一番最初に出来なくなったのは、咄嗟に誰かの一言を掬うことだったと記憶している。次に、喋ることが少し億劫だなと思うことが増えてきていた。そうして、外に出ることがつらくなってきて、食事が面倒だと感じることが多くなった。どうにかこなしているうちに、遂に目の前が霞むようなことが何度も起こるようになってしまった。
心因性のストレスだろうというのは大いに理解していたけれど、それでも病院にかかる程度が精々関の山。入院は出来ない、もっと言えば休むことさえ難しいと医者に言えば、難しい顔でいくつかの処方箋を出してくれた。それを飲みながらどうこう誤魔化しつつ動いている内に、その朝がやってきてしまった。
「……?」
歌が歌えないと、唐突に気付いた。気付いてしまった。声を音にすることが出来ない。メロディを紡ぐことさえままならない。喋ることは出来る、音を出すことも出来る。けれど、この声が明確な音階にならなかった。それを知った時、はくりと口が呼吸を薄く吐き出して、溜息にもならず気化していった。自分の存在意義が、不明瞭になったのだ。
瞳から色が奪われるように、鼓膜から音がなくなるように、舌から味が失われるように、自分から歌が消えていく。大きな支柱のひとつであったものの大事さなど、どれだけ手籠めにしておこうとも頼りなく自分を裏切るものだと、その時初めて知った。自分から歌がなくなった時、自分には何が残るのだろう──そんな恐怖に、身が浸されていった。
流石にそうなってしまえば、どんなに心身がおかしくなった自分でも今回こそは休まねばならないと自覚が出る。傍らのスマホを開いて、マネージャーに連絡を入れようとディスコードを開いた時。これもまた薄い声が、あ、と小さく出ていった。
そうか、今日は。今日という日こそ、歌が歌えなきゃどうしようもないじゃないか。
◇
レコーディング室の端で、邪魔にならない程度に喉を鳴らす。声は発せられる、けれど音が線にならない。不味い、やはりスケジュールをずらしてもらうべきだったかと頭の何処かで考えはするが、それでももう一人の自分が意地でも喉を開こうと無理くりに発声練習をしようとしていた。
がらりとひしゃげた声はおおよそ喉を扱う配信者とは言えないほどに悪い。それでも執着のように喉を開けて、声を引っ張り出し、音をどうにかして掴もうとする。頼む、頼む、頼む。歌えなきゃ、この喉の意味など。この身の理由など。自分が自分である意義など、これっぽっちも。そんな思考ばかりが駆け巡る。
精神負担など考えている暇などないのに。自分はやりたいことをやりたいだけしていて、そのためにかける努力など楽しいばかりだった。色んな良い人に恵まれて、得られたものも、それ以上のものだって、この腕の中にはある。未だ夢は高みにあって、それに手を伸ばすために頑張っているけれど、その芯はいつだって歌うことが柱になっていた。
この声を好んでくれた人々に、上手いと言ってくれた方々にどうにかして報いたいはずなのに。こんな、過労や心身の疲れ、程度、で。
「社長?」
その時、確かにどこか遠くで、甲斐田さんの声がしたような気がした。
「……か、いだ、さ……」
「うわ何社長の声、やっば。なんでそんながらがらなんですか!」
「あ、の……」
振り返ったその先で、まばゆい青空の双眸が此方を見て驚いている。一瞬強張った身体が少しだけ緩んだ途端、がくんと足から力が抜けていく。慌てて体勢を立て直そうと揺らいだ身体を、甲斐田さんはすぐに支えてくれた。
「社長、具合悪いですよね」
「っ……いえ──」
「……本音さえ言えないほど頼りないですか、僕は」
「そんな、つもりは、」
「じゃあしんどい時はしんどいって言ってくださいよ。仲間でしょう、僕ら」
あまりにも真っ直ぐすぎる言葉は、私から返すだけの一言さえも奪う。ああ、とまた薄く細い声を出した私に、甲斐田さんは肩を貸しながらレコーディング室を出て、その隣の休憩室へと私を連れ出した。大きな仮眠も兼ねたソファーに私を置き、動かないようにと叱ってから背後の自販機へと回っていった。
迷惑をかけてしまった、そう思うと同時に、何故かどっと安堵感にも似た疲れが四肢の先まで広がる。動くなとは言われたものの、一切動く気にさえならなくなった私へ、甲斐田さんはそっと隣へ座り込みながら小さな何かを手渡してきた。温い熱と共に手の中へと転がり込むのは、はちみつレモンの字。視線を上げた私に、甲斐田さんは真っ直ぐをその光を寄越してきていた。
「いつから悪かったんですか、具合」
「……二ヶ月、でしょうか」
「そんなに前から!? ……病院は?」
「行きました。薬は処方、してもらって……」
「で、効いてますか」
「……あまり、」
「お医者様はなんて」
「長めの休みを、取った方が、良い、と……」
「……でもこの二ヶ月、社長ずっと事務所来てましたよね。収録も休んでない、配信もいつものペースやってる。今日だって──ろふまおの新曲レコーディング、どうして休まなかったんですか」
そう、今日はろふまおで出す新しい曲のレコーディングだった。曲のテイストの関係上、私が一番最初に入るべきだったもの。私が休めば、後ろがつかえてしまう。それも理由のひとつだった。ただ、それ以上に思ったのは。
「……あの曲は、私が、どうしても──四人で、歌いたかった、から、」
我儘を言って通してもらったそれは、きっと全員の個性に一番合った歌い方が発揮されるだろうと思い頼んだ曲だった。オケと仮歌と歌詞を貰った時に、なにより一番最初に入りたい、完成を一番最後に聞きたいとわくわくしたほどに楽しみだったもの。それを逃したくない、この気持ちをストレスなんかで潰したくない。ただそう思って、歌も歌えないのにレコーディング室までやってきてしまっていた。
ただ、結果的にこうして甲斐田さんへ迷惑をかけてしまったけれど。
「……社長の気持ちは、すっごく嬉しいですよ。僕もあの曲貰った時、ものすごくわくわくしました」
「……はい、」
「だけど、その気持ちで自分の不調を塗り潰しちゃ駄目だ。身体が資本だって、僕ら痛いほど知ってるでしょう」
「そう、ですね、」
「つらいときは、ちゃんとつらいって言わなきゃ。身体が悲鳴上げてるときは、しっかり休まなきゃ。……それでも何かしたいって前に進んでしまいそうになるなら、僕らのこと頼ってくださいよ、社長」
叱るのは、心配しているから。いつか誰かが言った言葉が、頭を掠めていく。確かに自分だって、他の誰かが無理をしてでも動いていれば叱るだろう。ああ今、自分は心配されているのか。そう気づいて、何だか笑ってしまいそうになった。
きっと甲斐田さんに言えばもっと叱られてしまうだろう感情が過ぎる。それは一度、胸の奥底に秘めておくことにして。
「……ごめんなさい、甲斐田さん」
「よし。次からは無理しちゃ駄目ですからね。休めって言われたならちゃんと休んでください」
「はい」
「ちゃんと、目を見て約束できますか」
「もちろん」
「ん、ならよし! 今日はどうしますか、帰るなら甲斐田送りますよ」
「……少しだけ、ここで、休んでも、いいですか?」
「勿論。じゃあ僕、ついてますね」
ゆるやかに吹き抜ける風と共に、温かな陽だまりの光がさらさらとソファーの上へと降り注ぐ。手の中に握り込んだやわらかい温かさに、沈み込んだクッションの心地がとろとろと眠気を誘い込んできた。
すこしだけ、ねむってもいいですかと零した私へ、隣にいた甲斐田さんはどうぞとその声を落とす。それからふわりと目の前を彼の羽織りが掠めて、私の疲れ果てた身体へと掛けられる。鼻腔を擽った金木犀の香りは、落ちかけた目蓋の裏に青天の秋を思わせた。
「おやすみなさい、社長。良い夢でありますように」
慣れ親しんだ声に、擦れた声でありがとうございますと紡ぐ。うまく吐き出されさえしなかった想いだったけれど、くすくすとどこか嬉しそうに微笑んださえずりが鼓膜を震わせる。ああ、きっとあの言葉は、届いていたに違いない。