「甲斐田ぁ」
「はーい、なんですか?」
「ごめんなあ。実は俺、宇宙人だったんだわ」
「…………は?」
梅雨はひしひしと入道雲と太陽と連れてきて、明ける頃には茹だるような夏がやってくるんだと今日の朝のニュースではそんなことを言っていた。夏休みは七月の中旬から下旬のあたりじゃないかと生徒の中では噂になっていたけれど、正確にはいつになるかは分かっていないらしい。先生たちは皆してちぐはぐな日付を言うものだから、これだから高校は適当なことばっかだなんて愚痴ってる途中だったというのに、先輩で兄貴分の不破さんがふと突然脈絡のないことを言ってきた。
思わずきょとんとして持っていたサンドイッチを取り落としそうになったけれど、いっつも本当かよく分からない話ばっかりする不破さんのことだ、いつもの冗談かと思ってその顔を見たら今までないくらいの真顔。むしろその表情で更によくわからなくなった。むしろ聞かなかったふりをしたいくらいには理解不明だった。
「え、ええと、」
「隠していてごめんな」
「えっ!? い、いや、それは良いんですけど……? えっと、何て?」
「宇宙人。人間に化けて学校に潜入していた宇宙人なんよ」
「……は、はぁ、」
いつもはへらりと笑っていることの多い不破さんなのに、今日はものすんごい真顔だ。あと不破さんはあんまり冗談を引き摺ることもない。ということはこの宇宙人云々、冗談じゃなく本気で言っている可能性が出てきてしまった。そうなると大分厄介なことになる。ただ純粋に──面倒なことになった。不破さんがよく分からないことを真面目に言い出した時が一番手に負えないからだ。
まずそもそもなんで、突然自分は宇宙人なんだなんて話をし始めたんだろうか。突然そんなことを言うってことは何かしらあったか、今からあるかのどちらかだと捉えるのが妥当なはずだ。こういうのは大体宇宙人であるということ自体はその人にとってトップシークレットだったりするはずなのだから。いや、何真面目に考えてんだって自覚はあるんだけど。
「……不破さんは宇宙人。成程、それは一旦分かりましたけど」
「…………」
「……その顔なんですか」
「……や、何でも?」
「何でもって顔じゃなかったですよね今! 完全に『こいつ信じたぞ』みたいな驚きと哀れみを含んだ表情で僕のこと見てましたよね!? まじ不破さんそういうところだぞ!」
くそ、普通に一瞬信じかけたっていうのに。不破さんの馬鹿野郎。
「……それで、なんで宇宙人だって話を? 今それ言ってくるってことは、何かしらあるから宇宙人って言ったんですよね?」
「……ああ、そうそう。実は俺、地球を去ることなってな」
「…………はあ?」
今度こそ変な声が出た。なんだそのテンプレみたいな展開。自分の惑星に帰らなきゃいけなくなった的なあれそれなのか。そういうことなのか。本当にそれが理由だったら本気で怒ってやろう。かわいい後輩をおちょくるのはやめろとかそんな理由で。
「……自分の惑星に帰るとかそんな感じです?」
「えっ、なんで知っとるん」
「待ってまじで言ってんですか、嘘でしょ? ……ってことは帰らなきゃいけない理由も、ずっと人間に化けて地球調査を行ってたけど、ある程度データが取れたとか目的を果たしたとかで地球にいる必要がなくなったから帰ってこいってお上的な存在から言われた感じとか?」
「……はっ、まさか甲斐田も宇宙人か」
「待って待ってやめてまじでやめて不破さん一緒にしないで突然巻き込まないで」
「俺と一緒に惑星へ帰ろう甲斐田」
「お願いだからそのいつものへらへらした感じじゃなくてガチな顔して僕を謎のおふざけに巻き込まないでくださいどういうテンションで返したらいいか既に分かってないんですからまじでやめて」
っていうか不破さんのそのキャラなんなんだ? 宇宙人の方のキャラ設定はそんな感じなのか? 不破さんの惑星の流行りとか全然知らないけど多分そのキャラ設定は事故だと思う。本当にやめた方がいいと思う。……なんてどうでもいいことが一瞬にして頭の中を駆け巡っていったけれど、一旦口には出さないことにした。
僕は半ば呆れ顔にも程近い顔をしながら不破さんの冗談かも本気かも分からない話を聞いていると、ふっと不破さんが僕から視線を逸らしてフェンスの向こう側へと目を向ける。僕たちがよくご飯を食べている屋上は階段で六階まで上がらなきゃいけないこともあって、人が立ち入ることなんてない。初めて知り合った日から今日まで、僕らは雨が降ったりどっちかが休んだりしない限りは二人で毎日ここで昼食を食べるのが定番だった。
……あれ、そういえば不破さんと初めて知り合った経緯はなんだっただろう? 強烈だったような気がするのに、思い出そうとすると何故か記憶にもやがかかるように思い出せなくなる。物覚えは悪くないはずなんだけどな、なんて一人ごちている間に、不破さんは自分のパンを食べ切っていて、ゴミを簡単に片づけるとすくっと立ち上がってはフェンスの方へと歩いていってしまった。あまりにもそれは突然だったせいで、僕は慌てて自分のゴミを片付けてその背中を追う。
「不破さん、」
「ん?」
「……宇宙に帰るのって、いつですか?」
何か喋らなきゃ。そう思って口から出ていった言葉は、そんな冗談みたいな巫山戯たことだったのに、不破さんはなんとも寂しそうな、それでも嬉しそうな表情を浮かべて笑った。
「今」
「今!? 急すぎじゃ!?」
「だから最初に謝ったやん、ごめんって」
そんなの分かるわけ。そう言おうとした言葉は、突風に巻かれて消えていく。あまりにも強い風に目を細めた僕の目の前で、不破さんは軽く屈伸をしてから──二メートルはあるであろうフェンスを、軽々と越えて向こう側へと降り立ってしまった。
「……不破さん、本当に宇宙人だったんだ」
「だから言うたやん」
「そうだった。はははっ」
訳も分からないまま二人で笑って、少し口を噤む。僕は不破さんをじっと見て、不破さんも僕を見た。どこか満足げにも見える不破さんに何か言葉をかけたいのに、何を喋っていいかもわからずに口の中をもごもご動かしていると、不破さんはふいに空を大きく仰ぎ見る。それから、その長い指をそっと空へと指した。
「ずっと、甲斐田は空みたいだって思っとった」
「ええ、晴だから?」
「それもそうやし、眩しいなあって」
「なあるほど……それ褒めてます?」
「褒めてる褒めてる」
「本当かあ? ──ああ、ね、アニキ、」
「……どした?」
薄く吐き出したその呼び方は、いつか呼ぼうと思っていたものなのに、不破さんはまるで当たり前かのように笑って応えてくれる。
「もしかして、もう、……ずっと会えない?」
「……」
不破さんは何も言わない。それが、答えのような気がした。
「……ああ、そうなんだ。……そっか、」
「……甲斐田」
「はい?」
「楽しかった、人間生活。お前のお陰や。だから、さよなら」
緩やかに手を降る不破さんが、スローモーションみたいに背中から向こう側に落ちていく。僕はそれを悲鳴も無しに眺めて、何とは言えない感情が胸を込み上げてきて、ぎゅうっと苦しくなって、それから。
──それから、はっと息を吸い込んで辺りを見回した。
「……あれ?」
──何で僕は屋上にいるんだろう。いつも来ないはずなのにと振り返ると、僕の昼食で食べたらしいパンのゴミが扉の前で一つだけ纏められて鎮座していた。教室で友達と食べればいいのに、なんでこんなところで一人昼飯を食べていたんだろう。別に誰かと──食べていた覚えもないっていうのに。
そんな風に思ってすぐ、目の前を眩しい光彩が過ぎった気がした。それと共に、どうしてか檸檬を食べた時のような感覚を覚える。苦しいはずなのに一抹の爽やかさを感じたそれは、僕の目の前を通り過ぎては最初からなにもなかったかのように消えていってしまった。
「…………さん?」
僕はいつの間にか、誰かの名前を呼ぼうとしていた。けれど、それは誰かも分からないし、きちんと言葉にもなることは無い。最初から、もう何もなかったように音にさえならなかった。
フェンスから離れるように歩き出して、扉の前にあったゴミをきちんと片付ける。早く教室に戻るかと屋上の扉を開いた瞬間に、何処かから声がしたような気がした。
「かいだ、」
それはもうおぼろげな、夏の眩しさのような。全てがもやがかっているのに、何故かひどく懐かしい気持ちになる。一瞬振り返った先には、特に何も変哲など無い屋上の景色しかない。勿論僕を呼ぶ声なんて無い。
「……、さよなら。」
淡い何かが、ぱちんと弾ける。確かにそれはそこにあったはずなのに、何だか妙に思い出せないような。けれど、僕にとってその何かは、確かにとてつもなく大切だったのだ。何ひとつ思い出せないし、残ってさえいないというのに。
そんな感覚を揺さぶるように、初夏を連れてきた蝉の声が一つ、遠くで何かの終わりを告げるように鳴いた。