ざんか。 慶長十六年夏の朝、男手ひとつで私を育ててくれた父は、肥後の屋敷で静かに息を引き取った。その日は酷く蒸し暑く、自慢の柔らかな栗色の髪はしっとりと汗に濡れ、頬に沿うようにひたりと張り付いていた。それはまだ私が十を数える年の頃の話だ。鮮明に記憶に残っているのは、意識を朦朧とさせながら私の手を取り握り締めた父が、私の顔を見ながら「みつなり」と私の名ではない誰かの名を呼んだことだった。その名を呼んだ後、父は何かを呟くように口を動かしたが、けたたましく鳴き始めた蝉の声に掻き消され、結局父が何を言ったのかは分からなかった。
母についての記憶はない。
物心ついた頃から、私に家族と呼べる存在は父しかいなかった。他には、父の幼馴染である正則おじさんが時々家に来たり、絵物語に出てくる美しい帝のような顔をしたお兄さんに遊んでもらった記憶があるだけだ。
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