夏休みは必ず田舎の祖母の家で過ごすことが毎年の決まりだった。服を幾つか詰め、大きなボストンバッグで二時間半電車で揺られた先にある、母方の祖母の家。田んぼと林とぽつぽつ建ってる家以外本当に何もないそこは、コンビニすら歩いて一時間かかるような場所だった。祖母の友達らしいおばあさんがやっている駄菓子屋が十分くらいのところにあるけれど、一週間のうち三日しか開いてない上に開店時間も閉店時間も決まってないので、アイスを買いに行ったら閉まっていただなんてざらな話だ。そんな田舎に、俺は毎年遊びに来ている。理由は至極単純、両親水入らずの旅行が夏にあるからだ。両親が今でも仲良く二人だけで旅行に行くことは特段気にしていないのだが、もう高校生だというのに何故か毎度毎度ここに送られてしまうのである。
もう高校生になったんだから日中一人で家にいるくらい出来るって、と何度も言ったけれど両親は聞いてくれず、祖母の元に行ったほうが安全だしこっちは安心して旅行に行けるのよなんて言われたらもう反論の余地なんてない。中学時代は黙って行っていたけれど、高校に上がってもまさか行かされる羽目になるとは。都会から段々緑が多くなってくる田舎行きの電車の窓からそんなことを考えながら、きっと今年も店の手伝いをさせられるんだろうとそんなことを考えていた。
祖母が産まれた頃からずっとその家は建ち続けているという。祖父の父、つまり曽祖父の代に建てたらしい家は大分古いものだが、何度か改築を繰り返しながら祖母はずっと住み続けているし、祖父も亡くなった十年前までしっかり一緒に住んでいた。勿論母もその家で産まれ育ったし、父も毎年必ず盆と正月には手伝いに行く。祖父は定年退職後にこの家を改装して一階を古本屋にしてからはずっとそこで働いており、祖父が亡くなった今では祖母が店を開けている。そして夏休み中、祖母の家に行く俺は必然的に店番をさせられるというわけだ。
田舎は好きではある。が、日中好き勝手林で虫を取ったりするのはあまり祖母が好かなかった。のんびり出来ていいとは思うけれど、高校に上がってから出来た友人の社さんたちと新しいカードゲームのパックで遊ぶ約束が延期になったのは惜しい。今年もぼんやりと夏のひと時を本を読み続けるだけで消費してしまうようだった。悪くはないが、もっと他にやりたいことがあっただけに若干の落ち込みを抱えつつ、俺は貴重な高校一年生の夏休みを毎年通り田舎の祖母宅兼古本屋で店番をしながら過ごすことになったのである。
「隼人、アイス食べるかい?」
「ん? ああ、うん。食べる」
「はい。お客さん来てたかい」
「いいや、だーれも」
じりじりと茹だるほど暑い日差しが店前のアスファルトを焼いている。店番をしていて有難いのは店にある本を勝手にいくら読んでいても怒られないこと、あとはクーラーがガンガンに効いていることくらいだ。それ以外はただ、来もしない客の為にカウンターに座って暇を持て余し潰し続けるくらい。小学校六年生に初めて祖母宅に預けられるようになってからずっと店番をさせられているせいで、もうすっかり今では漫画や本が好きな子供に育ってしまっていた。
カウンターの前にある妙に座り心地のいい椅子に座りながら、アイスを片手に本の続きを読む。今読んでいるのは最近映画化したとあるサスペンス小説だ。この作家は結構マルチに色んなジャンルを書く割にはすべて面白いものばかりで、以前まではいくつかのシリーズを出していたとある恋愛小説を完結させたばかりだったけれど、今はサスペンス小説に力を入れているらしい。そして今、これが巷の学生に大人気だった。漫画化にアニメ化、ドラマ化に果ては映画化。何を書かせてもヒットすると世間はその作家の話で持ちきりだ。あと単純に執筆スピードが早い。つい先月も頭に新作の本を出したかと思ったら、その月の末頃に別の出版社で書いている別のホラーシリーズの最新刊を出して話題になった。もしかしたら同じハンドルネームで何人かいるんじゃないかとかって噂も出ているほどだ。まあ、メディア露出を一切避けているらしいからそんな噂が出るのも仕方ないのかもしれないが。
そんなことを考えていると、ちりんちりんと店の扉を開ける鈴の音が店内に鳴り響いた。こんな暑いのにお客さんか、と顔を上げたけれど、カウンターからまっすぐに見えるはずの店の扉の辺りには誰もいない。おや、と手に持っていたアイスを口に放り込んで、カウンター横にある監視カメラに目を向けると、確かにさっきまで誰も居なかった店内に人影があった。ずらりと大きく並ぶ棚の間、小さな影。それが、一冊の本を抜き取ったのが見える。
「……小学生?」
「これください」
「……」
確かにその背格好はどう見ても小学生。それも低学年から真ん中辺りが精々良いところだろう姿が、いつの間にか俺の前に居た。カウンターに本を出して、じっと俺を見ている。大きくて綺麗なまん丸の瞳はペリドットにも似た緑色で、さらりと落ちた髪は紫色だ。黒いTシャツに短パンを履いたその少年は、およそその姿から察せられるだろう年齢にはつり合わない文庫本を一冊カウンターの上へと置いていた。
思わず驚いて固まってしまっていた俺が全く動かないのに疑問を覚えたのか、少年は訝しげに首を傾げながら「……おーい」と声をかけてくる。その声でようやくはっと我に返った。まずい、完全にトリップしていた。本を手に取りながらバーコードに通して値段を伝えつつ袋に入れるか問うと、いらないと返ってくる。
「すぐ読むんで」
「えっ、あなたが読むんですか?」
「……そうですけど」
「……これを、」
明らかに俺が読んでいる本と同じか、それ以上に難しそうなタイトルをなぞって口を開きかけて、はっとする。いや、年齢と読む本に比例などない。もしかしたら俺より読書家の可能性もある。年齢を傘に下げるような物言いは人としてあり得ないだろう。思わずまた口を噤んだ俺に、少年はまた首を傾げる。ああいけない、二度も固まると流石に変人のそれだ。
「……もし良ければなんですが、読み切ったら感想を教えていただけませんか」
「……え?」
「実はこんなに難しい本、私まだ読んだことなく……。なのできっと読み慣れているあなたの感想を聞いてみたかったんです。なので、良ければぜひ。……はい、どうぞ」
「……ありがとう、ございます」
そう言いながら少年は俺が手渡した本を受け取って、その表紙と俺の顔を交互に眺めた。どうもその表情が不思議そうで首を傾げてみせると、少年はそのまま本を持ってその場から立ち去ろうとして──ぴたりと歩みを止めてから振り返った。
「お兄さん、ずっとここにいる?」
「え? いや、夏休み中……今月中はずっといますが、」
「じゃあ、まいにち来るよ」
「えっ」
「だから、明日も来る」
「え、う、うん?」
「……ぼく、けんもちとうやって言います」
「……けんもちさん?」
「そう、けんもちです。……じゃあ、また明日」
「……ええ、けんもちさん。また明日」
何だかとっても満足そうに、けんもちさんはにこにこしながら俺に手まで振って店を後にしていった。暑そうな夏のアスファルト上を、そのまま右に歩いていく。それを眺めながら俺は緩やかに首を傾げて、おかわりの麦茶でも入れることにした。
高校一年生の夏休み。不思議な縁があるものだ。
◇
けんもちとうやという字は、剣持刀也と書くらしい。初めて来た日に宣言した通り、その翌日から毎日店へ訪れた剣持さんは、およそ男子小学生とは思えないほどの角ばった綺麗な字を書いてそう教えてくれた。剣に刀と、格好良い文字が並んでますねと言うと、ちょっと複雑そうな顔をしながら「父が付けたらしいですけどね」と言った。微妙そうなその素直な表情が、ようやく小学生らしいと思える瞬間だった。
最初に来た時に宣言した通り、剣持さんは毎日決まった時間頃に店を訪れては、毎度本を一冊買っていった。彼が選ぶものは大体が難しい本ばかりで、更にその本をどうやら一日で読破しているらしい。必ず次の日には本の感想を教えてくれるので、何だか彼ばかり立ち話させているのが申し訳なくて、二日目くらいからは椅子に座ることを勧め、三日目にはお茶とお菓子を出すようになった。そもそも彼以外客は来ない上にここは田舎。好き勝手していたところで咎める人もいないけれど。
剣持さんはやはり妙に子供らしからぬというか、話のテンポが驚くほどによく噛み合う。弁が立つ、とでも言えばいいのだろうか。時々自分より上手く会話をするなと思う時さえあった。彼と会話をしながら分かったことは、剣持さんは俺と同じで都市部の方に住んでいるけれど、今年は初めて母方の家に預けられることになったこと。小学生四年生で、時々もっと年下に間違えらることもあるということ。それと、
「ぼく、身体が弱いそうで」
「そうなんですか?」
「今は少しましですけどね」
「ああ。だから田舎に? 療養が目的ですか」
「……たぶん。母がしんぱいして、こっちにあずけたのもあるんでしょうね」
元々気管支が弱く、もっと小さい頃はよく入退院を繰り返していたこと。病室で出来ることといえば本を読むことで、昔からずっと本を読み続けていたこと。そんな生活をしていると浮世離れしていると周りからは疎まれていたこと。唯一、今預けられている母方の祖父の家はありのままの自分を受け入れてくれるから楽だということ。ぽつぽつとそう話してくれた剣持さんの横顔は、どこか少し寂しそうに見えた。
「だから、こどもらしくないとか。そんなことを言われたこともありますよ」
「ああ、なあるほど……」
「だからはじめ、はやとくんが「あなたが読むんですか?」って聞いてきたとき、またかと思ってました」
「あー……ごめんなさい。失言ですね」
「ああでも、はやとくんはそのあとぼくに「感想聞きたい」って言ったじゃないですか。それがぼくはうれしかったんで、いいですよ」
「え?」
「こどもらしくないって言うのはかんたんでしょう。だけど、それをみとめてくれて、ちゃんと一人の人間として見てくれる人はあんまりいないから。ああ言ってくれたから、ぼくははやとくんともっと話してみたいって思ったんです」
「……剣持さんは良い人ですね」
「ふふん、そうでしょう」
剣持さんのその言葉が嬉しくて思わず頭をわしゃわしゃと撫でると、剣持さんは少しばかり膨れ面で、けれど嬉しそうに頬を赤くしながらそっぽを向いた。大人びているなんて言われているけれど、こんなに年相応の顔だってするじゃあないか。決め付けはよくないなと思いつつ撫で回した髪を梳いて整えると、剣持さんは心地良さそうに目を細めた。
「……ぼくが、はやとくんと同い年だったら、」
「……ん? 何ですか?」
「ぼくがはやとくんと同じくらいの年だったら、はやとくんと友達になれてたんでしょうね、きっと」
「何言ってるんですか。もう友達でしょう、私たちは」
「……はやとくん、」
「年なんて関係ないですよ。剣持さんは剣持さんで、私は私ですから。なら、私と剣持さんはもう友達ですよ。そうでしょう?」
「……ん、ふふ。そうですね」
くふくふと嬉しげに笑うその小さな姿に、ただゆるやかに心が温かくなる。クーラーのかかった店内で俺と剣持さんの麦茶が入ったグラスの氷が、からんと小気味良い音を立てた。
◇
『隼人~、夏バテしてない? 元気?』
「元気だよ。そっちは旅行中怪我とかしてない?」
『ぜーんぜん! 楽しいよ、海外! 冬は隼人も行こうね』
「はいはい、分かってるよ」
夏休みも終盤に差し掛かり始めた頃、いつも通り店の閉め作業を終わらせて部屋に戻ると母から電話がかかってきていた。今年の夏はヨーロッパのいくつかを回っているという話の両親は、どうやら元気に観光地を巡りながら楽しんでいるらしい。この数日はどこそこに行ってね、という話をぼんやり聞いていると、母がふととあることを零した。
「そういえば、昔お父さんと二人で行った国回ってた時に思い出したんだけどね。あなたすっごーくちっちゃい頃、入院していたの覚えてる?」
「え、いつの話……?」
「小学四年だったかな。事故でね、足の骨折ったからって入院してたの。あー、その時頭打って一時的に記憶がおぼろげになるかもしれませんってお医者さんに言われたから覚えてないかなあ」
「全然覚えてないな……? そんなことあったんだ」
「あったあった。あのね、その時にあなた、同じ小児科病棟で二つ隣の部屋に入院している男の子と仲良くなって。あの子と友達になったんだって毎回毎回見舞いの度に言ってたのよ」
「……本当に覚えないな。友達なんていたのか」
「いつか退院したら一緒に外で遊ぼうって話していたくらいだったのよ。でも、あなたが退院する前にその子一時帰宅だったかでいなくなっちゃって。結局挨拶も出来なかったのよね。ええと名前なんだったかな……ケンモチ? じゃなかったかしら」
「…………は、」
ケンモチ。ケンモチ? 剣持って、あの。同じ苗字とかではなく。
「その子、……名前は」
「ええ、覚えてないわよ。そもそもあなたずっとケンモチさんケンモチさんって呼んでたんだから。あの子どうしてるのかしら、結局その後のこと知らないのよね」
「…………」
「あ! そろそろお風呂入ってくるわね。また電話するわねえ」
「……うん、楽しんで」
ぷつりと切れたスマホを片手に、思わずぼうっと意識が彼方に飛ぶ。頭の中がぐちゃぐちゃになっていくような気がするのに、変に思考がまとまるような。そんなちぐはぐな感覚に思わず息が詰まった。それから、目の前を掠める剣持さんの笑みが浮かぶ。あれは幻か夢か何かなのだろうか。
思わずさっと立ち上がって、店側の階段を下り小さな豆電球を付けた。暗い店内で、カウンターに置いてあるここ数週間の売り上げ一覧を見る。剣持さんが店に来てからずっと他にお客さんは来ていない。確かにレジへ通したあの本が、きっと剣持さんが本当に居る唯一の証拠なんじゃないかと過ぎったのだ。ぺらりと捲った紙の一覧に並ぶ、確かに売って感想を話し合った本の数々。何だ、ちゃんと剣持さんはいるんじゃないか。ほっと大きな息を吐いた瞬間、その本のタイトルを眺めて、とあることに気付いた。それから、また息が止まる。
ああ、そういうことか。ふと妙にすとんと納得してしまったのは、最初からそうじゃないかと思っていたからか。もしくは漫画や本の読みすぎか。多分そのどちらもかもしれない。
◇
剣持さんは必ず、店へ十五時には訪れる。そして絶対に店の右側から来るのだ。そもそも最初からそれに対しておかしいと気付かねばならなかった。
この店は集落の端にある。店を出て右手に道は確かに続いているけれど、道の先は林までの一本道だ。ぐるっと店を回ってこない限り、右に行っても何もない。そんな面倒なことをする意味も理由もない。
なら、剣持さんはどこから来ているのだろう。それを確かめるべく、十五時より少し前に店の前に出て剣持さんを待つことにしてみた。からりと晴れた真夏日、じりじりと肌を焼く感覚に思わず顔を顰めたけれど、真相は突き止めなくちゃいけない。じっと林の方を見詰めていると、ふとその向こう側から誰かが歩いてきた。──ああ、本当に剣持さんだ。どうして。
「……はやとくん?」
「剣持さん……」
「今日は店前のそうじ? ぼくも手伝おうか」
「いえ、剣持さんを待っていたんですよ」
「……ぼくを?」
「ええ。……ねえ、剣持さん。あなた、その──本当に、生きてる人ですか?」
どう言えば良いか分からなかった。けれど、一番聞きたかったことはそれだったのだ。母の言う通りならば、俺が退院した後のケンモチさんの消息は分かっていない。今目の前に居る剣持さんが俺の過去に会ったあのケンモチさんであるなら、入退院を繰り返しているという話も、病弱という話も、全てケンモチさんの話のはずだ。じゃあ何故剣持さんはこの小学生の姿で俺に会いに来たのか? もしかして既に彼は、なんて怖いことばかり考えてしまう。目の前に居るのは、果たして本当に生きている人なのか。最期に俺へ会いに来たなんて、そんなサスペンス小説の王道展開、本の中だけで良いというのに。
俺が不安を滲ませた声と表情で聞いたその質問に、剣持さんは一瞬驚いた顔をした後にゆるく笑った。それはもう驚くほどに、柔らかく。
「……さいごに会いたかったんだって言ったら、はやとくんはぼくのために泣く?」
「っ、じゃあ、」
「んふふ、だいじょうぶ、生きてますよ。でも、ちょっと、……そろそろどうなるか分からないですね」
「え、」
「生霊、って言うんですか。ぼく、どうしてもはやとくんにもういちど会いたかったんです。ぼくがあの日もどってきたときには、もうはやとくんはいなくて。ぼくはてっきり、はやとくんはさよならも言わずにぼくのことがきらいになったんじゃないかって思ってました」
「そ、んなこと……!」
「でも、それでも会いたかった。きらいになられててもいい、もういちどだけ会いたいってそうずっとねがっていて。……そうしたら、こうして会うことができた。それもあの時みたいに、明日になっても明々後日になっても会える。それがとてもぼくは、うれしくて。」
「……剣持さ、」
「……ぼく、またはやとくんと友達になりたかった。もういつ死ぬかもしれない、はやとくんはぼくのことを覚えてないかもしれない、そんなのわかってるのに。でもまたあの日みたいに、友達になりたかった。……ごめん、はやとくん」
「っ、馬鹿ですか、剣持さん! 諦めるな、お願いだから……っ!」
「ああでも、ぼく、この七日間、とても楽しかった。……いましんでもいいくらい、たのしかったんだ。ありがとう、はやとくん」
ぱち、ぱち。それは閃光のように瞬いた。剣持さんの小さな身体がどんどん薄く透明に見えるのに、その瞳からぼろぼろ零れ落ちるのは星屑みたいな光で。ああ、だめだいやだ、折角会えたのに、友達になれたのに。消えていく剣持さんの姿に縋ることも出来なくて、俺は何を言ったら良いかも分からなくて、ぐるぐると思考が渦巻いて、弾けて。
ぱちんと目の前で剣持さんの涙が零れて弾けた瞬間、フラッシュバックのように思い出が掠めていく。ああ、あれは白い病室。小さな俺と剣持さんが、指切りの約束をした。
「ッ、また遊ぼうって約束しただろ!」
「──っ、」
「退院したら、外で遊ぼうって……! 指切りまでした、針千本飲ますって言った! ……約束、したんだから。守ってくださいよ、剣持さん」
「で、も──」
「絶対に会いに行くから! また友達になれたんだ、遊ぶことだってまた出来るでしょう!? 私は、剣持さんと約束したんです! ……剣持さんじゃないと、いやです」
セピアの走馬灯。確かにあれは約束だった。病室で、剣持さんのベッドで白いシーツにくるまって、二人で指切りをした。また明日も遊ぼう、明後日も、明々後日も、ずっと遊ぼうと笑った。忘れていたのは俺のくせに、覚えていてくれて会いに来てくれたのは剣持さんだというのに。俺は今更思い出して、こんなにもばかみたいに縋っている。だけど、みっともなくてもいい。剣持さんに居なくなってほしくなかった。
弾ける星屑は、もう流れるのを止めたらしい。薄くなるのは変わらずに、もうほぼ見えなくなりかけている剣持さんは柔らかくて優しくて無邪気な、子供のような笑顔で俺に笑いかけた。
「はやとくん、」
「……けん、もちさ、」
「また絶対に、会いにきてよ、」
「剣持さん!」
ぱちん。真夏の流星は、一縷の線を繋いで流れていった。剣持さんは嬉しそうに笑みを浮かべたままで、俺にわざわざ手まで振って消えてしまった。あまりにも呆気なく、けれど少しだけ何かを残していなくなる。ぐらぐらと揺れる思考が取り留めもなく何かを掴もうとした瞬間、俺の身体は綺麗にアスファルト上へと倒れこんでいった。考えもまとまらない、何も考えられない。だけど、ただそこに一つだけ言えることがある。
高校一年生の夏休み。俺は、確かに大切な何かを思い出すことが出来たのだ。
◇
あの日、店前でぶっ倒れている俺の姿を見た瞬間、すぐさま救急車を呼んだ祖母曰く「寿命五年縮んだ」とのことで、祖母には大変申し訳ないと言う気持ちでいっぱいだった。因みに軽度の熱中症だった。やっぱり夏の猛暑は害悪だ。
大きなボストンバッグを持って、俺は今電車に揺られている。行き先は自宅から三つ前の駅の予定だ。いつもは夏休みいっぱいまで祖母の家にいるのが当たり前だったけれど、今回は祖母と両親に頼んで一週間ほど早めに帰る許可を貰ったのだ。理由はたった一つ、とある人を探すためである。
三つ前の駅に降り立って、ボストンバッグは適当にコインロッカーへと預ける。小さいバッグには財布とかスマホとかの貴重品と、一冊の本。それから記憶と地図を頼りに、とある大型病院まで辿り着く。
さて、とりあえず此処から探すべきか。流石にもう小児科にはいないだろうけど、小児科のナースステーションに行くのは有効な手かもしれないと訪ねに行ってみると、看護師さんはあっさりと俺に彼の行き先を教えてくれた。西病棟、内科の一番奥にある個室にいるんだという話で、つい先日集中治療室から出てきたばかりだという。「面会なら内科のナースステーションに連絡しておきましょうか?」と言ってくれたので、お願いしながらそのまま西病棟へと移動した。
ずっとあの日から、彼と出会った数日間が夢だったのではないかと考えていた。けれど、それを思い返す度にカウンターに置いてあった売り上げ一覧を思い出す。彼が買っていた六冊の本。『再会』『つかの間の幸福』『約束』『もう一度』『優しい時間』『はじめての友達』。きっと最初から気付いて欲しかったのだろう。けれど、俺が覚えていないのを知ってしまって、言い出せなかったのかもしれない。
内科のナースステーションに名前を言うと、部屋番号を教えて貰うことが出来た。こつ、こつ、と廊下に俺の足音が響く。ああ、もし本物じゃなかったらどうしたものか。もしこれで勘違いだったら。いや逆に、彼があの数日間を思い出せなかったらどうしたものか。俺のことを忘れていたら。そんなことばかりを考えてしまうけれど、それでも一度会うしかないのだ。覚えていないなら、もう一度作り直せばいい。他人からでも構わない、彼が相手ならそれでもいいとさえ思えた。
廊下の突き当たり、右側の部屋。ネームプレートにはあの名前。深呼吸を一つしてから、震える手が扉をノックした。「どうぞ、」少しばかり低くはなったけれど、聞き間違えることはないあの声。ああ、本物だ。少しだけ目の奥が熱くなりながらそれを堪えて、意を決して扉を開けた。
さらり、と。風が吹き抜ける。開いた窓から風が入り込んで、ベッドの上に腰掛ける人の髪を少しだけ靡かせた。あの小さい姿から途轍もなく伸びたその身体は、やっぱり病弱故か細くて白い。けれど、あの紫の髪は変わらなくて、勿論髪型もあの頃と変わらないまま。その顔が手元にある薄汚れた古本から上げられて、驚いた表情に変わる。見開いた瞳も、ペリドットのうつくしい、緑色のまま。ああそうだ、彼だ。俺の大事な友人は、彼で間違いない。
「──剣持さん」
「……本当に、会いに来てくれたんですか……?」
「ええ。……だって、約束しましたからね」
ベッドまで歩み寄った俺の手首を掴んだその身体が細い。ああ、それでも確かにあれから大きくなっていて、俺のことも覚えていてくれた。また会えたという、それだけの感情が胸の中で膨らんでいく。懐かしい剣持さんの笑み。柔らかい掌。ああ、変わらない。良かった、変わらなくて良かった。
小さく降り注ぐ太陽の煌きが、白い病室とベッドのシーツに光を落とす。再会に喜ぶ二つの身体の横で、サイドテーブルに積み上がった六冊の本が俺たちの感情を歌っていた。