メッセージボトル ビクター・グランツはポストマンである。
仲の良い子犬と共に銅の鈴の音を聞き、待ち望む人々に手紙を送り届ける。
いつか、自分宛ての手紙が届いたらいい。そんなささやかな願いを持つ、しがないポストマンに過ぎない。過ぎなかった。
ビクター宛ての手紙は届けられ、その願いは叶えられた。
招待状という形ではあったが、あの手紙には誠意が込められていた。
ビクター・グランツという名前が書かれているのを見るだけで、彼は高揚した。そして、今度はやり取りを目的とした手紙を欲して、招待されたエウデリィケ荘園へと向かった。
しかし、この場に手紙を送り届ける相手はもういない。
(良かったね、ビクター。君はもう、役目を終えたんだよ)
この荘園の敷地へと足を踏み入れて、数日が経った。
会話の無い空間。視線の交わることのない人々との邂逅。全てが全て、ビクターにとっては都合の良い、安堵出来るものだった。
ビクターの素性を知るものはいないし、ビクターに手紙のようなメモを送ってくれる人物も出来た。
しかし、この状況は想定していなかった。
意識を失ったあと、見知らぬ場所にほっぽり出され、そこから出るためには暗号機を解読し、ゲートから脱出しなければならないのだという。
味方がいるのは不幸中の幸いだろうか。彼らと協力し、ゲートを開く準備は整った。
ビクターは希望の言葉に満ちた手紙を送り届け、仲間たちはゲートをくぐり抜けた。
彼らは、ビクターもゲートから出ると思っていたのだろう。
しかし、開けられたゲートはハンターが見張っているために通り抜けられない。
それならまだ開いていない反対方面のゲートを目指すか、それとも一瞬の隙を狙って空いたゲートを走り抜けるべきか。
焦りが、疲れが思考を鈍らせる。
(焦りは禁物だよ、ビクター。君は地下室の場所を知っている。そこに向かうべきだ)
偶然見つけた赤いハッチを思い浮かべる。
確か、地下室と呼ばれる場所だったはずだ。
ビクターは、その方角めがけて走る。
身体が重い。泥濘にハマってしまったように、動けない。
進めば進むほどに歩みは緩やかなものとなり、そして完全に動きは止まる。
あと数歩で届くはずの地下室が、はるか遠くにあるように思えた。
(ビクター、君はもう役目を終えたんだ。他の人たちを逃して、それでお役御免。良かったね)
「ぅ……」
良いはずがなかった。
じりじりと赤い蓋を目指すものの、這っても這っても思うように進まない。
いつの間にか衣服もぐっちょりと濡れている。
何故か?
そんな疑問が解けるのを待つ時間もなく、次の変化が訪れた。
周囲から、音が消えた。
……正確には消えているのではなく、遠のいているという表現が正しいのかもしれない。
ぴちょん、ぴちょんと水が跳ねるような音以外は、全てどこか遠い世界のように感じられた。
その感覚を味わったのは、今が初めてではない。
この『ゲーム』が始まってからすぐに、ビクターは物陰に隠れていた。そんなビクターの真横を通った人物と会ったときも、同じような感覚を味わったのだ。
しかし、今度は隠れることは出来ない。
静けさを保つその人物は、ゆっくりとビクターへと近づいてきた。
優しげな風貌の女ではあるが、鉾はビクターへも向けられているし、その身体は地面から浮いている。
その身体が近付くほど、ビクターの胸は恐怖で張り裂けそうになった。そして、生者を逃すまいと、その目は赤く燃えている。友好的な相手でないことは確かだろう。
既に倒れ、起き上がることの出来ないビクターを椅子に吊るすことなど、息をするように出来るはずだ。
これから、ビクターはどうなるのか。
敷地内にあるロケットチェアに拘束される?銛でひと突きされる?もしくは、水中でもないのに溺死もあり得るのだろう。
一寸先の未来を想像した彼は、身をこわばらせた。
未だ、ハンターは攻撃をしてはこない。ビクターが何か仕掛けてくるのかと警戒しているのだろう。しかし、彼はこの状況を打開する策を持ち合わせてはいなかった。ならば、せめてと鞄から手紙を取り出す。
ビクターにとっての全てと言える手紙。とても大切な、荘園に訪れてから貰った手紙や、これから届けるはずだった手紙の数々。
もう送り届ける相手はいないというのに、愛おしくてたまらない手紙。
大切な手紙たちを抱え、ビクターは目をつぶる。
「……?」
不思議なことに、ハンターは何のアクションも起こしてはこない。
今際の際にいるから時の流れが緩やかに感じられるのだろうか。しかし、手紙が落ちる音は、普段とそう変わりない。
不思議に思ったビクターは、恐る恐る目を開けた。
ハンターは、床に落ちてしまった手紙を見て、不思議そうに目を瞬かせていた。
ビクターにとって、それは一世一代のチャンスだった。微塵も動けなかった先ほどまでとは違い、今は少しばかりは体力が回復している。
手紙に目を奪われているほどの隙があれば、目の前のハッチに飛び込むことなど容易いだろう。
それなのに、ビクターは動かない。
動けないのではない。彼は何かに突き動かされ、昂ぶった感情のままにハンターの前へと踊り出た。
「手紙を、読みたい……ですか……?」
この場には、ビクターの事情を知る者はいない。ただ、会って間もない静かな相手が佇むのみだった。
それが心地良くて、都合が良い。
彼女はビクターの目を見ると、音を発することなく頷いた。
どうみても生きている人間ではない、血の気の失せた顔色。幽霊の類いだから、言葉を話せないのかもしれない。
しかし、意思疎通が出来るのは好機といえるだろう。
手紙。これから届ける予定だった手紙は、特定の相手に向けたものではない。それならこのハンターに見せることに、問題はない。
ビクターは持っている手紙の封を切り、ハンターの前へとかざした……が、彼女は首を横に振った。
読めない、もしくは読むことが目的ではないのか。
「手紙、書きたい……ですか」
「……」
今度は時間を置くことなく、即座に頷いた。
「僕で良かったら、も、文字……お手伝い、します」
そんな申し出を聞いた彼女は、不思議そうに首をかしげた。
声は無くとも、そこには疑いの色が見える。
……今まで、ビクターは怯えるばかりだった。彼女が納得出来ずとも、当然のことだろう。
「僕は……ポストマン、ですから。手紙を届けるお手伝いが、したいんです」
生きている人間でも、人ならざるものだったとしても、ビクターのやることは変わらない。
手紙を人から人へと送り届けるのが、彼の使命であり、何よりの願いだ。
なによりも。
誰かに手紙を届けたい。そんな想いは、ビクターにとっては痛いほどに理解出来るものだった。
彼が力強く胸を張ると、ハンターが微かに笑った。
(ビクター、これには驚いたね)
目を開けると、そこは荘園の館の中だった。
先にゲートから出た味方たちの態度は、ビクターの帰還を喜んでいるようにも、さして興味がないようにも見えた。
皆が秘密を隠すように姿を隠し、対話をしようとしない。
ビクターは、その距離感が好きだった。
ここではきっとビクターは目立つことはないし、「おやじ」たちのような監視の目を向けられることもないだろう。
荘園の主が、自分たちを使って何かをしようとしていることは、あの“ゲーム”を通じて理解した。
それでも……それを差し引いたとしても、ビクターにとっては余りある幸運だろう。
グレイスより。そう書かれた手紙を見て、ビクターは心からの笑みを相棒へと向けた。
──
生者ではなくなった彼女が、無邪気な少女だった頃のこと。
散歩していたら砂浜にボトルが埋まっていたことがあった。
透明な硝子で出来た瓶は、人間のエゴが産んだ産物であり、忌むべき対象でもある。少なくとも今の彼女にとっては。
それでも、当時の彼女には流れ着いた輝きが宝物のように思えて、手に取った。
古びた瓶の中には紙切れが入っていた。固いコルクの蓋を開けて取り出し、覗き見る。
彼女は、文字が読めない。
周囲に助けを求めようにも、村人たちは文字など読めなくていいと甘く微笑むばかりで、まともに取り合ってもくれなかった。
本当にそうなのだろうか。
きっと、疑問が浮かんだ時点で、彼女の中で答えは決まっていたのだろう。
それでも、助けてくれる対象がいない時点でどうしようもない。最初から、彼女は詰んでいたのだ。
.。o○
グレイスは一人、目の前の赤いハッチの前に立ち尽くしていた。
ハッチは開いており、先程までいた存在もまた、この場から去ってしまった。
気まぐれに人間たちを逃がすことはあった。
今回も、ただの気まぐれに過ぎないのかもしれない。
彼女はこの場所から別の場所へと行くことは出来ない。彼女の命はここで尽きて、その魂はどこにも行けぬまま、この村……湖景村を彷徨い続けている。
子犬に味方への手紙を運ばせていた青年。
彼を逃したのも、戯れにすぎないのかもしれない。
ビクターはグレイスと同じように物を言わぬ人間だった。そのことに少しシンパシーを感じていたのだが、彼は話せないのではなく、話さなかったのだ。そのことに少し落胆した彼女だったが、すぐに意識はビクターから、その手元の手紙へと向かった。
彼から手紙をもらった人間たちは、少なからず感情を動かしていた。
だから、手紙というものに興味を抱いた。
グレイスは声を出すことが出来ない。
文字であれば、他者と交流することが出来るだろう。彼女は、ただの人間だった頃に、文字を読みたいと思うことがあった。
ただ、それは村に住む人間たちに止められてしまったが。
(必要のないことだから)
(あなたは私たちの救世主)
村人はグレイスを、まるで天から授けされた贈り物のように崇めていた。
海から流れ着いたグレイス。彼女が村に拾われた瞬間、村での魚の不作がなくなり、村は豊かな姿へと戻った。
でも、それもただの偶然でしかなく、また不作におちいったときにはその代価を命で支払うことになった。生贄にして捧げたところで、ただの気休めにもならないというのに。
勝手に期待され、勝手に失望される。
周囲の人間たちの身勝手さに巻き込まれ、グレイスは失意の中で鉾を手に取った。
村の人々が憎かった。
最初はそれだけだったのに、気がつけば生きる人間が全て殺意を向ける対象になっていた。
もし、自分の意思を伝えることが出来たなら。
グレイスは普通の少女でいられたのだろうか。
全ては終わったことであり、水泡に帰した。
考えていても、失ったものが帰ってくるわけでも、過去に戻って新しい選択を選べるわけでもない。
手紙を書くという行為は、彼女にとってあまりにも遅すぎたものだったけれど、それでも、無意味ではないはずだ。
この想いは、誰にも届かないのだろう。
月夜に照らされた瓶は、グレイスの手のひらで鈍く輝く。その無機質な冷たさは、どこか彼女を安心させた。
周囲にさざ波の音が響く。人間の声がしない静かな夜の海。グレイスは、祈りを捧げるように手を合わせた。