第五話 山の方から笛の音がする。
友人にそう言ったら笑われた。
「鐘の音じゃないの」
興味なさげに返事をされる。確かに山寺の鐘の音が聞こえてくることは、たびたびある。定刻ごとに鳴る鐘の音が、夕方などにはよく響く。けれど、その聞き慣れた音とは全く違うのだ。
音楽に詳しいわけではないので、どういう名前の楽器かも分からないが、誰かが練習をしているのかもしれない。もしかしたら、お坊さんに音楽趣味があるのかもしれない。
愛理は山に目を向ける。
「そういえば、愛理、駅にお迎えに行かなきゃいけなかったんじゃないの。誰だっけほら、伯父さん?」
私も正確にはよく知らない。お世話になったおじさん、という言い方をされたから、もしかしたら親戚ですらないのかもしれない。そのおじさんが来るから、駅までお迎えに上がれ、ということらしい。バスも少ない田舎で、目的の家に辿り着くのは難易度が高いだろう。
ねえ、と美織が瞳をキラキラさせながら、私の手を握る。
「おしゃれなお土産貰ったら、一緒に食べようね。独り占めしないでね」
普段は学校と家の短い行き来しかしないから、バスに乗れるのは少しだけ嬉しかった。窓ガラスに映った自分の顔を眺めて、前髪を少し整える。おじさんというのがどんな人かは知らないが、田舎者だからといって見窄らしく見られるのは、やっぱり少し嫌だ。
約束した時間よりも少しだけ遅れてバスが駅前に到着すると、見るからに不慣れな男の人が立っていたから、すぐにそれがおじさんなのだと分かった。
おじさんというのが、もしかしたら垢抜けた身綺麗な、率直に言うのならばすごくカッコいい人だったらどうしよう、とほんの少しだけ身構えていたのだが、おっとりした顔立ちの、のんびりとした様子の人だった。そんな人でも、やっぱり慣れない町では少し慌てるのかと思うと可笑しい。
そのおじさんの隣を、背の高い男の人の二人組が通り抜けていく。まさに私がほんの少しだけ想像していたような、綺麗な男の人たちだった。二人は到底ここの住人ではなさそうなのに、慣れた様子で駅前の広場を歩いていった。この二人がおじさんだったらな、と少女漫画のようなことを考えて、ちょっと残念だった。
「おじさんですか。お疲れさまです」
おじさんは安心したように、元から垂れている眉をさらに下げて笑う。
「ああ、これはどうも。ありがとうございます」
丁寧に頭を下げる。おじさんなのにすごく丁寧な人だな、と思ったのだが、その声は若かった。温和な人柄で分かりにくいが、年はそれほど離れていないのかもしれない。
「お疲れのところ悪いんですが、次のバスまで時間がありません。次が終バスなので」
「あらまあ。タクシーでも呼びましょうか」
「前に法事でタクシーを呼んだ時、近くに車がないとかで一時間は待ちましたよ」
おじさんは愕然とした顔をして、バス停はこっちであってる、と叫びながら走り出した。
バスの中での会話に困って、笛の音のことを聞いてみたくなった。
「山から音ねえ」
おじさんは少し考え込んで、首を傾げる。
「ねえ、えっと」
「あ、愛理です」
「愛理さんはご先祖様の話とか、聞いたことある?」
「うち、そんなご大層な家系ではないですよ」
「うち、というか。俺も親戚なんだから、同じ家系だよ」
本当に親戚だったのか。
「それで、昔、山に笛持って持っていったまま帰ってこなかった人いるって。聞いたことない?」
「え、怖い話ですか」
「ごめん、そんなつもりじゃなくって。あんまりにも笛が好きで、それで一人で吹きに行って、そのまんまそれっきりなんだって。だから怖い話じゃないから」
慌てて手を振っているが、十分変な話だと思う。
けれど、あの聞こえてきた笛の音を思い返してみれば、それはあんまりにも心地よくて、山でずっと楽しく笛を吹いているのならそれは。
「ずっと好きな笛を吹いているなら、ちょっと楽しいかもしれないですね」
そう言うと、おじさんは嬉しそうに笑った。ついでに、嬉しそうにおしゃれな紙袋を抱えているのにも気づいた。可愛いお菓子だったらいいな、たくさんあればいいな、と思う。