
「どうセ、あの忌々しい狐を救いに来たんでショ?」
夏目の声にはっと顔を上げる。
「え、」
「本当に気に食わなイ。最強だカ何だカ知らないケド、そんなものハ全部驕リ。弱い自分を認めテ曝け出せないようなプライドなんテ、邪魔になるだけだよネ」
「夏目くん、言い過ぎですよ」
「違うんです!おひいさんは、おひいさん・・・が、ここに来たのは、オレのせいで、」
夏目の話す言葉は独特で、一言一言がジュンの耳に絡みつく。日和を悪く言われているのにうまく言い返すような言葉を持たない自分に腹が立ち、いつの間にか握っていた手が震える。
「ちょっト、そんな顔しないでヨ。ボクが虐めてるみたいじゃなイ。・・・分かったヨ。教えてあげル、この森デ惑わされない方法を教えてあげるカラ、その顔はやめてヨネ」
ふいと顔を背け、居心地悪そうにしながら夏目は「その加護を持って行ケ。不安な気持ちニモ恐怖ニモ、狐の加護ト思い出が詰まったソレなら打ち勝てル。しっかりと抱いていくといいヨ」と教えてくれた。
もう一度、メアリをぎゅっと抱きしめてみる。干したてのブランケットに包み込まれながら日和の隣で寝ているような、あたたかくて幸せな感覚がする。
「ウン。上手だネ。その感覚が加護を受けている感覚だヨ。忘れずにもっていってネ」
夏目と、つむぎと名乗る二人にお礼を言って、ジュンは再び日和のいる場所を目指す。メアリをしっかり抱きしめている分、さっきまでのように全力では走れないけれど、強く日和の居場所に導かれている感覚に足が速る。
おひいさん、どこにいるんです?一人にしちまってすみません。探しに来ましたよ、メアリも一緒です。ほら、帰りましょう?———おひいさん。
もう不安は感じない。心なしか明るくなった気持ちのまま足元をしっかり踏み締めて進む。
きっともうすぐ、日和に会える。
一触即発。
ぴりりと冷え切ったこの部屋の空気感を一言で表すのなら先の言葉で十分だろう。凪砂と茨のどちらもが互いに睨みを効かせたまま動かない。
いつまでも睨み合ってても埒が明かないと茨が最初に口を開くまで、凪砂はきっと喋らない。
ビリビリと肌を裂くような緊張感に、震える瞼をゆっくり閉じてから小さく息をはきだす。
「・・・どうしてジュンを一人で行かせたんですか?」
茨が口を開く瞬間から、愉しそうな笑みを深める凪砂に、跪いてしまいたい本能をどうにか押し殺しながらも目は逸らさない。
「・・・あれ?いつの間にかジュンのことが大切になっていたんだね。私以外に"たいせつ"ができたの?茨。・・・妬けちゃうな」
あぁ、本当はそのドロリとした怪しい笑みに今すぐにでも降伏して、腹を見せて、あなただけが大切ですと服従したい。
「ふざけないでください。アレにあの森を攻略する力が無いことくらい、閣下もお分かりでしょう?自分は・・・人が殺されると夢見が悪くて迷惑なだけ・・・です」
茨の声がだんだんと小さくなるにつれて、凪砂の纏う空気も柔いものへと変化していく。
「ふふ・・・そうだね。茨は誰かが亡くなってしまうと昔のことを思い出して泣いてぐちゃぐちゃになってしまうものね」
「泣きませんしぐちゃぐちゃになりません!うっ、はなせ・・・!」
言いながらぎゅうっと茨を抱きしめる凪砂に、本気で暴れてみてもびくともしないことに腹が立つ。
「クソ!このっ「・・・茨。確かに私は全部分かってるよ。でも、だからこそ・・・」
茨も分かるでしょう?と微笑まれては、すべてが馬鹿らしくなる。あぁ、そうですね。あなたは神。全部お見通しでしたね。人のことを言えないほどにあの青年のことを気に入っている凪砂がバッドエンドを静観している訳がなかった。
茨は全身の力を抜いて「アイアイ」ととんでもなくだらけた敬礼をしてみせた。
「・・・これって、どうやったら開くんですかねぇ?」
大きな繭の前でジュンは立ち尽くす。思いつく限り———とは言ってもそんなに思いつかなかったのだが———は試してみた。
コンコンコン、三度ノックをしてから呼びかけてみる。
最近少しずつ鍛えている筋肉をフルに使って繭を破ろうとする。
メアリに加護があるのなら、と、メアリで繭に触れてみる。
そのどれもが悲しいほどの無反応で、なす術なく、先程から頭を捻っている。
バサッという音とともに木立からこの森におおよそ似つかわしいとは言えないような綺麗な鳥が飛び立つ。
飛ぶ鳥を見て直感的に「うた、」と発したジュンはその後も数度、丁寧になぞるように「うた、歌」と繰り返してはっとする。
そうだ、歌だ。夏目は先程、この森を出るためには"あたたかいきもち"が必要だと言っていた。これ以上ないくらいの正解を導き出した気がして、ジュンは早速大きく息を吸い込む。
届け、
「ジュンくんはおうたが好きなのかな?」
びくり、不意に話しかけられたことで幼いジュンの小さな方が大きく跳ねる。
「あぁ、ごめんね。驚かせようと思った訳じゃないの。きみのおうたが好きだなぁって思ってね」
ジュンの歌を好きだと言ってくれたのはこの人が三人目。一人目はおかあさん、二人目はおとうさんだった。
この人は怖い人じゃないって分かってるのに、触れられたり、声をかけられるといつもジュンの肩は大袈裟に跳ねてしまってこの人を悲しませてしまう。
・・・笑顔が似合うから、たくさん笑っていてほしいのにな。
どうしたら笑ってくれるんだろうって考えて、そういえば質問に答えていないことに気づく。
「ジュンくん、おうた、すきなの」
好き嫌いを言うとこの人にも殴られるかもしれないって少し怖い気持ちになったけど、この人はそんなことしないってぶんぶんと頭を振ってから小さな声で返事をする。
それでも(あぁ、お返事はおおきなお声でしなきゃいけないんだった)そう思い出すと、もうほとんど反射で目をぎゅっと閉じて、服の裾をギュッと握って衝撃に備える。
ふわり、ジュンが予想してた衝撃が降ってこなかった代わりに大きくて温かい手がジュンの頭にのって、くしゅくしゅと髪をかき混ぜながら往復していく。
そっと目を開けて手の伸びてくる方を見ると、日和が満面の笑みを浮かべて撫でてくれていた。
「教えてくれてありがとう。ジュンくんの好きなものが知れてとっても嬉しいね♪」
本当に嬉しそうに笑う姿に嬉しくなってジュンのほっぺも緩くなってにこにこ笑ってしまう。
「そんなジュンくんにはぼくのとっておきのおうたを教えてあげる」
「とっておき?」
「そう。歌ってる人も聴いてる人もみ〜んな、しあわせになれちゃう、そんなとっておきの歌!」
その後、歌いながら教えてくれた日和が楽しそうなのが嬉しくて、ジュンの心もぽかぽか温まる気がして、一緒に歌うともっと楽しくて、ジュンは何度も何度も日和に歌をねだった。
———これがきっと"しあわせ"って気持ちなんだ。
〜♪
何故か前奏も必ずラララとメロディをとるように教えられた"とっておきのうた"を口ずさむ。日和に気持ちが届くように、心を込めて。
歌は好きだ。殆ど残っていない記憶だけれど、ジュンが歌っている間は父も母も楽しそうに笑っていてくれた。
日和がこの歌をジュンに教えて、一緒に歌い、上手だねと褒めて笑ってくれたから、もっと好きになった。
・・・ねぇ、おひいさん。戻ってきてください。オレ、あんたに伝えたいことがたくさんあるんです。でもまずは、この歌を一緒にうたいたい。ほら、ここはおひいさんのパートですよ。
伝わるように、誘うように、丁寧に紡ぐ。
———やさしくて柔らかくて大好きな音色が聴こえる。
ずっと毎日聴いていた気がするのに酷く懐かしい気持ちにさせられる。特に最近はとんとジュンが歌わなくなってしまったから。ふたりで歌う歓びを知った今、一人ではもう寂しくて歌えない。
ジュンは日和が時間を止めていることにきっと少し前から気づいていた。気づいてからは表情が暗くなることが増えた、口をひらこうとして言い淀むことが増えた。そして、日和の前で歌わなくなってしまった。
・・・ぼくのせい。ぼくが奪ってしまった。でも、もし、叶うなら。もう一度きみの隣でこの歌を一緒にあたいたいな。
謝って、きちんとお話しして、きみが許してくれるまで何度でも謝って、そして、あぁ、都合がよすぎるかな。
それでもぼくはこれからもきみと生きたい。
子どもでも覚えられる、そう難しくも長くもない歌は数度繰り返したってすぐに終わってしまう。目の前の繭に変化がないことを改めて確認してため息をこぼす。届かなかった。だめだった。本当に、どうすればいいんだろう。
繭にそっと触れて、そのままゆっくりと抱きしめる。
「おひいさん、迎えに来ましたよぉ」
ジュンの体温とその言葉を待っていたと言うかのように、繭がぽうっと光って消えていく。
中にいた日和がゆっくりと瞼をもちあげて紫陽を覗かせる。
「おひいさ、」
「ジュンくん、ごめんね。ぼく、きみに謝りたいこととお話ししたいことがたくさんあるの、」
聞いてくれる?の言葉は待てなかった。日和にほとんど飛び掛かるように抱きついて声を上げて泣く。
帰ってきた。日和が帰ってきてくれた。その事実だけで胸が張り裂けそうなくらいにいっぱいだった。
「全く。人騒がせも大概にしていただきたい」
かれこれ一時間以上も続く茨の小言はこれで同じ台詞が何回目かも分からないほどで、ぴりぴりと痺れを訴えていた足ももう殆ど感覚がない。
「うるさい!うるさいうるさいうるさーいっ!最初に、このぼくが!ごめんねって謝ってあげたよね?!それからずぅっと、おんなじお話しばっかり!もう、耳にタコさんができたね!いいや、タコさんでさえ逃げ出してしまったね!」
「はぁ?お言葉ですが、元はと言えば殿下が勝手に暴走されたのが悪いんでしょう?というか、自分、謝られてないんですけど?!」
二人で森を抜けて、さぁおうちに帰ろうねと日和が微笑んだ瞬間、二人の首根っこをぐいっと捕まえたのが茨で、わけも分からず目を白黒させているうちに社へと飛ばしたのが凪砂らしい。そんなことを説明されても到底分からないのでジュンの理解は"らしい"まででストップした。
元気に吠えあう日和と茨の目を盗んで、とうに限界を超えている姿勢をゆっくりと崩す。じわじわと血が巡っていく感覚がすることにほぅと息をついて、もう一度二人に視線を戻す。まだ日和と大切なことは話せていないけれど、この大きな声を聞くと日常に戻れる気がして安心する。
まだまだ問題は山積みで、たくさん話し合って一つずつ解決していかないといけないなとは思いつつも、そういえば最初に言うべき言葉をまだ言えていないなと思い出す。思い出したらもうそわそわしてしまって、この喧嘩がおさまるまで黙って待っていられない。
「おひいさん、おひいさん」
少し遠慮がちに、でも振り返ってほしいからはっきりと名前を呼ぶと日和がぱっと振り返る。
「なぁに?ジュンくん」
あまりに甘い声と表情に恥ずかしくも嬉しくなる。自分に尻尾があったのなら機嫌のいい時の日和の尻尾なんて比ではないくらい大きく揺れているだろう。
「おかりえなさい、おひいさん」