狒々の白羽の牙を折り 渇きを覚えて起き上がる。階下に降りると、縁側の戸が開いていた。淡い月光が黒髪の輪郭を浮かび上がらせている。起こしてしまいましたか、と控えめに笑う彼女のもとへ、足は勝手に向かった。意識なく、自動的に。まるで誘蛾灯へ向かう羽虫の行動だ。自覚はない——いや、あるのか? 疑問が浮かんで初めて、意識が分裂していると気がつく。ああ、なるほど。これは夢か。夢を俯瞰するとこのようになる。夢を見ている自覚のある自分はそれこそ指先でひねり潰される虫のようにちいさい。
身体を操っているほう、すなわちここが夢だと気づいていないほうの自分が無言で彼女の前に立つ。彼女の頬にはまばたきがひとつ落ちた。丸くてきらきらした瞳が自分を見上げている。互いに無言だ。彼女の唇にはわずかに微笑みがある。瞳には信頼が満ちている。音はなぜか聞こえない。静寂に満ちた世界でゆっくりと手が持ち上がった。自動的に——意識なく。渇いている、と思った。唐突に鼓動を意識する。心臓と眼球が熱を持ち、呼吸が早まる。彼女の瞳に戸惑いがよぎるのを見つける。羽虫のごときおのれには焦りが生まれる。必死で制動をかけようとする。だが身体のほうはいうことをきかない。手のひらはすでに彼女の体温を感じている。産毛の感触を。肌のわずかな湿り気を。半狂乱になった頭が、よせ、と叫ぶ。その人になにをするつもりだ!
「ももきさ、」
夜の中で小鳥がさえずる。
目の前の女の身体の隅々に誰もを狂わせる甘い蜜が満ちていることを俺は嫌というほど識っていて————————
「わたしは綺麗なままで死なないといけないんですって」
淡い声が歌っている。夢から覚めてまた夢の中、揺蕩うような囁き。視界には拳がある。もう片方の手が上から被さっていた。震える両手を見下ろして呼吸を数えている。座り込んだ縁側の床板は固く冷たかった。衣類越しに染み込む冷ややかさこそが救いだった。
「週に一度の夢の中で、どんなに拷問じみた方法で殺しても構わないけど、犯すのと辱めるのは駄目だって」
それがルールか。
陶酔から醒めた頭の中は散々な散らかり具合だったが、感情は素直にささくれ立った。彼女の黒髪が床にわだかまるのが視界に入り、彼女が目の前にしゃがんだことがわかった。
「ほんと、なにを考えてたんでしょうね、あの人。わたしの……わたしという人格のことは嫌いだったと思いますから、たぶん、慈悲とかじゃないと思うんですけど」
変なの。
のろのろと視線を上げる。女の横顔が夜空を見上げていた。表情は静かなものだ。感情を失った平坦さではない。枝の隙間から小さな毒のない蜘蛛が落ちたのを見たあとくらいの、起伏のなさ。今しがた、体格にも腕力にも勝るであろう男になんらかの危害を加えられそうになった女とは思えない。胸の中には嵐が吹き荒れる。彼女はとっくにそんな消費のされかたに慣れきってしまっていて、ここが夢だろうが現実だろうが構いはしないのだ。
「決まりが破られたことは一度もありません。あの人の機嫌を損ねて、毎週のお楽しみにありつけなくなるのは、みんな嫌だったみたい。興味がなかっただけかもしれないですけど」
「飛鳥井さん」
「ですからわたし、いわゆる、……そういう実際のところって、なにも知らないんです」
あんな体験はたくさんしてるのに。変でしょう。
穏やかに女が笑う。どうして彼女がそんな話をしているのか、わからないわけではなかった。握りしめていた手をゆっくりと開いて、また握る。身体のすべてがおのれの制御下にあるという確信までは得られないが、少しはましになる。
申し訳ありません、とつぶやく。「言い訳にもならないとわかっていますが、どうしてああなったのか、自分自身……わからないんです」
「構いませんよ。百貴さんなら」
「そんなわけにいきませんよ」
「そうなんですか?」
残念。
くすくす笑ってこちらを見る女の瞳は、いつもと同じく、透き通った美しい色をしている。抱えた膝に頬を預け、優しい微笑みを浮かべた彼女がゆっくりと問う。
「もしあのまま目を醒まさなかったら、わたし、どうなってしまってたんですか?」
「……俺、は」
庭に視線を向ける。
「早く、閉じ込めないと、と——」
風のない庭を見ていると、時間が止まってしまったかのような錯覚に陥る。声の震えを誤魔化せるとは思えなかったが、彼女の表情を見つめていられるほど厚顔でもなかった。
「あなたのすべて、心も身体もなにひとつ、これ以上……傷つかないうちに」
「それがあなたの望みなら」
やわらかな手が触れる。
視線をあげると彼女がいる。身体を傾けてこちらを見ていた。
「消えてしまうんじゃないかと思うことが、わたしにはあります」
彼女のまつげの下にあるものが労りだと感じる。そんな価値は俺にはないと、痛烈に感じている。触れている手をはねのけられないような男だというのに。
「身体のすべてが目に見えない粒に変わって、空気に溶けてしまうんじゃないかって。ミヅハノメが本当の意味で完成するのは、きっとそのとき」
「飛鳥井さ——」
「そんなときは、すべてを見てもらいたくなるんです。あなたに」
黒髪が音もなく流れ落ちた。
「わたしにまだ手足はありますか? どこも壊れていませんか? 爪は揃っていますか? わたしから見えないところが消えてしまってはいませんか?」いつの間にか微笑みは彼女の頬から消えていた。切実なまなざしが自分を見ている。「見て、触れて、確かめて欲しくなるんです。わたしがあなたの前に存在するんだって」
「それは」
確かな重みが胸に預けられる。腕の中に滑り込んできた女は目を閉じていた。ふっくらした唇をはにかみが彩っている。「——夢ですよ、全部」
夢。
彼女が口にするその単語は他の人間が言うよりも複雑な意味をはらんでいる。瞬間、すべてが曖昧になる。両手が持ち上がる。勝手に、ではない。おのれの意思でそうしている。今度こそ彼女に触れた。背中を抱いて髪に鼻をうずめると花の香りが鼻腔を埋めた。甘くむせ返るような沈丁花。たまらなくなって、目を閉じる。
「誰にも奪わせない」
ただしいほうの望みを口にする。おのれに存在するであろう欲望とは別の、ただの願い。祈りに似たなにかだった。
「あなたはあなた自身のものだ。あなた以外の誰が自由にできるものか」
華奢な身体は自然な姿で体重を預けてくれている。あらゆる種類の悪意に蹂躙されてきた女は奇妙なほど清廉だった。あの男の企てが成功しきっているのをまざまざと思い知る。彼女を壊さないように抱きしめるこの腕こそが証明だ。押し寄せる感情の数々をひとつずつねじ伏せ、稀有なる不撓の人への尊敬だけを丁寧に濾し取った。