春告げのきみ午後、カドックはいつものように紅茶を淹れていた。この奇妙な習慣は、自分の召喚したサーヴァント・アナスタシアに数日前、突然「この時間は私と一緒にお茶を飲むように」と厳重に命じられたのが始まりだ。理由としては「マスターたるものサーヴァントとのコミュニケーションは大事にしないと」と、いう彼女の主張である。最初はよくわからないまま紅茶を出しては、彼女に渋い顔をされたものだ。今では一緒に出す焼き菓子に合わせて濃度や種類を変えることも覚え、手慣れたものになっていた。自分のルーティンに、まさか一番縁遠い「サロン」の真似事をやる日が来るとは、人生何が起きるかわからない。そうやってトレーに載せた茶会のセットを手に応接間に入ると、アナスタシアが机の上に何かを広げて眺めている。召喚してからしばらく経つが、初めて彼女が何かを読んでいる姿を見た気がする。
「珍しいこともあるもんだな」
サイドテーブルに持ってきたセットを置くと、アナスタシアがこちらを見た。
「雷帝との会話に困らないように、ってマカリーが」
つまらなさそうにアナスタシアが答える。
「この世界の知識は多少頭に入っているから、どちらというと細かい答え合わせみたいなものね」
パラパラとめくる手つきはいかにも気が乗らない、といった風だった。確かに今までの言動と生前の振る舞いからすると、机に座っての勉強は彼女にとっては退屈の部類に入るだろう。自分に興味のない教養ほど滅入るものはない。難儀なことだと同情しながらも、何をやっているのかと視線を向けた。
「クサノオウ?」
意外そうな顔をしてアナスタシアがこちらを見る。それから、もう一度ページを落とし、再び僕を見た。
「正解。……あなたって植物に詳しいの?」
「実戦で野外に出ることが多いから、多少は」
自分が取得している対獣魔術の系統上、部屋の中で籠る事より山や森林といった野外の中で実践して効果を発揮する側面もあったため、必然的にその知識も取得する必要があった。その関係で植生にも多少の知識があった、ということだ。先ほどの花だって、有毒成分があるから頭に知識として入っていたにすぎない。それにしてもまた野生の花なんて、皇族の知識も随分と広義にわたることだ。
「いいことを聞いたわ。じゃあカドック、一緒に勉強しましょう。私が問題を出すから、あなたが答えるのよ」
「待て待て、これは君の勉強じゃなかったのか?」
「あなたにとって「学習」ってものは、ひとり机にかじりつくだけのものだったかしら、マスター?それに知識を共有しておくのは悪いことではないでしょう」
「……言っておくけど、華やかで流行にのった君の好みのようなヤツはわからないからな」
「決まりね」
なけなしの反論も皇女様のにこやかなかつ的確な言葉により、力ないものになっていく。僕はお茶会に新しく「習慣」が出来たことを悟った。
「この花たちはいつに咲くか、わかるかしら?」
「この辺は春植物だな」
今日はお茶が冷めてしまうから明日からはじめましょう、という事で次の日早々に勉強会は行われた。前日に見せたあの憂鬱な表情はどこへやら、本を片手に次から次へと隣に座る僕へ問題を出してくる。今後の為に必要なこととはいえ、彼女がいきいきと楽しんでいる様子に、正直悪い気はあまりしなかった。
「じゃあ、この名前は?」
名前を隠しながら指さされる花の姿に、少しだけ息をのむ。
「アネモネ・ネモローサ」
「毒性でも何でもないのに、名前を覚えているのね。何かあったのかしら」
何でもない様に言ったつもりだったが、勘のいいキャスターは何か感じるところがあったのだろう。一問一答で終わらず、珍しく質問を重ねてきた。逃られないな、と観念して口を開く。
「僕が一番始めに出入りしていた森で……こいつが咲くと、他の花も次々に咲き始めるんだ。春のきっかけ、みたいなやつだから。それで覚えている」
冬の終わりに咲くこの花は、色彩の乏しい冷え冷えとした森の中でもひときわ目立っていた。深緑の葉に囲まれて伸びる白い花が次々に咲いたと思ったら、息を吹き返すように他の植物たちが芽吹き始め、森の中が鮮やかになっていく。当時のカドックにとって覚えることは山ほどあったが、好奇心から調べたのはこの花が初めてだった。
「……このロシアでも、また咲くところが見たいわ」
ささやくようにアナスタシアはつぶやいた。異聞帯の記憶を強く持つ彼女だが、実際に植物が咲いている姿を見た事がない。目にしたことがあるのは雪に沈みつつある風景だけ。ページから彼女へと視線を移せば、言葉の小ささとは違ってその視線は力強い。ビョウ、と吹雪が窓が鳴らす。
ここは永遠の冬の国。何も進まない停滞の国。沈んでいくだけの国。変わらなければ、春は来ない。
「ああ。見よう。二人で、一緒に」
返事の代わりに、キャスターが自分の左手を僕の右手にそっと重ねた。少しだけ、この花が君みたいだと思ったけれどーそれは言わず、僕はその手のひらを握り返した。