楽の仕方も、手の抜き方も、所謂上手いことやる、なんていう方法も。昔はよく知っていたのに、今はやり方さえ忘れてしまった。大人になって年を取った後の方が、やりたいことに対する天秤の釣り合いの取り方が分からなくなってしまっている。加賀美は、そうやって生きてきてしまっていた。だから今こうして突きつけられている痛みに、どうしようかと少しばかり冷たい息を細く吐き出しているわけなのだが。
耐えきれないわけではない、けれど鈍い痛みが頭を蝕んでいる。いた、と目を細めればしぱしぱとした感覚が疲労を伝えてきた。ああ、眼精疲労か。大きく吐き出された溜息は固まった首や肩をほぐしてはくれず、ただ疲れを滲ませるばかりだ。さてどうしようかと過ぎらせつつも、事務所の廊下を歩く足は少し遅くなるだけで止まりやしない。
代表取締役社長としての仕事、そして配信者としての会議、収録、配信諸々。社長とバーチャルライバーとしての二足草鞋は、考えている以上に多忙だ。加賀美にとってそのすべてが手を抜きたくない物事の数々ばかりなせいで、こうして仕事ややることが重なってしまうと体調を崩すまではいかずとも、小さな不調が出てしまうことが度々ある。どちらかといえば体力には自信がある加賀美だが、それでも疲労は蓄積されるものだ。どんな人間でも、どんな大人でも。
出来る限り食事は疎かにせず、睡眠はきちんといつも通り取る。それをどんなに心がけていても、年のせいも相俟ってか疲労が抜ける速度というものは年々遅くなっていた。特にここ最近は諸々の仕事が矢継ぎ早に続いているせいで、うまく休息をとるということもままならない。直近で一日丸々オフの日はいつだっただろう、なんてことを思い出そうとしながら踏み出した一歩は、疲れから来る軽いふらつきによって定まらず歪んだ。
「……っと、」
倒れるほどの目眩には至らなかったが、思わず止まってしまった身体が休息を欲していることなどありありと分かる。けれどこの後はろふまお塾の会議が三十分後に行われる予定だし、その後は少し時間が開いて別の収録が入っていた。いつもであればどこかでコーヒーでもテイクアウトしてゆっくりと事務所へ来ることが多い加賀美だが、ここ連日はちょっとした不調がずっと後を引いている。何か起こってしまう前に先手を打って動いておきたいという気持ちの方が先んじるお陰で、のろのろとした足取りの後に開かれた集合場所である休憩室にはまだ誰も居やしなかった。
備え付けられているインスタントコーヒーを飲んで頭を醒ますべきか。そんなことを考えた途端、頭へうねるように響く鈍痛に思わず顔を強張らせる。ちらりと見えた休憩室の端のソファーと鞄の中へ入れてある鎮痛剤の存在を思い出して、ちょっとばかり空いた時間を休憩に使うべきだと加賀美の脳裏は勝手にそう弾き出した。
椅子に置き捨ててあった鞄に手を突っ込んで、水と薬を取り出す。錠剤を喉に滑り込ませて水を飲めば、それだけで少し安堵が漏れた。皺と寝苦しさのことを考えてどうにかスーツのジャケットだけを脱ぎ放り投げた後はもうソファーに倒れ込むことしか頭になく、ぼふんと投げ捨てられた彼の体躯がソファーに沈み込む頃にはどっと脱力にも似た疲れが頭のてっぺんから爪先までを一気に支配した。
おそらく甲斐田か剣持の辺りが次にやってくるだろうということを考え、彼らが起こしてくれるだろうと勝手に目論見を立てた加賀美は、一瞬過ぎった会社のメール確認や連絡などを頭から追いやることにした。今はもう少しでいい、泥のように眠りたい。未だ目を閉じようとも揺れ続けている世界に別れを告げるように、加賀美の意識は一気に低迷した。
起きたら、またいつもの自分に戻れていますように。そんな頼りのない祈りを込めて。
◇
ほぼ無意識に身じろいだ体躯が、ふと懐かしい匂いと共に温かさに包まれていると気付いたのは、加賀美の意識が眠りの泉から上がった時のことだった。ぼんやりする視界の中で、一番最初に過ぎったのはああ、ずっと苛んでいた頭痛が止んでいる、という認識。その後、今は何時頃だろうと思い至って、それから未だ惚けている目先が見慣れた色合いの足たちを見とめた時。加賀美の頭は物凄い勢いで、急激に醒めた。
「ッ、おはようございます……!?」
がばりと思い切り身体を起こすと、いつもの面々が椅子に座りつつ好き勝手過ごしていた。甲斐田はスマホを見ながら何か書類を見ているし、不破は言わずもがなゲームをしている。剣持に至ってはおそらく学校の課題らしいプリントを広げて勉強中だ。思わず見上げた休憩室の時計は、加賀美がソファーに沈んでからおおよそ一時間ほど経ってしまっていた。
まずい、やってしまった。社会人としてあるまじき、と咄嗟に思った加賀美の考えを知ってか知らずか、顔をあげた三人はぱっと笑みを向けてきた。
「あ、社長起きましたか。おはようございます」
「まだ寝とってもええんよ、しゃちょ~」
「水、そこに置いてあるので飲んでからの方が良いですよ」
三種三様の返答に、いやそうじゃないでしょうと突っ込みそうになった心をどうにか押しとどめつつ、剣持が勧める通りに一度水で喉を潤す。さあっと身体の中へ染み込んだ冷たさは気分を鋭くさせて、ああいつもの自分だと思わせるだけのコンディションが醒めるように四肢の隅々まで行き渡った。
だからこそ、はっきりとした頭が完全にやってしまったという認知を弾き出している。自分が思い切り寝こけていたが故に、この心優しい人たちは自分を起こすことなどなく寝かせていたのだと。
思わずすみませんと、口をついて出かけた加賀美だったが、その言葉を先んじて止めるように剣持が声をかけた。
「ここ最近、社長ずっと疲れた顔してたから。偶には良いんじゃないですか、いつも体力おばけ、雷ゴリラの称号を欲しいままにしてるんだし。こういう時に人間らしさ出しておかないと、本当にアンドロイドかダイカガミ縮小版だと思われますよ」
「……それ八割型貶してますよね、剣持さん?」
「もちさん相変わらずやなあ。ま、でも社長が疲れた顔してたのは本当っすよ。Dも最初会議別日にしますかつってたし、一旦時間ずらして様子見よう言うたのは甲斐田やけど」
「多分社長のことだから、別日にずらした方が気にしちゃうかと思って……一度一時間だけずらそうって提案したので、あと三十分くらいは休んでても大丈夫ですよ」
方々から降り注ぐように掛けられる言葉たち。煌めきの虹色にさえ思わせるそれらに、何度かまばたきを繰り返した加賀美はふっと息を吐き出して笑った。ああ、そういえば、この人たちは元よりこういう人だったななんて、今更なことを思い出して。
故に、だろうか。落とした視線の先。自分の身体に掛けられている山積みの服が、三人の羽織りやらジャケットやらだと気付いた時、今度こそ大きな笑い声を上げてしまったのは。
「うわっ、びっくりした」
「思ってるより元気やったわ」
「社長……?」
こんなにも私の仲間たちは、友人たちは、あたたかいひとばかりだ。
それがどんなに嬉しくて、擽ったくて、活力になるか。──ほんのちょっとだけ、忘れてしまっていたようだった。
「……ありがとうございます。剣持さん、不破さん、甲斐田さん」
木漏れ日の袂で、光を浴びるように。屈折した柔らかさが、身に降り注ぐように。疲れた体躯に浸透していくかの如く、優しさが胸に積もっていく。張り詰めていた呼吸は和らいで、固まっていた心は元のかたちを取り戻して。
そうして加賀美は、いつもの自分へと戻れる。いつの間にか自覚していたはずの疲労は、どこかへ流れ出てしまっていたようだった。