確かに、いつもとは感覚が違うと加賀美は思っていた。ただ、それは慣れた面子、慣れたスタッフに囲まれて少し気が緩んでいたからだと思っていた。
昔から何度も現場で作品を作ってきた、ほぼ同期の葉加瀬。それから年下とはいえ芸歴が長い事務所の先輩である剣持。そして剣持とは同じく子役上がりで芸歴の長い夕陽。初対面はおらず、他のスタッフもほぼ大体が過去に何度も撮影現場で顔を合わせることのある面々ばかり。監督も知った人で、脚本家に至っては昔からお世話になっている馴染み深い人だ。今回の面子が決まったと知らされたとき、脚本家と監督がわざわざ指名してくれた上に、脚本に至っては当て書きで書き上げたと言われた時は流石に人脈に恵まれ過ぎたなと加賀美は思ったものだ。それほどに、リラックスできる現場だったのは間違いなかった。
主演は葉加瀬、そして副主演が加賀美。一時間のドラマが計三本、地上波放送ではなくサブスクリプションのある動画サイトでの配信だと先に言われていたが、貰った台本は相も変わらず面白かった。積み上げられたロジックと、そこで織り成される人間関係。この脚本家の一番面白いところは、人が抱くどろりとした「執着」を描くところだ。理性が、本能が、勘定に持っていかれた人間というのはこんなことをするのかといつも思わされる。そういう仄暗さの恐怖を描くのがとにかく面白いと思っていた。
が、故だろうか。その脚本家の台本を貰う度、加賀美はいつも表現に悩むのである。如何せん加賀美本人としては他人に執着を抱いたことがない。歌、演技、表現、創作。そういうものには大いにしがみついている自覚はあるが、それが個を対象にしたことはなかった。それを加賀美自身は「自分の生き甲斐を必死に楽しむので精一杯」とインタビューではよく話していたが、先輩の剣持には「だからその年でもゴシップに無縁なのか……」などとぼやかれたことがある。自分だって、今の今までそんなものを報道されたことなどないくせにだ。
今回も自分の役のディティールを自分の中で作り上げ、それに自分を同調させていく。記者の間では加賀美の役作りを『憑依型』と書く者もいるが、加賀美自身はそんな大層なものでもないと思っていた。あくまで自分の中で解釈し、作り、出来上がったそれに自分を溶け込ませる。監督や脚本家のアドバイスでそれを微調整して、チャンネルを合わせていく。どちらかといえばスイッチに近いと思っていた。自らの上にあるスポットライトが、役の色を当てられて話し出す。そんな感覚だと話した時、ものの見事に葉加瀬には首を傾げられたものだが。
ただ、今回はどうだろう。役の光が当たり、カメラが回った瞬間から何かがおかしかった。上手く出来ないのではない、上手くできすぎてしまうのだ。貰った役名──「長谷川」という男が、まるで自分の中に入り込みすぎているような。乗っ取られていくような、そんな心地が。
「はいカット! 三十分休憩入れまーす!」
かちん、と鳴り響く音に、詰めていた息を薄く吐き出す。ちょうど大山場の撮影が終わったばかりの現場内で、監督が満足そうに頷きながらカメラを見ているのが視界の端に映った。いつもの加賀美であれば、監督の元で同じように先程の自分の演技を見ながらリテイク箇所があるかどうか話したり、自分の役の微調整をしたりするものだが、そこに意識が向く前に加賀美の足が勝手に歩き出した。セットのある部屋を抜けて、廊下に出て、お疲れ様ですと声をかけてくれるスタッフに生返事を返し、出演者用の楽屋の扉を開けようとした──瞬間で、加賀美の手が止まった。止めたのは、加賀美本人だ。
勝手に進む足も、生返事も、加賀美本人の意識ではない。ただぼうっとする頭のどこかで、楽屋のドアノブに手をかける自分を止める自分が何故かいる。いや、でも、ここに入らねばならない。そう思う自分もいる。ここに、先に、居るはずなのだ。私の──僕の「マリア」が。
「何やってるんですか?」
それは突如、横から割り込んできた声だった。はっと顔を向けると、そこには先程まで現場にいた剣持が不思議そうに加賀美のことを見つめていた。おそらく、楽屋前で立ち止まっている彼が不審だったから出た一言だったのだろうが、それを聞いた加賀美は少しばかり朽ちを開閉した後に細い声で呟いた。
「──『永山』?」
その一言に、剣持は一瞬虚を突かれたように驚いた表情をした後──加賀美の肩を、強くはたいた。
「っ!?」
「何馬鹿言ってんだ、加賀美隼人」
「…………あ、ッ、ああ、ええ、あー……」
「正気に戻りました?」
「……それはもう、はっきりと……ご迷惑をおかけしました……」
「んはは。いーえ、どうも」
さっきとはうって変わっておかしそうに肩を揺らす剣持の姿に、加賀美はどこか安心したように溜息を吐いた。なんだかずっとおかしいと思っていたのは別に環境の問題ではなく、自分のせいだったのだ。自分があまりにも──乗っ取られすぎた。剣持にはたかれて、ようやくそれに気付けたのだ。
楽屋の扉を開けながら横を盗み見た剣持に、ああこの先輩が居て良かったなと心の奥底で思ったことは一旦黙っておいて──加賀美は少しだけ、張り詰めていた肩の力を抜くことを決めたのだった。