この感情に名前は無いバタバタと慌ただしい音が事務所内に響く。あぁ、またかとため息を吐くとバタンと扉が開きすぐに閉められる。音を出している本人がぜぇはぁと珍しく息を乱している。
「また『奴』に追いかけられてるのか――桐生」
桐生と呼ばれた男はバツが悪そうに目を左右させながらそうです、と肯定した。
どうやら喧嘩したようで顔中に痣やかすり傷が出来ている。桐生の傷の治りはかなり早いが流石に見ていられないので立ち上がり救急箱を取り出すとチラリと振り返り「手当してやる」と言った。
「これくらい大丈夫です」
「こっちが見てられねぇんだよ。いいから早く来い」
本当に大丈夫だったのだがもし断って怒ったらたまったものではない。いくら昔より丸くなったとは言え柏木を怒らせたらどうなるのか知っている桐生は折れて渋々隣に座った。
「見せてみろ。…血出てんじゃねぇか」
手をすくい取られると殴る際に皮がめくれてしまったのか所々血が滲んでいる。よくこれで大丈夫だと言ったものだな、と内心毒吐きながら消毒液と絆創膏を取り出す。
「……っ、」
「痛ぇだろうが我慢しろよ。…ったく、真島の奴も手加減しねぇな。今度俺からも控えるよう言ってやるか」
「…お願いします」
まぁ俺が言ったところで真島が言うことを聞くかは保証できないがな、と付け足すと桐生は苦笑いを浮かべた。その表情が何だか昔のまだ幼かった頃と被り何だかいたたまれない気持ちになった。
それを振り払うように咳払いをすると反対の腕も手当していく。
コットンに消毒液を染み込ませ傷に宛てがう。だがそこでふと別の事を考えていた。最近真島に関わらず東城会内でも桐生の名は知れ渡っている。『堂島の龍』として。だが柏木は気に食わなかった。昔から面倒を見ていた男が成長していく様を見ているのは悪くないのだが未だこの己の気持ちが分からず眉間に皺を寄せる。そのせいで力が篭っていたのか傷跡をぐりぐりと抉っていた。
ハッ、と我にかえり顔を上げると唇を噛み締め痛みに耐えている桐生の顔が見えた。それが何だかいじらしく柏木の中の加虐心を掻き立てた。
「あぁ、ここも消毒しねぇとな」
「も、もう大丈で…いっ!!」
「おっとすまねぇ」
わざと力を入れると痛みできゅっと目が閉じる。そんな柏木の心情も分からず突然の行動にもしや怒らせたかと不安げな目を向ける。
―――――この目だ
公の場では鋭く射抜くような目をするのに柏木や風間の前では昔のように幼い子どものような目をする。
「腕は大丈夫だな。顔は――…」
するりと頬に手を添えるとびくっと肩を跳ねらせた。思わず伸ばしてしまったがもしや傷に触れたのか、と思い聞いてみたが首を振った。
心なしか触れている所がみるみる内に赤くなっている気がする。
あっ、と手を離すといても立っても居られなくなったのか桐生は目線を反らしそのまま素早く逃げるように走っていってしまった。
「……はぁー、…」
出ていってから顔を手で覆いため息をついた。先程少しだけ見えたあの顔は柏木の頭からこびり付いて離れなかった。
赤く熟れた果実のように染まった頬、驚いたように見開かれた目……。鼓動が煩いほど鳴り響いている。この胸の高鳴りはいつぶりだろうか。
柏木自身この気持ちに気付いてしまったが、桐生のあの反応を見るに恐らく脈アリなのだろう。が、桐生はまだ気付いてないようでまたもや意地悪したくなり暫くの間気付かないフリでもして桐生で遊んでやろうかと悪巧みをする。
「フフッ、反応が楽しみだな」
そう呟きながら支度をするために立ち上がり片付け始めた。名前のない感情に心を踊らせながら。